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韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1

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何遍も言うがそもそもこの半島に関わったのが日本人の大きな不幸の始まりだったということだ。
 
 
 

韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1

わが国の初代首相であった伊藤博文は、明治42年(1909)10月26日にハルビン駅頭で、韓国の独立運動を進めていた安重根によって射殺されたというのが定説になっている。

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韓国では、安重根は抗日戦争の英雄と評価され、1970年にはソウルに「安重根義士記念館」が建設されるなど、まるで韓国の国民的英雄扱いだ。

しかし、
伊藤博文を暗殺した犯人は安重根でないという説が、随分昔からある。

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そもそもこの時に伊藤博文の随行員として事件現場にいて、自らも5発も銃弾を受けたものの一命を取り留めた貴族院議員の室田義文(むろたよしあや)が、「伊藤に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない」と断言しているようなのだが、なぜこのような重要な証言が永年無視されてきたのかと疑問を持たざるをえない。そもそも安重根が撃った銃弾は5発なのだ。伊藤、室田の他にも4名の随行員が撃たれているのだ。

室田義文の証言の話に入る前に、伊藤博文が暗殺されるまでの経緯を、Wikipediaなどを参考に振り返ってみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87

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明治38年(1905)の第二次日韓協約によって大韓帝国が大日本帝国の保護国となり、韓国統監府が設置されると伊藤博文はその初代統監に就任した。
伊藤は国際協調重視派で、韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥としばしば対立し、韓国については、国力がつくまでは保護国による実質的な統治で充分との考えから、当初は日韓併合反対の立場を取っていたという。しかし、その後韓国内で義兵闘争が盛んになって考え方が変化したらしく、明治42年(1909)4月に、時の首相・桂太郎と外相・小村寿太郎が韓国併合策を陳述すると伊藤統監はそれを是とし、5月には統監職を辞し帰国して枢密院議長となり、7月に閣議決定された「適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事」に伊藤が反対した形跡はないのだそうだ。
そして伊藤はその年の10月にロシア帝国蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うために哈爾濱(ハルビン)を訪れた際に、そこで何者かに射殺されてしまった。

では、この背景について、一般的な教科書ではどう書かれているのか。
『もう一度読む 山川の日本史』には、こう記述されている。
「(わが国は)列強の植民地政策をまねて、東アジアにおいて勢力拡大をはかった。日露戦争中から戦後にかけて、3次における日韓協約を結んだ日本は、韓国を保護国として統監をおき、韓国の外交・内政・軍事の実権をつぎつぎと手中におさめていった。
韓国では、韓国軍の解散に反対して義兵運動を展開するなどはげしく日本に抵抗したが、日本は軍隊を出動させて鎮圧した。1909(明治42)年には、前韓国統監
伊藤博文がハルビンで韓国の民族運動家に暗殺される事件がおこった。日本政府は1910(明治43)年、ついに韓国併合をおこなって(韓国併合条約)、韓国を日本の領土とし、朝鮮総督府をおいて植民地支配をはじめた。」(p.253)

このような記述を普通に読めば、西洋列強が植民地を搾取したのと同様に、わが国も韓国を搾取したように解釈してしまうところだが、当時の韓国は国家の体をなしていなかったことをまず理解しておく必要がある。

加耶大学客員教授の崔基鎬氏はこう書いている。
「…当時の韓国の財政は破滅的状態で財源は涸渇し、政財界には不正と腐敗だけが蔓延していた。
伊藤が統監として赴任した三年間、彼は祖国日本から無利子、無期限の資金3000万円を引き出し、韓国の道路、学校、土木工事、鉄道、病院建設にこれを充当した。
彼は韓国および韓国人のために、中央政府の大臣と、地方長官には韓国人を任用し、日本人はその下の補助役に就かせるにとどめた。そればかりではなく、日本人には荒蕪地の開発などの難しい仕事をやらせた。だがこうした事績は、韓国では(あるいは日本でも)、不当にも抹殺されて、顧みられることもない。…
李朝当時の韓国は、両班(ヤンパン)という堕落した不労所得者の貴族集団が、良民、農民たちから財産と生産物を奪い、百姓たちは瀕死の状態に喘いでいた。
李朝の500余年間、正式の学校もなく、名ばかりの国立(官立)学校が4校あるにすぎなかったが、伊藤は、教育の重要性を考えて『普通学校令』を公布し、統監府時代(1906-1910)には、すでに日本の資金で100校以上が築造され、合邦以後もそれは続き、1943年には5000校に達した。
また李朝の腐敗した統治にあってインフレーションに悩む民衆のために、朝鮮を『円通貨圏』に統合した。朝鮮史上、紙幣が流通したのは、実はこれが初めてのことで、これによって物価が安定し、朝鮮に『現代的貨幣制度』が確立されたことも、伊藤の功績である。」(『歴史再検証 日韓併合』祥伝社黄金文庫p.18-19)

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「敵国であった明の協力で打ち立てた国であるから、その後の李朝が明の隷属国家に転落したのは必然である。国民は奴隷民族化され、私有財産も没収された。李朝は専制王権制度に体制を変え、朝鮮民族が古代から高麗にいたるまで連綿と持ち続けた国際的自尊心を放棄し明の属国として堕落が始まった。
このような環境の中で、階級制度は固定化し、創意工夫の精神は圧殺された。こうして李朝は、搾取と虐政の中にあり、国王は名ばかりでなんら政策も施さず、その政府には国家の予算すら存在しないという無軌道ぶりだった。いわば民衆は無政府状態に置かれていたのだった。

清と朝鮮との主従関係を断ち切ろうとした日本の狙いは、実際には実現にはほど遠く、清の保護下にある李朝の専横は変わることなく、民衆は相も変わらず、塗炭の苦しみを味わいづけてきた。近代化と自主独立の道を拒否しつづける李朝の存在は、東アジアの状勢に不穏な種を宿していたのである。


目賀田種太郎

1904年、日清戦争に続いて日露戦争を控えた日本は、こうした朝鮮の惨状を見かねて、目賀田種太郎を財政顧問として派遣し、日本からの財政支援をもとに、李朝をまともな国として建て直すという態勢がようやく緒につくことになった。
目賀田財政顧問と統監府は朝鮮の歳入不足分を補填するために、日本国民の税金から、大韓帝国政府に無利子、無期限の資金『立替え』を実施したほか、直接支出で援助した。
たとえば1907年度で、朝鮮の国家収入は748万円しかなく、必要な歳出は3000万円以上であったから、その差額は全額日本が負担した。
1908年度には、これがさらに増えて、合計3100万円という巨額の資金を日本は支出した。
統監府時代の4年間に、日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足分は、1428万円にのぼった。
そればかりではなく、司法と警察分野などに日本政府が直接支出した金額は、立替金の数倍、9000万円に達している。現在の朝鮮・韓国の歴史では、日本の特恵的支援には一言も言及がなく、侵略だけを強調しているが、これがいかに偏狭な史観であるかを自覚しなければ将来は開けない。
1910年8月29日には、明治天皇から恩賜金として3000万円が与えられ、旧韓国が日本政府から借用していた2651万円は、そっくり棒引きされた。」(同上書p.20-22)

わが国の教科書も崔基鎬氏のいう「偏狭な史観」に少し毒されていることになるのだが、韓国の学者が次のように述べていることを日本人はもっと知るべきではないだろうか。
「日韓併合によって、搾取され呻吟したのは、韓国・朝鮮国民ではなく、日本国民であった事実を認めるべきである。」(同上書p.24)

この記述が正しいことはわが国が統治する前と統治後の写真を比較すればわかる。

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いずれもソウルの南大門の写真だがどう変わったか一目瞭然だ。

次の写真もソウルのものだが、貧民窟のような首都に道路が整備され瓦屋根の家が立ち並ぶようになったことがわかる。

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イギリスの旅行家・イザベラ・バードが1894年から1897年にかけて4度にわたり朝鮮を旅行し、首都ソウルについてこのように記している。
「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民はおもに迷路のような横町の『地べた』で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。悪臭ぷんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。…」(『朝鮮紀行』講談社学術文庫p.59)
このような記述がまだまだ続くのだが、この本は韓流ドラマかぶれの方に是非読んでいただきたいものである。

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次のURLに多くの写真が紹介されているが、この写真を見れば、李氏朝鮮の時代は、イザベラバードの記述が正しいことは誰でもわかる。
http://www.geocities.jp/hiromiyuki1002/cyousenrekishi.html

朝鮮半島はわが国のインフラ投資などにより急激に豊かになり、人口が大幅に増加していることが統計数字からわかる。
韓国の教員用国定歴史教科書によると、1777年に韓国の総人口は1804万人であったが、100年後の1877年には1689万人で減少していた。それが日韓併合時の1910年には1313万人で、それが32年後の1942年には2553万人になっているという。

このような背景を知ると、韓国の近代化に尽力した前統監の伊藤博文が韓国人によって暗殺されたという話は、当時一般の韓国人にとって喜べる話であるはずがなかったと思われる。伊藤博文が暗殺された翌日(10/27)に韓国皇帝(
高宗)は伊藤のことを「韓国の慈父」だと述べたそうだが、多くの韓国人も同じような思いではなかったか。

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皇帝の言葉は次のようなものであった。
「伊藤を失った事で、東洋の偉人がいなくなった。
伊藤は我が国に忠実と正義の精神で尽くしてくれた。
自分の骨を長白山に埋める覚悟で、韓国の文明発達に尽くすと言っていた。
日本に政治家はたくさんいるだろう。
しかし伊藤のように国際政治を理解し、東洋の平和を祈った者はいない。
本当に伊藤は韓国の慈父だった。
その慈父に危害を加える者があるとすれば、物事を理解できない流浪人だろう。」

また、10月28日には韓国皇帝はさらにこう述べたという。
「伊藤を失った事は、我が国だけの不幸ではない。
日本だけの不幸ではない。
東洋の不幸である。
その暴徒が韓国人である事は、『恥ずかしさの極限』である。」

韓国は今の北朝鮮と同じで、どこかの国の支援がなければいつ国家破産してもおかしくなかった。普通に考えればわかることだが、経済で自立ができるはずもない状態の国が独立する力などあろうはずがない。

にもかかわらず、今の韓国では安重根を「独立の闘士」などと呼んで英雄扱いしているようなのだが、多くの識者が指摘しているように、伊藤博文の暗殺事件によって、結果的に日韓併合は早まったのである。日韓併合を望んでいた勢力に勢いを与えた安重根の行動を賞賛することは論理的にもおかしなことであり、皇帝の言葉でも明らかなように、当時の国民が安重根を賞賛していたわけではない。安重根が英雄扱いされるようになったのは戦後になってからのようなのだ。

伊藤の暗殺事件のわずか39日後に、韓国最大の政党であった一進会が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏している。
Wikipediaにこの声明の一部が紹介されているが、あの国がわが国に出す声明にしては随分低姿勢だ。
「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88

伊藤博文の暗殺を機に韓国では独立を堅持することよりも日本との併合によって地位の向上を図るとする考えが優勢となった。
わが国は、莫大な資金が必要となる韓国併合に反対する声が強かったのだが、伊藤博文暗殺後に併合推進派が優勢となり、主要国も日韓併合に賛成したことから、早期併合することが閣議決定し、1910年8月22日に日韓併合条約が調印されて、正式にわが国は韓国を併合したのである。

そこで、再び伊藤博文の暗殺事件に話を戻す。この暗殺事件は目撃証言や、銃声の数、弾丸の種類、死体検視調書からは単独犯ではあり得ず、伊藤を死に至らしめた銃弾は安重根の撃ったものではないという
室田義文の重要な証言などは、どういうわけか葬られてしまった。それは何故なのだろうか。

その話を始めるとまた文章が長くなるので、次回に記すことにしたい。

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