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池上彰も「驚くべき史実」と語る占守島の戦い

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日本人が絶対に知るべき歴史。

占守島(しゅむしゅとう)の戦い、司令官池田末男大佐。
規模は全然違うが日本を守った日露戦争と同等の価値あるこの歴史を教科書に載せるべきだ。
 結局この戦いも本国の命令で武装解除し捕虜となりシベリアに抑留され悲惨な末路となった。
 なぜ日本から迎えの船を出さなかったのか。
ソ連兵を窮地に追い詰めていたのに。大群のソ連兵を殺そうと思えば殺せた有利な条件と引き換えに日本兵を安全に日本に返すこともできたのに。
政府に有能な人材がいなかった。

池上彰も「驚くべき史実」と語る占守島の戦い


「まさに教科書に載っていない歴史」(池上彰)


 今年の夏以降、にわかに話題を集め続けている太平洋戦争期の「秘史」がある。1945年8月の「占守島(しゅむしゅとう)の戦い」だ。
 占守島の戦いとは、太平洋戦争が「終戦」した2日後の1945年8月17日深夜(18日未明とも)、日本領だった千島列島北東端・占守島に、ソ連軍が攻め込んだ出来事だ。当時、日本とソ連は中立条約を締結していたが、ソ連は千島列島、樺太、さらには北海道の北部を日本から奪い取ろうと「不法侵攻」を仕掛けた。

 この時、ソ連軍の侵攻を食い止めたのが、占守島に残っていた日本軍将兵だった。この史実は、戦後の日本においては、作家の浅田次郎氏が小説『終わらざる夏』で題材にしたことはあったが、語られることは多くはなかった。

 しかし今年の夏、「終戦70年」を契機として、いくつかのメディアが占守島の戦いを取り上げた。また、11月上旬には、今年に占守島などで見つかった日本軍将兵の遺骨が、ロシアから日本の遺族団へと返却されたことも報じられた。

 そして、ここにきて再び、地上波のテレビでも占守島の戦いが取り上げられるなど、メディアの注目も高まっている。11月22日(日)19時54分から放送される『池上彰の教科書に載っていない20世紀~戦後ニッポンを救った知られざる人々~』では、実際に占守島をルポ取材。番組についての記者会見で、ジャーナリストの池上彰氏は「(もしも日本軍守備隊の活躍がなければ)北海道北部に『日本民主主義人民共和国』ができていたかもしれない。まさに、教科書に載っていない20世紀の歴史」だと指摘した。

 「当時、ソ連のスターリンは第2次世界大戦の戦いを『大祖国戦争』と呼んだ。祖国を守る戦い、ドイツから祖国を守る戦いだったはずが、実は『祖国の栄光のために』と、日露戦争で日本が領有化した土地を『奪い返す』という思いも抱いていました。

 実は、占守島で日本軍の守備隊が必死に戦った結果、北海道北部がソ連に占領されないで済んだんじゃないか……。これは、驚くべき話です」(池上彰氏)

「8月15日、皆が無事に帰れたわけじゃない」(宮崎美子)


 同番組に出演し、実際に占守島で取材した宮崎美子氏は、次のように語る。
 「終戦って、いつなのか。1945年8月15日じゃなかったのではないか。どこで区切りつけるのか。占守島の戦いは、まさにその話。8月15日に玉音放送があって、その場で全部戦闘は終わり、皆、無事に帰れたわけじゃなかった。そこから始まった戦いがあって、その結果が、今の北方領土問題にもつながっています。

 今回、ロシアでの取材で現地の方の話を聞きました。千島列島は、もともとは平和的にロシアと日本で条約が結ばれて、平和裏に日本の領土になったのですが、そうじゃないように現地では教えられていました。『日露戦争の時に奪い取られた千島列島を、我々が血で購って取り返した』と。

 『だから北方領土も自分たちのものだ、当然だろう』って怒られたこともありました。そうした点は、実際に取材を行なわないと分からないことです」(宮崎美子氏)

 ロシアの教科書には、占守島の戦いでは「正義の戦いとして載っている」(池上氏)という。その一方で、日本においては宮崎氏が「正直、私もこれまでは知らなかった」と語るように、ほとんど語られることはなかった。

 だからこそ、今こそ占守島の戦いを伝えたい。そう語るのが、池上氏の番組のプロデューサーを務めた堀靖彦氏だ。

 「占守島と聞いて、終戦後に日本とソ連が死闘を繰り広げた場所という史実を、果たしてどれだけの日本人が知っているでしょうか。歴史を知ることこそが、私たちの進むべき道を教えてくれます。

 正しい歴史認識のためには、正しい歴史教育が必要なのは言うまでもありません。そんな思いを抱くなかで、今回の番組も生まれました」(堀靖彦プロデューサー)
 池上氏は、「占守島の戦いに関しては、まだ当時を体験したご存命の方もいらっしゃいます。しかし、これからは、そうした方々がいらっしゃらなくなっても、『日本には色々な戦いがあったんだよ』と伝え続けることが必要ではないでしょうか。今回は占守島の戦いですが、インパール作戦やノモンハン事件もそうでしょう」と語る。

 占守島の戦いがなければ、戦後の日本の歴史は、多かれ少なかれ変わっていた可能性が高い。その意味では、終戦後、待ち焦がれていた故郷に帰る夢を置き、再び武器を手に取った日本軍将兵の姿は、池上氏が語るように、先の大戦の史実の中でも、特に今後も語り継がれるべきであろう。


占守島の戦い、少年戦車兵の証言~「どこでもいいから撃て。乱射せい」

2017年08月04日 公開
相原秀起(北海道新聞函館支社報道部長)

占守島、竹田浜
ソ連軍が攻め込んできた竹田浜
(写真提供:相原秀起)
 

火を噴く15サンチカノン砲

小田英孝(旧陸軍元少年戦車兵)は戦車前方の車載機関銃を握っていた。だが、周囲は低木のハンノキやハイマツが茂り、小さな覗き窓から前を確認しようとしたが、木々の枝が視界を遮り、何も見えなかった。併走しているはずの第四中隊の他の戦車の位置もまったくわからなかった。97式車載重機関銃は20発入り箱弾倉(カートリッジ)を使用する。撃発機構は単、連発を手加減で行う引金式を採用し、引き金を引きっぱなしにすると連射が可能だった。ところが、1回に発射する弾数を多くすると、照準線が乱れて次第に弾は狙いを大きくずれるという欠点があった。連続発射の限度は約300発とされ、それ以上の連続発射は銃身が過熱して焼けつく危険性もあった。このため、銃手は引き金を一度絞っては離し、一度に3~5発ずつ発射する「点射」を心がけた。
伊藤は「弾薬は豊富にある。万一、戦闘になったら弾薬のことは遠慮せずに撃ちまくれ」と常に訓示していた。機関銃弾のカートリッジ75個は機銃の近くに並んで差し込まれ、床下に置かれたものも含めて、機銃弾の総数は約4000発にも達した。
小田にとっては初の実戦だったが、不安は感じなかった。戦車帽をしっかりとかぶった。
戦車第11連隊にとって初めての本格的な戦闘が、当初の「仮想敵国」のソ連軍と満洲の平原ではなく、この北千島で相対することになったのも運命のいたずらと言えた。
小田からはハンノキが遮って前が何も見えなかったが、一段高い砲塔にいた車長兼砲手の宮沢は周囲が良く見えた。軽戦車の車長には座席はなく、立ったまま指揮を執り、肩から上を砲塔のハッチから出して周囲をうかがい、操縦手の金谷に向かう方向を指示した。言葉だけでは騒音で聞き取れないため、右に旋回する場合は操縦手の右肩を足先で蹴り、左旋回は左肩を蹴った。急停止は後頭部を小突くのが合図だった。現在の戦車のような防音対策などもなく、小さな戦車内の3分の2はエンジンが占拠していた。
操縦手の左右には、現在の自動車のサイドブレーキのようなレバーがあり、「操向制動連動機」と呼ばれ、レバーはクラッチとブレーキに連結されていた。手前に半分だけ引くと半クラッチ状態となり、さらに引くとブレーキが掛る。左右それぞれが、左と右のキャタピラを制御しており、例えば右のレバーだけをいっぱいに引くと、左側のキャタピラだけが駆動するため、戦車は右旋回した。
軽戦車は通常の道を走るだけならば、操縦は難しくなかったが、戦闘中の操縦は高度の技術を要した。敵の砲弾を回避しながら、自車から発射する砲弾の命中率を高めるために安定走行をしなければならないからだ。

宮沢は中隊を代表する射撃の名手だった。37ミリ砲を肩に担ぎ、体を動かして砲に備え付けられた照準用の眼鏡を覗き込み、真ん中の十字に照準を合わせ、引き金を絞り、次々に砲弾を放った。「スターン」というかすかな音が砲塔内に響いた。「小田。なにやっている。撃て、撃て」宮沢は怒鳴った。
「敵が見えません」
「見えなくてもいい。前は全部敵だらけだ。撃て。どこでもいいから撃て。乱射せい」
その声に応えて、小田は車載銃を右から左へ、左から右へと振り向けながら機銃弾を放った。
「当たっている。当たっている。そのまま撃て、撃て」
宮沢の絶叫が聞こえた。

キャタピラによってずたずたに折られた枝が吹き飛び、戦車に踏みつぶされたソ連兵の体がちぎれて飛んだ。狭い軽戦車内は砲煙と機銃の白い硝煙が充満して、小田は喉がひりひりし、目も痛かった。足元には砲弾と機銃弾の空薬莢がバラバラとはねて転がった。
ソ連軍の小銃弾が戦車の装甲を削り、火花とともに細かな鉄粉が飛び散った。それが小窓から飛び込んで硝煙の煙と入り混じって目に入り、痛くて、小田は何度も目をしばたたかせた。
小田は「戦争とはこんなに息苦しいものなのか」と思った。


砲弾は、着弾時に炸裂して鉄片を四散させる歩兵攻撃用の榴弾と、対戦車用の徹甲弾との2種類を装備していた。砲弾は砲塔部の内側の砲弾収納スペースに1発ずつ格納され、榴弾が90発、徹甲弾20発だった。これらは、ばね仕掛けで砲弾の尻を押すと砲弾が飛び出す。各砲弾は通常、安全ピンによって暴発を防ぎ、戦闘直前に安全ピンを抜くことになっていた。
徹甲弾は地面に突き刺さって爆発しないため、宮沢は榴弾を選んだ。
戦車隊の猛攻にソ連軍は四嶺山からじりじりと後退した。突然の戦車の来襲にソ連軍は動揺を隠せなかった。この第一次攻撃は約40分間にわたって続いた。各戦車は四嶺山の山麓に戻ってきた。
その時、小田は雷が落ちたような豪音を耳にした。同時に地面が大きく揺れ、戦車が一瞬、地面から浮き上がったような気がした。
四嶺山の山麓に設置されていた日本軍最新鋭の96式15サンチカノン砲の砲声だった。
砲弾はロパトカ岬のソ連軍陣地に向けて発射された。
同砲の砲身は口径149ミリ、全長7メートル86センチ、重量6.781トンあり、93式尖鋭弾、95式破甲榴弾、96式尖鋭弾を発射し、最大射程は26.2キロにおよんだ。大阪造兵廠第一製造所が昭和17年10月に調査した完成数は計31門で、神奈川県三浦半島観音崎の東京湾要塞花立新砲台や、津軽海峡を守る津軽要塞汐首岬第二砲台、樺太南端の宗谷要塞西能登呂砲台など、国内や朝鮮半島、樺太の重要な港湾や主要海峡に置かれた。
対米戦を念頭に占守島と幌筵島にも、朝鮮半島の羅津重砲兵連隊から抽出して、両島に昭和19年夏に計4門が配備された。この最新兵器が置かれたことだけを見ても大本営が北千島の防衛をいかに重視していたかがわかる。
15サンチカノン砲は、狙いをロパトカ岬のソ連軍陣地に定め、担当の砲兵らは距離や所定の仰角、方位角などの数値諸元を割り出していたが、終戦時に秘密書類とともにすべて焼却していた。だがその数値を描き込んだメモが残っていた。
砲兵たちは訓練通り、カノン砲を整備し、砲身を高く上げて、砲弾を発射した。その砲弾は、3発目がソ連軍の弾薬庫に命中、ロパトカ岬の砲声はやんだ。小田はソ連軍陣地から黒い煙が上がるのを見た。
15サンチカノン砲に続いて、10サンチカノン砲も火を噴き始めた。高射砲は水平射撃でソ連兵をなぎ倒した。小田は「これは勝ったな」と思った。


2016年11月04日(金) 07時19分22秒
テーマ:自虐史観払拭!
おはようございます。
長谷川です。
 
ご存知でしょうか?
終戦直後の1945年8月18日に突如として
戦闘が始まり、そしてこの戦いに日本は勝ったことを…。
 
 
「占守島(しゅむしゅとう)の戦い」について
お話をします。
 
 
戦いが行われた占守島とは…
 
 
占守島は、北方諸島の最北端にあり
面積で言うと琵琶湖程度の小さな島です。
海抜200m未満の丘陵と沼地、草原が入り混じり、
樹高1mくらいの這松や榛の木が群生しています。
 
夏は15度で濃霧が発生し、冬にはマイナス15度で猛吹雪になる気候。
東西20km、南北30kmあまりの小島だが、北はカムチャッカ半島、
東はアリューシャン列島と交差する要所で、日本領の最北端でした。

日本はアリューシャン列島を西進してくるアメリカ軍の侵攻に備えて、
戦車隊を擁する精鋭守備軍2万5000をここに置いていました。
1945年当時、すでにアリューシャン列島のアッツ島やキスカ島は、
米軍によって陥落していました。

戦いは不意打ちから始まる…
 
1945年8月15日、終戦と当時に
大本営は日本軍に武装解除を命じます。
 
もちろん、占守島にもこの伝令が伝わり
未使用の弾丸などを海中投棄したり
爆弾の震撼を抜いたりと、引き上げる準備を始めていました。

そして夜は、早くから酒を酌み交わし、故郷の土地を
懐かしむ者もいたそうな…。
 
そして…
 
8月18日午前2時。濃霧が強い夜でした
司令部に監視所から報告が入ります。
 
「敵上陸、兵力数千人。国籍不明!」
 
 
占守島の北端、竹田浜に陣を敷いていた
北端の守備を任されていた歩兵282大隊の村上大隊長は命令を下します。
 
「軍使が夜中に来ることはない。射撃開始!」
対岸のロパトカ岬から砲撃が加えられます。
報告を受けた隣の幌延島の第91師団本部から下令されます。
 
「占守島の戦車連隊、歩兵73旅団は敵を海に叩き落とせ!!。
幌筵島の歩兵74旅団は占守島に移動、援護せよ!」
 
 
この戦車連隊‥・戦車第十一連隊は、「十一」を合わせて「士」、
通称「士魂部隊」と呼ばれた精鋭部隊で、
「戦車隊の神様」と言われた池田末男大佐が指揮していました。

18日午前3時半 敵主力部隊が竹田浜に上陸し、
日本軍の砲火をかいくぐって、四嶺山に到達します。
日本軍守備隊は敵に包囲されます。

 
見事な撃破!
 
 
この包囲された状況に対し「士魂部隊」の池田連隊長が訓示を出します。
 
「我々は大詔を奉じ家郷に代える日を胸に、ひたすら終戦業務に努めてきた。
しかし、事ここに至った。もはや降魔の剣を振るうほかはない。そこで皆にあえて問う。
池田末男少佐諸氏は赤穂浪士(あこうろうし)となり、
恥を忍んでも将来に仇あだを報ぜんとするか、あるいは白虎隊(びゃっこたい)となり、
玉砕もって民族の防波堤となり、後世の歴史に問わんとするか。
赤穂浪士たらんとする者は一歩前へ出よ。白虎隊とならん者は手を挙げよ!!」
 
全員が歓声を上げて両手を挙げます。
「連隊はこれより全軍を挙げて敵を水際に撃滅せんとす」
 
 
連隊長は先頭を進む戦車の砲身に日章旗を手にしてまたがります。
そこに30数台の戦車が…続々と
 
18日午前6時20分 戦車連隊はソ連軍が包囲する四嶺山麓に到達します。
 
6時50分 池田連隊長より師団指令部あて打電します。
「池田連隊は四嶺山の麓にあり、士気旺盛なり。
ゼロロクゴゼロ(0650)、池田連隊はこれより敵中に突入せんとす。
祖国の弥栄いやさかを祈る!!」
 
午前中いっぱい、四嶺山から竹田浜にかけて、激烈な白兵戦が展開されます。
竹田連隊長の戦車に敵の対戦車砲が貫通しますが戦闘は続行され、
午後にはソ連軍を竹田浜に追い詰めました。
ソ連軍は戦車部隊を持たず致命的なダメージを被ります。
通常の爆弾や対戦車用炸裂弾を搭載して攻撃を加え、
航空部隊の戦後も加わり
輸送船2隻、駆逐艦2隻、艦種不明1隻撃沈、輸送船2隻撃破
という大戦果を収めました。


戦いの後…
8月19日 ソ連共産党機関紙『イズベスチア』にてこのように書かれました。
「占守島の戦いは、満州・朝鮮における戦闘よりはるかに損害が甚大であった。
8月19日は、ソ連人民の悲しみの日である」
 
驚くことにソ連は占守島を1日で占領する予定でした。
しかし、4日間、日本軍の善戦により3000名以上のソ連兵が
死傷し、目的を達成することができませんでした。
8月23日、千島列島の日本軍は武装解除し
ソ連は南樺太と共に占拠します。

なぜ突如、上陸したのか?スターリンの分断計画
 
ここまで話を聞くと
「なぜソ連は攻め込んできたのか?」という疑問が沸いてくるでしょう。
 
 
大戦終了間際、
スターリンは、日本分断という卑劣な計画を遂行しようとしていました。
 
1945年、フランクリンルーズベルト、チャーチル、スターリンの間で
かわされたヤルタ会談の際、ソ連は千島列島にみならず
北海道の北半分も手中に収めるという密約も結んでいたと言われています。
スターリンは北海道だけでなく東北も赤化するという
分断工作を企てていました。

アメリカの勝利が目前となったとき
ソ連は、その機会に一気に日本領土を奪おうと虎視眈々と狙っていたということです。
北海道まで自国の領土となれば、太平洋がすぐ眼前に広がり
その後の世界革命にも有利になると考えていたのでしょう。
 
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
 
 
このような経緯もあり
 
終戦後すぐソ連は千島に攻め込んできたのです…
しかし、日本は、この占守島の戦いに勝利しということもあり
スターリンの計画は崩れました。
北海道まで占拠されることを免れたのです。

我々は、常に大きな世界の野望の中を生きなければなりません。
敵対する国家が、非道な手段で
日本を分断しようとする…これは戦略的観点から使われる手段です。
 
これは先の大戦のときだけでなく…
今でも分断工作というのは使ってきているのです。
しっかりとこの部分は見極めなければいけないと思います。
 
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