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Channel: 世界の真実をネット(転載自由)で広げよう。(国民は情報不足です)
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関東軍上層部(大本営も含め)はなから満州居留民を守るつもりなど毛頭なかった。

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軍人「もともと満州に生業を有し家庭を有するもの並びに希望者は満州にとどまって貴軍の経営に協力せしめ、その他は逐次内地帰還せしめられたい」、帰還までの間は「極力貴軍の経営に協力する如くお使い願いたい」と、数万の満州在籍者が元の職場に復帰すれば産業の運営に役立つ。その他、石炭採掘、満鉄、電々、製鉄会社などに働かせていただきたい、とお願い。
 
>関東軍上層部(大本営も含め)はなから満州居留民を守るつもりなど毛頭なかった。
それどころかソ連にどうぞ使役=奴隷として使ってくださいと懇願している。
 国民には国を守ると言って威張るだけ威張ってすこし反駁したら拷問など当たり前いざという時は見捨てるクソ軍部の正体がこれだった。
こんなクソ軍部は世界でもソ連や支那の軍閥や国民党軍と同レベル。
 だから左翼が目の敵にするのも分かる。
 本当の保守軍隊は国民も国と同様に守るのが本当だ。
 
 
○満州で何がおこったか
(1)3つの大惨害 
①ソ連軍による殺戮、略奪、強姦。(ソ連部隊には、囚人を使った野蛮な武装部隊を有力な部隊として含んでいた )
②関東軍の数十万の将兵が、ポツダム宣言の条項を無視して、シベリアに抑留、長期に強制労働で使役された
③当時、満州にいた百数十万の一般日本人が、満州に遺棄された。
~ ②と③には、戦争指導部の恐ろしい計画が原因となっている。
(2) シベリア抑留
①モスクワからの2つの指令
・8月16日 べリアの指令 /捕虜の扱いについて「3.日本・満州軍の軍事捕虜を、ソ連邦領土な運ぶことはしない。軍事捕虜収容所は、可能な限り、日本軍の武装解除の場所に組織しなければならない」
→ ポツダム宣言にそった内容
・8月24日 スターリンの命令書「1.極東およびシベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本人――日本軍事捕虜を50万人選別すること。 2.・・・ 千人ずつからなる建設大隊を組織すること。」
→ 8日後にシベリア強制政策に逆転
・背景/ もともとスターリンは捕虜を強制労働させる立場。ドイツ兵も大量に国内建設に利用、それをポツダム会議でもチャーチルに平気で話をしている。/が、ソ連は、8月9日にポツダム宣言に署名
~ポツダム宣言の規定は明白 「武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的且生産的な生活を営むの機会を得しめられるべし」
②180度転換~なぞを解くカギは関東軍の対ソ交渉
・全国捕虜抑留者協会会長・斉藤六郎氏が、ソ連崩壊後の1993年、関東軍がソ連側に提出した諸文書を入手。その後、日本側の資料も明らかに ~ あらかになった事実とは
・交渉の重要人物 大本営で活動していた朝枝繁春という参謀。8月10日、勅命を奉じて関東軍に突然派遣
~ 勅命で下された大本営の命令書とは 
1.米ソ対立抗争という国際情勢を作り出すために、赤軍をできるだけ早く朝鮮海峡まで進出するように、作戦を指導せよ
2 戦後の帝国の復興再建を考えて、大陸にいる日本人はできるだけ多く大陸に残留するようにせよ。残留する日本人は国籍をどう変えてもかまわない
→要するに、関東軍はたたかわないで撤退し、ソ連を早く進出させ、そこにいる日本人はソ連占領下に放置しろ、というもの。/ 近衛特使の「人口過剰」の対ソ交渉案と同根。戦争指導部、軍首脳部も一致した方向
→ この内容を持ち、10日、朝枝は関東軍司令部に、大本営の考えを伝える
・さらに8月14日 政府は「慰留民の現地定着」の緊急電を、満州国特命全権大臣に指令
・朝枝 21日 軍使として、ソ連の司令官、政治局員と面会/ 記録はないが・・・
 26日付で大本営に提出した「実施報告」 (斉藤氏が発見した重要文書)
~「在留邦人は・・・極力開戦前の状態に復帰し、ソ連側の命令のもと活動を再興する如く在留邦人においてはソ連側と交渉し努力中なり。」
「規定方針どおり大陸方面においては残留邦人および武装解除後の軍人はソ連の庇護下で満鮮に土着せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とする」
→ 「武装解除後の軍人」を「ソ連の庇護下で土着して生活させてくれ」という要望が、スターリンが日本の将兵抑留をためらったポツダム宣言の縛りを突破できる根拠を提供するものとして活用/ これが24日の命令書となった。21日の会談の三日後のこと
・8月29日 関東軍司令部が「陳情書」を提出  ソ連軍へのお願いとしていっそう明白に
 一般居留民「希望者はなるべく駐満の上貴軍の経営に協力せしめ、その他は内地に帰還せしめられたい」
 軍人「もともと満州に生業を有し家庭を有するもの並びに希望者は満州にとどまって貴軍の経営に協力せしめ、その他は逐次内地帰還せしめられたい」、帰還までの間は「極力貴軍の経営に協力する如くお使い願いたい」と、数万の満州在籍者が元の職場に復帰すれば産業の運営に役立つ。その他、石炭採掘、満鉄、電々、製鉄会社などに働かせていただきたい、とお願い。
★シベリア抑留 スターリンと日本の戦争指導部の合作 /戦争指導部の国民に対する犯罪的行為
(3) 日本国家による“満州棄民”
①もう1つの重大な犯罪~日本の政府と軍が、国策として多数の国民を満州に送り出しながら、危急の時に、国民を救い出す方策を何一つ講じなかったこと。
・満州 1931年の「満州事変」という一方的な侵略戦争で、中国から強奪し、32年傀儡国家「満州国」をつくりあげ(国際連盟で42対1で建国否定の決議。脱退のきっかけに)、敗戦まで占領しつづけた地方/ 関東軍総司令官が特命全権大使を兼任。国家機構全体が関東軍の支配下
・敗戦当時 一般居留人135万人(関東軍資料)、うち「満蒙開拓義勇軍」として送り込んだ30万人の農業青少年年を含む
・日本の戦争指導の方針~“日本に帰国させない。満州に土着してそのまま生活しろ”というもの
 その最初が近衛文書/ 朝枝参謀の命令書が実証「戦後の帝国の復興再建を考えて、大陸にいる日本人はできるだけ多く大陸にのこすようにせよ」/関東軍の対ソ交渉 帰国の要望なし、「現地土着」への協力の要望だけ
・関東軍に満州防衛の任務なし/45年5月大陸命 対ソ戦開始の際は、朝鮮の北部の三角地帯以外の満州の放棄/8月9日大陸命「皇土朝鮮を保護」と、日本本土と朝鮮の防衛が任務と命令/ 8月10日 朝枝が書き天皇の承認をえた命令=関東軍は撤退しできるだけ早期にソ連軍を朝鮮海峡に引き寄せよ、という満州、朝鮮を放棄するもので、在住する日本人の「大陸残置」方針を明記
→ 戦争指導部も関東軍も、一般日本人の保護、生命と安全の保証などはまったく考えず
・だから、敗戦後の関東軍の対ソ交渉も「大陸残置」への懇願に終始/既定方針の実行であり当然と考えた
→肝心の日本人の意見は何一つ聞かず、軍が決めたら国民は従うだけ、とう軍部絶対の傲慢さをむき出しに示した。
・世界の動きへの無知 ~ 満州がソ連領になるという思い込み(自分たちの行動から発想)、炭鉱、満鉄など仕事先まであげて、現地土着を懇願 ~ 満州は中国領。ソ連は軍事的任務が終了すれば撤退を米英中に約束して参戦
→ソ連軍は「土着」の要求など相手にせず46年6月撤退。満州の統治は中国に。60万人の将兵のシベリア移送も
完了。/満州経済にしたことは復興の手助けでなく、工場地帯から持ち出し可能な機械類を根こそぎソ連に持ち帰えったたけで、在満日本人のことは関心外のこと。
②国家に捨てられた在満日本人はどんな運命をたどったか
・8月10日 関東軍は撤退を決定。特別列車で脱出させたのは自分たちの家族と満鉄関係者だけ
・新京の一般市民は、危険な戦況、総司令部が脱出したことは、一切知らされず、ソ連軍の侵攻・占領に直面
・開拓団が配置された東・北・西満はさらに悲惨/ ソ連参戦後、関東軍が一般日本人、開拓団員に「数日の疎開。4日分の食料と身の回りのものをもって○○に集まれ」と命令 ~ 指定された場所にあつまると、すでに部隊は退却後。無数の日本人が生活拠点から引き離され、知る人のいない荒野になげだされ、ソ連軍、「報復暴民」(政府と関東軍は、2千万ヘクタールの土地を地元農民から奪い、開拓団を入植させた。その怒りが開拓団民にむけられた)に追い詰められ、戦死、餓死、病死、凍死に。
・ソ連参戦から引き上げ終了までの満州での一般日本人の死亡 24万5千人。当時在満一般日本人の2割近い
*永江満江「鎮魂満州」~「満州で死んだ人に政府も一言の哀悼の言葉もかけてない」「北満方正件で死亡した4千人を中国人が何日もかけて荼毘に付して大きな日本人公墓をつくってくれことに感謝もしないし、管理費も拠出しない」「24万5千人の犠牲者も政府が誠意をもって調べた数ではない」(民間団体が生き残った関係者の記憶をもとに、各収容所人数から死者行方不明者を引いたり足したり、逆算したりして出した数)
★今年は戦後70年、あの戦争がアジア諸国民に侵略と植民地化の巨大な惨害を与えた侵略戦争であったことを直視するとともに /日本の戦争指導部が、日本国民に対しても深刻な加害責任を負っていることも直視すべき

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