Quantcast
Channel: 世界の真実をネット(転載自由)で広げよう。(国民は情報不足です)
Viewing all articles
Browse latest Browse all 619

世界約半分の人口が中国国内で大移動「大国の特権」を感じる春節の風景

$
0
0
国家が急速に発展する過程が、中国人民たちに狭隘で攻撃的なナショナリズムを台頭させている点である。この感情の根底には、「自分たちはアヘン戦争以来、特に抗日戦争を通じて屈辱の歴史に遭った。今こそそこから自らを解き放ち、リベンジしなければならない」という復讐心に満ちた被害者意識が眠っている。習近平共産党総書記が就任以来掲げる、「中華民族の偉大なる復興」と定義される“中国の夢”というスローガンが、その意識を一層強烈で、普遍的な産物へと変貌させている。
>爆買いに喜んでばかりしている場合じゃない、シナ人の本心は中華思想であり日本人もそれにひれ伏さねばならないという危険な思想だ。彼らはそれが当然だと考えている。すべての中国人がそうではないが、強硬な意見が主導権をにぎっているのが実情だ。

春節の秋葉原で見て考えた“中華思想”と“民族主義”


世界約半分の人口が中国国内で大移動「大国の特権」を感じる春節の風景

 先週末、私は約2週間に及んだ一時帰国を経て、北京に戻ってきた。北京首都国際空港第3ターミナル(主に国際線用)から空港エクスプレスに乗り込み、約25分で北京市街の北東部に位置する三元橋駅に着いた。そこから地下鉄10号線に乗り換えると、土曜日・お昼という時間帯を考慮しても、「乗客少ないな」という印象を持った。がら空きといってもいいくらいだ。
 次の瞬間、はっとして、我に返った。
 中国はまだ春節(旧正月、2016年は2月8日)の期間中で、多くの北京住民たちはまだ帰省中であったのだ。最寄りの駅に到着後、昼食を取るべくうろうろしたが、ほとんどのレストランや食堂は営業していなかった。入り口の張り紙に目をやってみると、多くが現在は春節休みで、2月15日(月曜日)から営業するとのことであった。あたりを見回しても、日常に比べて、歩行者や自動車の数が極端に少ないことに改めて気づかされた。
 中国社会には「春運」(チュンユン)という言葉がある。文字通りに直訳すると「春節運輸」で、春節期間中、およびその前後に大規模に起こる交通運輸状況を指す。私はこれを「毎年恒例の民族大移動」と自己解釈してきた。近年の「春運」期間中(40日間)の移動状況を振り返って見ると、2006年に初めてのべ20億人、2012年に初めてのべ30億人を突破し、2014年にのべ36億人、昨年はのべ28億人、今年はのべ29億人強になる見込みと言われている。世界約半分の人口が、中国の大地のなかで大移動を展開するのである。
 今年の春運は1月24日に始まって、3月3日に終わる。これは私の個人的認識であるが、個人差はあれ、春節を挟んだ約1ヵ月の間、中国の人々はお正月気分に浸る傾向にある。仕事をしていても気分はお正月という感じであるようだ。アメリカ人がサンクスギビング(感謝祭)である11月の第4木曜日前からホリデー気分に入り、そのままの状態でクリスマス、そしてハッピーニューイヤーを迎える“ノリ”に近いのかもしれない。
 余談になるが、日本で約18年、中国で約10年、米国で約3年生活した経験からすると、昨今において“米中二大国”時代を形成するアメリカ人と中国人は、「年間のうち、土日以外に1ヵ月くらいはゆっくり休まないとやってられない」という潜在的なマインドを共有しているような気がする。「大国の特権」などと言っては極端すぎるだろうか。いずれにせよ、そこには、お世辞にも休むことを良しとしないように映る日本国民にはない“余裕”というか、余暇の精神が垣間見える。1人の日本人として、そんな光景を前に、そんな人々を横目に、ついつい色々考えこんでしまう今日この頃である。
 前置きが若干長くなってしまった。通常は中国共産党をめぐる政治、経済、外交といった動向をケースに中国民主化問題を考える本連載であるが、今回は春節番外編として、春運の前半期が終了した今現在、私自身が日本の街角で垣間見た中国人観光客の素顔や行動をケースにしつつ、「民族性」という視角から中国民主化研究という本連載の核心的テーマに迫ってみたい。いつもよりもリラックスした心境と柔らかいスタンスで、換言すれば、お正月のノリでお読みいただければ幸いである。 

秋葉原はチャイナモデル一色漏れ伝わる「中華思想」の息遣い

 2月9日、春節の翌日に当たるこの日のお昼すぎ、私は数年ぶりに東京の秋葉原へと足を運んでみた。何気なく通りかかったのではない。意識的にJR山手線秋葉原駅で下車した。駅内の階段を下っていると、銀聯カード(Union Pay)の使用がこれまでよりも柔軟で便利になったことを告げる広告数枚が両目に飛び込んできた。書かれている言語は中国語だ。
 中国的な匂いが漂う改札から出ると、中国語による放送が聞こえてきた。目の前にあったヤマダ電機・LABIが出処のようだ。耳を傾けていると、その放送内容は中国語のみで繰り返されていた。店の前では、日本人男性店員2人が数枚のプラカードを同時に掲げていた。浙江省杭州市を拠点とするアリババグループの商品である「支付宝」(ALIPAY)が、店内で使用できることを宣伝していた。店内やエレベーターの所々にも、「歓迎使用支付宝」の宣伝ポスターが貼られている。それを見た中国人観光客たちは、案の定「おお、支付宝使えるんだ。それは便利だ」と自然な笑顔を振りまいていた。
 どこに行っても中国的なものがある。中華料理が食べられる。中国語が使える。チャイニーズスタンダードに触れられる。チャイナモデルが機能している。
 “中華思想”が刺激されたのかもしれない。
 同店の2階は免税店売り場だったが、お客さんはほぼ全員中国人観光客であった。同階における店員さんの半分も中国人スタッフという具合であった。秋葉原という中国人観光客に有名なスポットということもあるだろうが、同店内の光景は「中国人観光客なしに、日常は語れない」という空気を醸し出していた。
 それは、横断歩道を渡ったところに位置する、お店の上に大きく「熱烈歓迎!」と書かれたドラッグストア・マツモトキヨシでも同様であった。中国人スタッフと中国人観光客が、薬や化粧品をめぐる質問や解説から入り、数分も経たないうちに、観光客側がスタッフに向かって「いつから日本にいるのか?」「生活はどうか?」「夫や子どもはどうしているのか?」「不動産を買うのと借りるのではどちらが得か?」「日本国籍や永住権を取るにはどうしたらいいか?」などと質問攻めにしていた。彼女らは初対面だろうが、それにしてはなかなかプライベートでデリケートな会話をするものだ。
 中国人特有の同胞意識がそうさせているのだろうか。
 マツモトキヨシの店内で働いていた女性スタッフに「最近、中国からのお客さんの動向はどうですか?」と一言うかがおうと思い、数分その場で待ってみたが、売る側と買う側という関係、および公共の場という空間を超越したマシンガントークを展開する彼女らは、日本人である私が入り込む隙など与えてはくれなかった。四川省出身という女性スタッフの1人は、自らの旦那が東京で中華料理を営んでいる経緯を説明したり、となりにいたもう1人の若い女性スタッフが東京で留学している過程における状況などを、中国人観光客に力強く語っていた。
 事実、そこは日本の領土内ではあったが、私はチャイナタウンという概念を超えて、中国国内に身を置いているような錯覚に陥らずにはいられなかった。
 秋葉原の某電気店で、来日30年、すでに日本に帰化し、日本の氏名で仕事をしている1人の“中国人女性”Nさんに出会った。Nさんと最近の中国人観光客の動向を日中関係や中国経済といった観点から語り合ったが、私が最も印象的だったのは、次のやりとりであった。

メイド・イン・ジャパンをアピールすると怒ってしまう中国人観光客の「民族主義」

 私はずっと興味を持っていたことをぶつけてみた。
「帰化したとはいえ貴方も中国人ですよね? 日本という場所で、中国人が中国人に対してサービスする過程をどのように捉えていますか? 何か感じることや思うところはありますか?」
 Nさんは表現欲に火がついたかのように語り始めた。
「私が一番イヤな状況ですが、中国人観光客に対して“これはメイド・イン・ジャパンの炊飯器ですよ。メイド・イン・ジャパンの製品ですよ”と宣伝していると、往々にして中年の男性が横から口を挟んできて、腹を立てて言うのです。“メイド・イン・チャイナのどこが悪いんだ!?”と」
「私は別にメイド・イン・チャイナが悪いと言っているわけではありません。そんなことは一言も口にしていません。ただ、彼らは日本に観光に来ていて、そのほとんどは日本の商品やサービスを良質だと認識しているわけです。一店員である私がそこを強調し、商品を売り込もうとするのはごく自然なことでしょう。でも彼らは怒ってしまう。仮にもお客様ですから、私は礼儀正しく振る舞い続けるしかない。ただ内心は不満だらけです」
 民族主義。
 とっさにこの4文字(筆者注:中国語で「民族主義」は日本語の「ナショナリズム」とほぼ同義的に使用されることが多い)が私の脳裏をよぎった。
 Nさんが中国語をネイティブとする同じ中国人で、しかもすでに帰化して、日本で“良い暮らし”“良い思い”“良いパスポート”を享受しているジャパニーズ・シチズンであるからこそ気に食わないのだろう。仮に、日本で生まれ育った根っからの日本人がNさんのような振る舞いをしたところで、あのような反応や反発は起きなかったのではないかと私は想像している。
 私は、19世紀における戊戌の変法を含め、往々にして内乱が原因で改革や発展が頓挫してしまった中国史を、頭のなかで振り返っていた。
 春節期間中に秋葉原で体験したエピソードを元に、中国民主化研究という観点から私が考えたことが2つある。
 1つは、中国経済の規模が拡大し、中国人民の購買力や消費欲に火がつき、それらが国境を越えて、世界各地に拡張・浸透していく過程が中国人の潜在意識に眠っている“中華思想”を再現させている点である。ここで言う“中華思想”とは、チャイニーズ・セントラリズムとでも言うべきか、中国人が「この世界は自分たちを中心に回っている」と無意識のうちに考える習慣を指すことにする。
 日本だけでなく、隣の韓国、欧米や東南アジアを含め、多くの国々は近年ものすごい勢いで流れ込んでくる消費欲の旺盛な中国人観光客や中国人留学生にビジネス的に対応すべく、中国語対応や銀聯カードなどを含め、あらゆるサービスを行っている。日本の少なくない大手百貨店が銀聯カード対応やそれを使用することによるディスカウントを提供するのは、相当程度の規模と金額が見込めるからであろう。これらの対応自体は自然な流れであるし、ウィン-ウィン思想に基づいた合理的なアプローチと言える。
 ただ、中国人であるが故に、中国語を使うが故に、世界の主要都市であればどこに行っても“何不自由ない”サービスを受けられてしまう現状を、中国人たちの意識や姿勢の変化という視点から捉えた場合どうだろうか?

「我々こそがここのメインゲスト」無意識のオーラを出す中国の若者たち

 抽象論を並べても生産的ではない。ここでは、昨年末にアイスランドに滞在したときのエピソードを紹介することを以て、私からの問題提起としたい。
 私は主に首都レイキャビクを拠点に活動していたが、空港、バスターミナル、商店街、土産物店、レストラン、ホテル、ブルーラグーン……どこへ行っても観光客の半分が中国人であったのに正直驚いた。
 ある日の夜、ダウンタウンにある若干高級な、バイキング形式のシーフードレストランに入ってみると、客の3分の2以上が中国人、しかも20代前半だと思われる若者であった。地元のお金持ちに見える他の中高年客たちは、不思議そうな眼差しと表情で彼ら、彼女らの取りっぷりや食いっぷりを眺めていた。
「あんなに若いのに、なんでこんな高級店に来れるのだろう? どこでそんな大金を稼いだのだろう?」
 こんな風に問いかけているように私には映った。直接聞いたわけではないため確証は持てないが、私の経験から想像するに、集団行動していた彼ら、彼女らはおそらく欧米で留学している学生である。クリスマス休みにアイスランドに旅行に来たのだろう。そして、その資金源は両親からの支給だと想定される。
 それはそれで中国社会では常態であり、議論に値しないが、私が気になったのは彼ら、彼女らの態度である。若干誇張的な表現になるが、「このレストランは我々が支配している。我々こそがここのメインゲストだ」というようなオーラを発散していた。大人数だったから余計にそう映ったのかもしれないが、私からは、彼ら、彼女らがそこを“ホームグラウンド”と何ひとつ違わない空間と認識しているように見えた。そして、真の問題点は、彼ら、彼女らに悪気がないことである。別に周りに迷惑をかけようとしているわけでもない。無意識のうちに、潜在意識のなかに、そういう態度やオーラが存在しているのである。
 そして、それらは国境を越えて機能する。

国家の急速な発展が生み出す狭隘で攻撃的なナショナリズム

 私から見て、このエピソードに象徴・凝縮される事情は、中国社会・中国人民が普遍的価値観やグローバルスタンダードに慣れ、徐々にでもそれらを重んじることを通じて21世紀における自らの立ち位置やマインドを探索するプロセスを阻害する。やや極端に換言すれば、“中華思想”が相対化されないまま21世紀をも走り抜けることになってしまう。良い悪いの問題ではないが、私はそれを1つの問題、世界の情勢と人類の未来に関わる問題だと認識している。
 2つに、Nさんとのやり取りに象徴・凝縮されているように、矛盾や不都合を抱えつつも、国家が急速に発展する過程が、中国人民たちに狭隘で攻撃的なナショナリズムを台頭させている点である。この感情の根底には、「自分たちはアヘン戦争以来、特に抗日戦争を通じて屈辱の歴史に遭った。今こそそこから自らを解き放ち、リベンジしなければならない」という復讐心に満ちた被害者意識が眠っている。習近平共産党総書記が就任以来掲げる、「中華民族の偉大なる復興」と定義される“中国の夢”というスローガンが、その意識を一層強烈で、普遍的な産物へと変貌させている。
 2012年から2015年にかけて、私はボストンとワシントンD.C.で生活していたが、そこで学ぶ中国の大学院生たち(その多くは中国国内で学部を卒業していた)と米国の自由や民主主義、憲法の精神といった制度や価値観に関して感想を述べ合い、それらがいかにして米国を現在のポジションまで引き上げてきたかといった内容を議論していると、必ずと言っていいほど(特に男子学生から)出てくる反応がある。
「しかし、米国には高速鉄道すらないではないか?」
「ボストンの地下鉄はいつの時代のものだ? 古くてボロすぎる」
「あの建物、どれだけ長い間改装すればいいのだ」
 曲がりなりにも中国人と付き合ってきた人間として、彼ら、彼女らの民族感情を尊重すべく、私は米国の制度や価値観の優位性を議論する際に、極力中国との比較を避けている。日本を引き合いに出すのも避けるようにしている。
 それでも、「貴方はそうやって間接的に中国を批判しているのでしょう」と聞こえてしまっているようだ。上記のコメントの背後にある潜在意識は、言うまでもなく「中国だって負けていない。いや、我々のほうが優れている場合もある」といったところだろう。Nさんに対してつっかかる「メイド・イン・チャイナのどこが悪いのだ!?」と、根源的には一緒である。

春節で中国人の「発見するチカラ」が奪われているとしたら、皮肉な話だ

 私は、激動の発展期・転換期を生きる中国人民がこのような競争心や自尊心を随時・随所で発揮するのは自然なことだと考え、理解を示している。そういう心持ちがポジティブに働く場合もあるだろう。多くの中国人は向上心やハングリー精神に富んでおり、競争、特に“本番”に強い。敬服に値する。
 私が問題にしているのは、ナショナリズムが行き過ぎることによって、彼ら、彼女らが日本や米国といったいわゆる先進国における先進性を重んじ、そこから何かを学ぶことを通じて自らの発展や進歩につなげるという、真の意味でしたたかで、かつ謙虚な姿勢が無意識のうちに奪われてしまうことである。
 仮に1人の中国人が他国を訪問し、他社会に接する過程で感じ、見出した結論が「やっぱり中国はすごい! 中国のほうが進んでいる! どうだ、見てみろ!」なのであれば、それは中国のためにならないのではないか。お世辞にも、愛国的とは言えない感情であり、言動ではないか。
 私は、中国人民の多くが激動の時代を懸命に生きていることを知っている。そんな彼ら、彼女らが苦心して貯めたお金で、家族と一緒に出国し、1年の努力を互いに労うために用意されているのが、春節という人民の祝日だ。仮に、そんな大切な時空において、行き過ぎた“中華思想”や“民族主義”が、中国社会が未来に向かって有機的に発展するための発見するチカラと感性を奪っているのだとしたら、それは皮肉というよりは、悲しいことではないか。
 窓の外では風がピュンピュン吹いている。今年の北京の冬は長くなりそうだ。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 619

Trending Articles