日露戦争で日本はもう終わったも同然なのが真実。当時として日本にとって天文学的な負債をアメリカのロスチャイルドに負ってしまったのだ。(現在の借金は国民が貸主だから日銀が買い取れば済むことで問題なし。)その金利も高いし利子分だけでの当時の日本の国家予算のほとんどが飛んでしまう。
だからそれも猶予してもらうしかない状況。
しかしアメリカ=ロスチャイルドにとってはそのお金はあくまで数ある投資の一つに過ぎない。
そのアメリカにその後戦争を仕掛けるように仕組まれ結果日本は原爆まで落とされ一旦滅亡した。
戦後ロスチャイルドはしっかりと日本国民から貸した金の元利金を回収した。
そういうことは日本人のほとんど誰も知らない。
戦争を仕掛ける方も馬鹿だが何も知らない国民は本当に悲惨だった。
そうならない最善の策があったのに傲慢日本軍部はそれを思いつきもしなかった。
その策とは朝鮮、満州をアメリカに売って借金をチャラにすれば良かったのだ。
実際アメリカはその地域の利権を非常に欲しがっていたのだ。(アメリカは日本に満州鉄道を共同で開発しようと持ちかけてきたが日本はにべもなく断った。借金まみれのバカやろう日本とロスチャイルドは思っただろう。)だから日本が独り占めすることに腹を立て反日へとなびいていった。
朝鮮とシナに関わるとロクでもないことになる。そんなものはアメリカにくれてやればアメリカが対ロシアの防波堤になったものを。
日露戦争影の立役者「ジェイコブ・シフ」とロスチャイルドの思惑
今回は『日露戦争影の立役者「ジェイコブ・シフ」とロスチャイルドの思惑』と題しましてシフの人物像や生い立ちそして最後に日露戦争に融資した本当の目的を推察していこうと思います。
まずはwikiからの人物像
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ジェイコブ・ヘンリー・シフ(英語:Jacob Henry Schiff、1847年1月10日 ? 1920年9月25日)は、ドイツ生まれのアメリカの銀行家、慈善家。ヤコブ・ヘンリー・シフとも。生まれた時の名前(即ちドイツ名)は、ヤーコプ・ヒルシュ・シフ(Jacob Hirsch Schiff)。高橋是清の求めに応じて日露戦争の際には日本の戦時国債を購入した。旭日大綬章を明治天皇より贈られる。
生涯
生涯
生い立ち
フランクフルトの旧いユダヤ教徒の家庭に生まれる。代々ラビの家系で、父は銀行員だった。1370年からフランクフルトのゲットーで、初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルド時代に緑の盾と呼ばれる建物にロスチャイルド家とともに住んでいた。
銀行家
銀行家
18歳、1865年に渡米。ニューヨークに着いた時は殆ど無一文だった。はじめ銀行の出納係りに就く。28歳の時、クーン・ローブ商会に就職。
1885年、38歳のときにソロモン・ローブの娘テレサと結婚。当時「西半球で最も影響力のある2つの国際銀行家の1つ」と謳われたクーン・ローブの頭取に就任。鉄道建設に投資し、ニューヨークのペンシルベニア駅やハドソン川地下横断トンネルなどを建設、電信会社、ゴム産業、食品加工の分野にも進出した。慈善事業
シフは常にユダヤ人社会への強い絆を感じ続け、慈善という形で同胞のために貢献した。たとえばロシアでポグロムに苦しむユダヤ人を解放するために尽力し、ヘブライ・ユニオン・カレッジの創立と発展を助け、ニューヨーク公共図書館にユダヤ区画を作った。シオニズム運動、アメリカ赤十字、コロンビア大学、ハーバード大学などが寄付をうける。
政治的・世俗的なシオニズムには反対だったが、ユダヤ人のパレスチナ入植には多額の寄付をおこない、ハイファ工科大学の設立をも援助した。
ロシア・日本との関係
日露戦争に際しては、日銀副総裁であった高橋是清が外債募集のためアメリカにわたるが、どこも公債を引き受けようとしなかった。ついで二年前に日英同盟が結ばれていたイギリスにわたり、諸銀行から500万ポンドの公債引き受けをなんとかとりつけるが、バクー油田の利権を獲得していたイギリス・ロスチャイルドに融資を断られる。第一回の戦時国債は1000万ポンドが必要だった。そんななか、ある銀行家の晩餐会で隣席したシフより「日本兵の士気はどのくらい高いか」などとの質問をうけ、高橋が応答すると、翌朝、500万ポンド公債をシフが引き受けることが伝えられた[2]。1904年5月、日本は戦時国債を発行することができた。
シフは2億ドルの融資を通じて日本を強力に資金援助したことで、日本勝利と帝政ロシア崩壊のきっかけを作った。以後日本は三回にわたって7200万ポンドの公債を募集、シフはドイツのユダヤ系銀行やリーマンブラザーズなどに呼びかけ、これも実現する。結果として日本は勝利を収め、シフは一部の人間から「ユダヤの世界支配論」を地で行く存在と見なされるようになった。またこれ以後、高橋との親交を結んだ。
のちシフが高橋に語ったところによれば、融資の理由はロシアでの反ユダヤ主義(ポグロム)に対する報復だったと言われている。1881年、また1903年4月にはロシアで大規模なポグロムが起こっていた。「ロシア帝国に対してたちあがった日本は神の杖である」とのち回想録に記している。
日露戦争後の1906年、シフは日本政府に招聘され、3月8日にパシフィック・メイル汽船会社のマンチュリア(満州)号にのり、サンフランシスコを立ち、3月25日に横浜に到着。グランドホテルに宿泊する。3月28日には皇居を訪れ、明治天皇より最高勲章の旭日大綬章(きょくじつだいじゅしょう)を贈られた。シフらは呉を見学するなどしたあと、5月3日、門司より韓国仁川に向かう。
シフの帝政ロシア打倒工作は徹底しており、第一次世界大戦の前後を通じて世界のほとんどの国々に融資を拡大したにも拘らず、帝政ロシアへの資金提供は妨害した。1917年にレーニン、トロツキーに対してそれぞれ2000万ドルの資金を提供してロシア革命を支援した。しかし、経営者一族がシフの縁戚となっていたファースト・ナショナル銀行ニューヨークは、ロックフェラーのチェース・マンハッタン、J・P・モルガン・アンド・カンパニーと協調して、ソビエトに対する融資を継続していた。
その後
高橋の長女わき子がニューヨーク留学中は三年間預かった。
イスラエルのモシェ・バルトゥール駐日大使が1966年に着任したさいには、昭和天皇より「日本人はユダヤ民族に感謝の念を忘れません。かつてわが国はヤコブ・シフ氏に大変お世話になりました」という発言を受けたという。
クーン・ローブ商会は1977年、リーマンブラザーズに合併された。
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このwiki中の人物の殆どがドイツ系のユダヤアメリカ移民です。第二次世界大戦のナチによるユダヤ人狩り。そしてそのナチを継承しているブッシュ家。繋がりが見えますが詳しく調べて後で記事にします。
さて文中はユダヤ人が寛大に金を貸してくれた事や明治天皇が感謝してたことなど表向きのことが書いてる半面ロシア革命に融資していたことやその後のソビエトにも融資していたことなどマッチポンプに関する表記もちらほらwikiらしいといえばらしいです。
後にも書きますがバクー油田権益を確保していたため表面上ロシアと対立できないロスチャイルドがシフを介して日本に帝政ロシア打倒を援護してた事そしてその後すぐに共産革命に出資したことからイデオロギーというのは金持ちの享楽によって生み出された産物でそんなものにとらわれているのはバカだということがこのwikiからですら分かるのにいまだに「右翼⇔左翼」「保守⇔革新」・・・etcの対立構造にハマってる人はバカとしか言いようが無い。
次にさらに詳しく彼の生い立ちを追跡してみます。
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ジェイコブ・シフは、1847年1月10日にドイツ・フランクフルトで5人兄弟の次男として生まれた。次の画像にあるように、シフ家は1400年代まで系図を遡れるようなので、シフ家は少なくとも5百年以上の歴史を誇る。
フランクフルトの旧ユダヤ人街でシフ家の祖先は、1軒の家をロスチャイルド家と共有して住んでいた。シフの家の側には船(Schiff)が、ロスチャイルド家の側には赤い盾が描かれてあり、両家の姓はこれに由来している。
シフがフランクフルトを出発しニューヨークに着いた1865年8月という時代は、南北戦争終結から4ヶ月ほどが過ぎたころだった。ここでシフは、株式仲買業者のフランク・アンド・ガンズ社に雇われ頭角を現わす。そしてシフがヘンリー・バッジと共にバッジ・シフ商会の共同経営者となったのは、シフが20歳を迎える前のことだった。シフが帰化したのは1870年である。
1872年、共同経営者のバッジが家庭の事情でドイツに戻ることになると、バッジ・シフ商会は解散した。翌年、シフは母国ハンブルグにあるウォーバーグ銀行に誘われるが、シフの父モーゼスが亡くなったことからフランクフルトに戻った。ここでエイブラハム・クーンに誘われたのが、ニューヨークのクーン・ローブ商会である。1875年にシフは再びニューヨークに戻ってクーン・ローブ商会に入った。そして同年、シフは同社の共同経営者ソロモン・ローブの娘と結婚した。上の系図にあるように、シフには1876年に娘フリーダが、翌77年には息子モーティマーが生まれている。
1839年にアメリカに来たクーン・ローブ商会の創業者エイブラハム・クーン(ドイツ系ユダヤ)は、10年後、インディアナ州で衣類の卸売業を経営していたときに縁戚のソロモン・ローブを呼び寄せた。ソロモンはエイブラハムの妹と結婚し、共同経営者となる。1867年、ふたりはニューヨークに移って金融業者クーン・ローブ商会を設立。そして1875年に加わったのが、ジェイコブ・シフである。
クーン・ローブ商会が「比類なし」と称されるほど急成長したのは、シフとその人脈にあったと言えるだろう。クーンが引退し1885年にローブが亡くなると、シフがクーン・ローブ商会を受け継いだ。この時代の多くのユダヤ系の銀行が自分の名を社名にしていたのに、シフがそうしなかった理由はわからない。わからないが、シフはクーン・ローブ商会の“代名詞”である。のちにFRB創設の主役ポール・ウォーバーグ(※1)が合流することになる。
クーン・ローブ商会は国債を取り扱いながら鉄道事業に参入していく。鉄道事業ではハリマン家と組み、ここに日露戦争後の満州における鉄道利権も動き出す。
「定説」では、ロンドンで高橋是清とシフが出会ったことやシフが公債を引き受けてくれたのは“偶然”とされているようだが、これは違う。シフは日本の公債を引き受けるために高橋のまえに現われたのである。シフは日露開戦前の1904年2月上旬にシフ邸で開かれたユダヤ人指導者の会合で「72時間以内に日露間で戦争が勃発する。日本の公債引受の問題が提起されているが・・・」と語っている。シフは日露開戦を事前に知っており、日本の公債引受の打診さえ受けていたのだから。
「わが政府は、シフがしたことをけっして許しも忘れもしない。彼ひとりがアメリカ市場における日本の資金獲得を可能にした。海外でわれわれに敵対するもっとも危険な人物である」と、1911年にロシアの大蔵大臣ココフツォフは語った。日露戦争の戦費は17億2121万円と日清戦争の9倍に達した。
1920年にシフが亡くなるとクーン・ローブ商会も徐々に衰退していったように見えるが、この金融界の巨人クーン・ローブ商会を“吸収”したのがリーマン・ブラザーズである。
1939年にはシフの孫ドロシーが36歳でニューヨーク・ポストを買収し社主となった。ドロシーはルパート・マードックに同紙を売却するまで37年にわたって社主として君臨していた。
ロックフェラーの財政顧問は、ユースタス・マリンズによると、クーン・ローブ商会のルイス・シュトラウスが務めており、ロックフェラーの投資はクーン・ローブ商会の承認を受けていたようである。シュトラウスの後任がJ・リチャードソン・ディルワースで、彼もクーン・ローブ商会の共同経営者であり、ディルワースはロックフェラー一族全体の財政担当となり、ロックフェラーセンタービルの56階で1981年までロックフェラー家の口座のすべてを監督していたという。
ジェイコブ・シフ(クーン・ローブ)もクーン・ローブ商会を吸収したリーマン・ブラザーズも連邦準備制度(FRB)の本源と言えるニューヨーク連邦準備銀行の株主であるが、ジェイコブ・シフが生きた時代こそ、世界の金融センターがロンドンからニューヨークに移植された時代であった。
シフがフランクフルトを出発しニューヨークに着いた1865年8月という時代は、南北戦争終結から4ヶ月ほどが過ぎたころだった。ここでシフは、株式仲買業者のフランク・アンド・ガンズ社に雇われ頭角を現わす。そしてシフがヘンリー・バッジと共にバッジ・シフ商会の共同経営者となったのは、シフが20歳を迎える前のことだった。シフが帰化したのは1870年である。
1872年、共同経営者のバッジが家庭の事情でドイツに戻ることになると、バッジ・シフ商会は解散した。翌年、シフは母国ハンブルグにあるウォーバーグ銀行に誘われるが、シフの父モーゼスが亡くなったことからフランクフルトに戻った。ここでエイブラハム・クーンに誘われたのが、ニューヨークのクーン・ローブ商会である。1875年にシフは再びニューヨークに戻ってクーン・ローブ商会に入った。そして同年、シフは同社の共同経営者ソロモン・ローブの娘と結婚した。上の系図にあるように、シフには1876年に娘フリーダが、翌77年には息子モーティマーが生まれている。
1839年にアメリカに来たクーン・ローブ商会の創業者エイブラハム・クーン(ドイツ系ユダヤ)は、10年後、インディアナ州で衣類の卸売業を経営していたときに縁戚のソロモン・ローブを呼び寄せた。ソロモンはエイブラハムの妹と結婚し、共同経営者となる。1867年、ふたりはニューヨークに移って金融業者クーン・ローブ商会を設立。そして1875年に加わったのが、ジェイコブ・シフである。
クーン・ローブ商会が「比類なし」と称されるほど急成長したのは、シフとその人脈にあったと言えるだろう。クーンが引退し1885年にローブが亡くなると、シフがクーン・ローブ商会を受け継いだ。この時代の多くのユダヤ系の銀行が自分の名を社名にしていたのに、シフがそうしなかった理由はわからない。わからないが、シフはクーン・ローブ商会の“代名詞”である。のちにFRB創設の主役ポール・ウォーバーグ(※1)が合流することになる。
クーン・ローブ商会は国債を取り扱いながら鉄道事業に参入していく。鉄道事業ではハリマン家と組み、ここに日露戦争後の満州における鉄道利権も動き出す。
「定説」では、ロンドンで高橋是清とシフが出会ったことやシフが公債を引き受けてくれたのは“偶然”とされているようだが、これは違う。シフは日本の公債を引き受けるために高橋のまえに現われたのである。シフは日露開戦前の1904年2月上旬にシフ邸で開かれたユダヤ人指導者の会合で「72時間以内に日露間で戦争が勃発する。日本の公債引受の問題が提起されているが・・・」と語っている。シフは日露開戦を事前に知っており、日本の公債引受の打診さえ受けていたのだから。
「わが政府は、シフがしたことをけっして許しも忘れもしない。彼ひとりがアメリカ市場における日本の資金獲得を可能にした。海外でわれわれに敵対するもっとも危険な人物である」と、1911年にロシアの大蔵大臣ココフツォフは語った。日露戦争の戦費は17億2121万円と日清戦争の9倍に達した。
1920年にシフが亡くなるとクーン・ローブ商会も徐々に衰退していったように見えるが、この金融界の巨人クーン・ローブ商会を“吸収”したのがリーマン・ブラザーズである。
1939年にはシフの孫ドロシーが36歳でニューヨーク・ポストを買収し社主となった。ドロシーはルパート・マードックに同紙を売却するまで37年にわたって社主として君臨していた。
ロックフェラーの財政顧問は、ユースタス・マリンズによると、クーン・ローブ商会のルイス・シュトラウスが務めており、ロックフェラーの投資はクーン・ローブ商会の承認を受けていたようである。シュトラウスの後任がJ・リチャードソン・ディルワースで、彼もクーン・ローブ商会の共同経営者であり、ディルワースはロックフェラー一族全体の財政担当となり、ロックフェラーセンタービルの56階で1981年までロックフェラー家の口座のすべてを監督していたという。
ジェイコブ・シフ(クーン・ローブ)もクーン・ローブ商会を吸収したリーマン・ブラザーズも連邦準備制度(FRB)の本源と言えるニューヨーク連邦準備銀行の株主であるが、ジェイコブ・シフが生きた時代こそ、世界の金融センターがロンドンからニューヨークに移植された時代であった。
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(※1)のFRB設立に関して
(※1)のFRB設立に関して
1776年の建国以来、アメリカ合衆国では第一合衆国銀行や、第二合衆国銀行のような試みはあったものの、分権主義者の反対で取り潰される等して、中央銀行は成立せず、個々の銀行等が金準備を使って紙幣を発行していた。しかし、1907年にロンドンでの米銀の手形割引拒否に端を発する恐慌が起き、アメリカ合衆国内の決済システムが混乱した。その対策として、1910年11月22日、J・P・.モルガンが所有するジョージア州沿岸のジキル島で会議が開かれ、FRB設立について計画が討議された。J.P.モルガンやポール・ウォーバーグ、ジョン・ロックフェラーの後ろ盾の下に、1913年に、ウッドロウ・ウィルソン大統領がオーウェン・グラス法に署名し、同年多くの上院議員が休暇で不在の隙を突いて12月23日にワシントンD.C.に駐在する連邦準備制度理事会と12地区に分割された連邦準備銀行により構成される連邦準備制度が成立した[1]。「準備」とは預金準備のことを意味する。発足当時は政府の強い影響を受け、金融政策の独立性は保証されなかったとされるが、ノーベル経済学賞受賞の経済学者ミルトン・フリードマンをはじめとして、「世界恐慌にまで発展した1920年代のアメリカの金融バブル崩壊に際して、連邦準備制度が明白な不作為によって事態を深刻化させた」と指摘する論者がいる。この考え方は今ではバーナンキをはじめとして広く受け入れられている[2]。
第二次世界大戦後、ブレトンウッズ体制がスタートし、FRBと財務省が協定を締結し、金融政策の独自性を持つようになったとされる。
第二次世界大戦後、ブレトンウッズ体制がスタートし、FRBと財務省が協定を締結し、金融政策の独自性を持つようになったとされる。
ドイツ系ユダヤ人が後ろで暗躍してたのが見え見えです。FRBを公的機関だと勘違いしてる人が多いですが私的機関です。
満州における日本の利権に後からアメリカが横取りしてきたと私は思ってましたが実は資金の面では初めからユダヤ系金融が参入してたことが分かりました。日中戦争開戦の際、義勇軍と称して「フライングタイガース」が米政府により組織された。つまり日中戦争もアメリカユダヤ主導の規定路線だったとの見込みがこの件でもう一つ確定に近づいたというわけです。一番儲かるビジネス「戦争」を作り上げるのは第二次世界大戦に始まったことじゃない。
【追記】上のパラグラフの文章にかんして弊ブログエントリー【歴史シリーズ3】満州をめぐる日本と米国にて次の記述をしてたのをてっきり忘れていました。
「日露戦争における米国の立場の決定は、米国自身の国益を冷厳に計算した結果なのである。
すなわち、米国にとってまず阻止すべきは、世界の列強ロシアが満州を独占することだった。
ロシアが日本に勝った場合、満州が完全にロシア領になり、米国の介入の余地がなくなることは明らかであったからである。
米国の立場からすれば、ポーツマス講和会議において仲介の労をとったことは、米国自身の満州介入のためのワンステップだったのである。
それゆえ従来から満州に対して強い関心を持っていた米国の鉄道王ハリマンが、日露戦争直後、早速日本に南満州鉄道を合弁事業とするよう申し入れている。
このハリマンは、またさらに日本政府が日露戦争での軍費のために行った外国借款(しゃっかん)の返済に苦慮するであろうことを見越して、その買収を申し込んだりした。
勿論(もちろん)満州を再び列強角逐(かくちく)の地にしたのでは、多大の犠牲を払って日露戦争を戦ったことが無意味となるため、日本政府は最終的にこれを拒否し、米国の介入意図は失敗に終わったのである。
明治42(1909)年には、ノックス国務長官が、満州における日露協調体制を壊すために、満州諸鉄道の中立化を提案している。
この提案の狙いは、日露両国によって独占されていた満州における鉄道権益を喪失させ、米国も含めた国際管理に移行させようとしたものである。
またそれが無理な場合には、清朝発祥の地である満州で日本が勢力を伸ばすことを好まない清国をたきつけて日本側に対抗しての米資本による満鉄併行線の建設を計画した。
しかしながらいずれも、米国の主張より日本の立場を認めた列国の反対で失敗に終わったのである。
更に大正7(1918)年10月には、米国は、米国資本の大規模な中国進出の条件づくりを目ざして、中国政府に対する借款事業の独占を主目的とする新たな国際組織(銀行団の結集)を提唱したが、これもやはり失敗している。
米国によるわが国の満州権益の攻勢は、こうした直接介入以外にも、日本の満州権益を認め守る条約の否定・否認という形でも現れた。
例えば、ブライアン国務長官は、21箇条条約に対して不承認を宣言している。
そしてその一方では、日本権益を弱体化するための逆攻勢をかけてきたのである。
その最初の結実が、大正11(1921)年のワシントン会議の招集であった。
このワシントン会議の狙いは、明らかに日露戦争及び第1次大戦によって日本が築き上げた成果を米中連携のもとに否定してしまうことにあったと言ってよい。」
すなわち、米国にとってまず阻止すべきは、世界の列強ロシアが満州を独占することだった。
ロシアが日本に勝った場合、満州が完全にロシア領になり、米国の介入の余地がなくなることは明らかであったからである。
米国の立場からすれば、ポーツマス講和会議において仲介の労をとったことは、米国自身の満州介入のためのワンステップだったのである。
それゆえ従来から満州に対して強い関心を持っていた米国の鉄道王ハリマンが、日露戦争直後、早速日本に南満州鉄道を合弁事業とするよう申し入れている。
このハリマンは、またさらに日本政府が日露戦争での軍費のために行った外国借款(しゃっかん)の返済に苦慮するであろうことを見越して、その買収を申し込んだりした。
勿論(もちろん)満州を再び列強角逐(かくちく)の地にしたのでは、多大の犠牲を払って日露戦争を戦ったことが無意味となるため、日本政府は最終的にこれを拒否し、米国の介入意図は失敗に終わったのである。
明治42(1909)年には、ノックス国務長官が、満州における日露協調体制を壊すために、満州諸鉄道の中立化を提案している。
この提案の狙いは、日露両国によって独占されていた満州における鉄道権益を喪失させ、米国も含めた国際管理に移行させようとしたものである。
またそれが無理な場合には、清朝発祥の地である満州で日本が勢力を伸ばすことを好まない清国をたきつけて日本側に対抗しての米資本による満鉄併行線の建設を計画した。
しかしながらいずれも、米国の主張より日本の立場を認めた列国の反対で失敗に終わったのである。
更に大正7(1918)年10月には、米国は、米国資本の大規模な中国進出の条件づくりを目ざして、中国政府に対する借款事業の独占を主目的とする新たな国際組織(銀行団の結集)を提唱したが、これもやはり失敗している。
米国によるわが国の満州権益の攻勢は、こうした直接介入以外にも、日本の満州権益を認め守る条約の否定・否認という形でも現れた。
例えば、ブライアン国務長官は、21箇条条約に対して不承認を宣言している。
そしてその一方では、日本権益を弱体化するための逆攻勢をかけてきたのである。
その最初の結実が、大正11(1921)年のワシントン会議の招集であった。
このワシントン会議の狙いは、明らかに日露戦争及び第1次大戦によって日本が築き上げた成果を米中連携のもとに否定してしまうことにあったと言ってよい。」
とまぁ初めから日本を利用した帝政ロシアの覇権拡大妨害及び日本を利用して満州インフラ投資後に横取りすることが初めから計算されてたみたいです。日本は褒めると動くとこの時もいつもの常套手段を使ってます。
次に彼の核心をRenaissancejapan
より
より
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ジェイコブ(ヤコブ)・シフは、イルミナティとフリーメーソン大東社の結社員で、日露戦争の時、日本が戦費の調達に困っていたとき、融資をしてくれたのが、名門クーンローブ商会のシフと、ロスチャイルドであります。 結局、4回の起債により、日本は日露戦争の戦費の約70%に相当する資金を調達をする事ができました。
シフと、ロスチャイルドがこの時融資をしてくれなければ、日本はロシアに勝利する事はできなかったでしょう。 日本政府は、この功績に報いるため、1906年春にシフ夫妻を日本に招待し、明治天皇が晩餐会を催して、わざわざシフを謁見しました。
フリーメーソン-7 イルミナティ
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/597.html
フリーメーソン-8 3つの世界大戦
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/598.html
フリーメーソン-9 グラントリアン(大東社)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/599.html
ジェイコブ・シフはフランクフルト生まれのユダヤ人ですが、初代ロスチャイルドのマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、フランクフルトでいくらか裕福になると、 「グリーン・シールド(緑の盾)」 と呼ばれる家に引越しました。
その家の半分はロスチャイルド家が住み、もう半分はシフ家が住み、後年シフ家はロスチャイルドの代理人として、重要な役割を果たすことになり、他のロスチャイルドの代理人と同様に大富豪となり、政治的にも重要な有力者となります。
ジェイコブ・シフは日本の幕末の1847年にフランクフルトで生まれ、ロスチャイルド=シフ人脈によりアメリカに派遣され、1865年(慶応元年)にニューヨークに到着しました。
1865年といえば、日本では坂本龍馬が貿易商社の亀山社中(後の海援隊)を設立した年にあたります。
ニューヨークについて10年後に、彼はイルミナティ系クーン・ローブ商会の共同経営者となり、その10年後には社長となり、アメリカにおけるロスチャイルドの総支配人の地位にあり、セントラル・トラスト・カンパニー、ウェスタ-ン・ユニオン、ウェルス・ファーゴ・カンパニーの取締役でもありました。
日露戦争の戦費を調達するために、高橋是清の前に現れたジェイコブ・シフとは、このような人物であったのです。
高橋是清は、ロスチャイルドに融資をお願いに行き、一度断られていますが、これは当時ロスチャイルドがロシアのカスピ海にあるバグー油田の利権に関わっていたので、正面を切ってロシアを敵に回すような事ができなかったからであります。
しかしながら、当時ロシアではユダヤ人迫害が激しく、これに激しい怒りを感じていたロスチャイルドは、直接日本の公債を引き受けるのではなく、代理人を立てました。 ロスチャイルド家の口利きで登場したのが、ニューヨークで「クーン・ローブ商会」を経営するユダヤ人資本家ジェイコブ・シフでありました。
日本は戦争を遂行するには、1億5000万円の外貨を支払わねばならないのに対し、手元にある資金は5200万円。 シティで調達した500万ポンド(約5000万円)とシフから融資を受けた500万ポンド(5000万円)で何とか戦争が出来るようになりました。
シフは、全米ユダヤ人協会の会長で、ユダヤ人を弾圧するロシアを懲らしめるために、日本に協力したのです。
こうして、日本の公債1000万ポンド(1億円)は、アメリカとイギリスで発行されることとなり、ロスチャイルド銀行は下請けに入って手数料を稼ぎました。
戦費の調達のメドがついた日本政府は、戦争の長期化を予想し、その後もポンド建ての外債を発行しました。 第3回と第4回目の外債発行には、ロンドンとパリのロスチャイルド家が発行団に名を連ね、調達総額は約8億2000万円。 その資金で武器、弾薬、戦艦を購入し、ロシアとの戦いを勝ち抜く事ができました。
しかし、シフとロスチャイルドにとっては、これはあくまでもビジネスであり、単にロシア憎しだけでは、日本の戦時公債を引き受けたのではありません。
当時の公債の金利相場は、年2~3%であったのに対し、4回の公債発行のうち、初回の2回分の金利は6%、後2回は1905年元旦の旅順陥落、奉天の戦いの勝利、そして日本海海戦の勝利を受け、それぞれ3000ポンドを4.5%の金利で引受けられ、ロンドンとパリのロスチャイルド家が発行団に名を連ねています。
しかしながら、戦争に勝ちながらも賠償金をとれなかった日本に於いて、国民は政府に腹をたて、講和条約に反対する運動が起こり、東京・横浜・京都・神戸などの都市では、大きな騒ぎが起こりました。
そして、ロスチャイルドグループから多額の借金をして、ロスチャイルドグループのヴィッカースなどの兵器会社から高価な戦艦や兵器を購入し、そして戦争後は勝利したにも関わらず、多額の金利支払いに苦しめられることになりました。
すなわち、この戦争の本当の勝者は、戦争を利用したマネーゲームで大儲けしたロスチャイルド、東アジアでのロシア南下を食い止め、権益を維持できたイギリス、そして国民の多額の税金を湯水の如く使い、肥えた三井・三菱・大倉・安田などの死の商人たち、そして戦争の最前線に行くことなく、これら資本家と癒着し、多額のポケットマネーを個人の懐に入れた日本の腐れ政治家達であったといえるでしょう。
ともあれ、こうして日本は朝鮮半島と満州(中国東北部)の権益を得ることになり、一方のロシアは敗北をきっかけに極東での南下政策を断念し、進出の矛先を再びバルカン半島に定めます。
これがドイツやオーストリアとの対立を招き、イギリスは仮想敵国をロシアからドイツに切り替え、ドイツはそんなイギリスに敵対意識を抱き、世界情勢は 「イギリス・フランス・ロシア」 の三国協商と 「ドイツ・オーストリア・イタリア」 の三国同盟の対立へと向かう事になります。
シフと、ロスチャイルドがこの時融資をしてくれなければ、日本はロシアに勝利する事はできなかったでしょう。 日本政府は、この功績に報いるため、1906年春にシフ夫妻を日本に招待し、明治天皇が晩餐会を催して、わざわざシフを謁見しました。
フリーメーソン-7 イルミナティ
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/597.html
フリーメーソン-8 3つの世界大戦
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フリーメーソン-9 グラントリアン(大東社)
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ジェイコブ・シフはフランクフルト生まれのユダヤ人ですが、初代ロスチャイルドのマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、フランクフルトでいくらか裕福になると、 「グリーン・シールド(緑の盾)」 と呼ばれる家に引越しました。
その家の半分はロスチャイルド家が住み、もう半分はシフ家が住み、後年シフ家はロスチャイルドの代理人として、重要な役割を果たすことになり、他のロスチャイルドの代理人と同様に大富豪となり、政治的にも重要な有力者となります。
ジェイコブ・シフは日本の幕末の1847年にフランクフルトで生まれ、ロスチャイルド=シフ人脈によりアメリカに派遣され、1865年(慶応元年)にニューヨークに到着しました。
1865年といえば、日本では坂本龍馬が貿易商社の亀山社中(後の海援隊)を設立した年にあたります。
ニューヨークについて10年後に、彼はイルミナティ系クーン・ローブ商会の共同経営者となり、その10年後には社長となり、アメリカにおけるロスチャイルドの総支配人の地位にあり、セントラル・トラスト・カンパニー、ウェスタ-ン・ユニオン、ウェルス・ファーゴ・カンパニーの取締役でもありました。
日露戦争の戦費を調達するために、高橋是清の前に現れたジェイコブ・シフとは、このような人物であったのです。
高橋是清は、ロスチャイルドに融資をお願いに行き、一度断られていますが、これは当時ロスチャイルドがロシアのカスピ海にあるバグー油田の利権に関わっていたので、正面を切ってロシアを敵に回すような事ができなかったからであります。
しかしながら、当時ロシアではユダヤ人迫害が激しく、これに激しい怒りを感じていたロスチャイルドは、直接日本の公債を引き受けるのではなく、代理人を立てました。 ロスチャイルド家の口利きで登場したのが、ニューヨークで「クーン・ローブ商会」を経営するユダヤ人資本家ジェイコブ・シフでありました。
日本は戦争を遂行するには、1億5000万円の外貨を支払わねばならないのに対し、手元にある資金は5200万円。 シティで調達した500万ポンド(約5000万円)とシフから融資を受けた500万ポンド(5000万円)で何とか戦争が出来るようになりました。
シフは、全米ユダヤ人協会の会長で、ユダヤ人を弾圧するロシアを懲らしめるために、日本に協力したのです。
こうして、日本の公債1000万ポンド(1億円)は、アメリカとイギリスで発行されることとなり、ロスチャイルド銀行は下請けに入って手数料を稼ぎました。
戦費の調達のメドがついた日本政府は、戦争の長期化を予想し、その後もポンド建ての外債を発行しました。 第3回と第4回目の外債発行には、ロンドンとパリのロスチャイルド家が発行団に名を連ね、調達総額は約8億2000万円。 その資金で武器、弾薬、戦艦を購入し、ロシアとの戦いを勝ち抜く事ができました。
しかし、シフとロスチャイルドにとっては、これはあくまでもビジネスであり、単にロシア憎しだけでは、日本の戦時公債を引き受けたのではありません。
当時の公債の金利相場は、年2~3%であったのに対し、4回の公債発行のうち、初回の2回分の金利は6%、後2回は1905年元旦の旅順陥落、奉天の戦いの勝利、そして日本海海戦の勝利を受け、それぞれ3000ポンドを4.5%の金利で引受けられ、ロンドンとパリのロスチャイルド家が発行団に名を連ねています。
しかしながら、戦争に勝ちながらも賠償金をとれなかった日本に於いて、国民は政府に腹をたて、講和条約に反対する運動が起こり、東京・横浜・京都・神戸などの都市では、大きな騒ぎが起こりました。
そして、ロスチャイルドグループから多額の借金をして、ロスチャイルドグループのヴィッカースなどの兵器会社から高価な戦艦や兵器を購入し、そして戦争後は勝利したにも関わらず、多額の金利支払いに苦しめられることになりました。
すなわち、この戦争の本当の勝者は、戦争を利用したマネーゲームで大儲けしたロスチャイルド、東アジアでのロシア南下を食い止め、権益を維持できたイギリス、そして国民の多額の税金を湯水の如く使い、肥えた三井・三菱・大倉・安田などの死の商人たち、そして戦争の最前線に行くことなく、これら資本家と癒着し、多額のポケットマネーを個人の懐に入れた日本の腐れ政治家達であったといえるでしょう。
ともあれ、こうして日本は朝鮮半島と満州(中国東北部)の権益を得ることになり、一方のロシアは敗北をきっかけに極東での南下政策を断念し、進出の矛先を再びバルカン半島に定めます。
これがドイツやオーストリアとの対立を招き、イギリスは仮想敵国をロシアからドイツに切り替え、ドイツはそんなイギリスに敵対意識を抱き、世界情勢は 「イギリス・フランス・ロシア」 の三国協商と 「ドイツ・オーストリア・イタリア」 の三国同盟の対立へと向かう事になります。
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こんな馬鹿げた金利でほいほいと戦時債権を起債する政府も今と変わらず「どうせ俺らの金で買うわけじゃねーし」みたいな考えだったんだろうなと思います。
ユダヤ系から金を借りてユダヤ系の会社から武器を買う。構図としてはデート商法で金の無い奴に金を貸す高利貸しとダイヤモンドを売っている奴が身内といった感じでしょうか。
今起こってる原発問題と構図が全然変わってないのがお分かりだろうか?
即ち金持ちにお金が集中するようにはなからなっている。貧乏人は知恵をつける機会が無いのでいつもお上の言うとおりに動いてせっせと税金(債務)+金利をただ働き。税金が社会奉仕に使われないのも今に始まったこっちゃなかったというわけです。
最後にこの事実
ロシア革命の翌年1918年7月、イルミナティ・ユダヤの銀行家ジェイコブ・シフは米外交チャンネルを通して
ロシアのボルシェベキに直接命令を送り、皇帝ニコラス二世とその家族を葬り去った。
ロシアのボルシェベキに直接命令を送り、皇帝ニコラス二世とその家族を葬り去った。
wikiには「ニコライ二世が革命勢力を弾圧したためにロシア革命を招き一家殺害された。」とあるが事実はこうである。
共産主義と民主主義というのはどちらもロスチャイルドを初めとするユダヤが後ろ盾に発展して来た。
対立や摩擦が金を生みそれに群がる協力者には惜しみなく褒美を渡し、苦労するのは常に普通の国民。
ジェイコブ・シフもその歴史の一部である。
即ち日本への投資は次の新たなビジネス(ロシア革命, 日中戦争,もしかすると冷戦)のビジョンを見越しての判断だったのではないでしょうか。
そして日本はアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋でアメリカ ニューハンプシャー州のポーツマスにおいて日露戦争の講和を定めたポーツマス条約に調印した。
ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない。」という主張を行っていたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが、これ以上の戦争の継続は不可能である日本が譲歩し、この調停を成功させたい米国がロシアを説得するという形で事態を収拾し戦争賠償金には一切応じないという最低条件で交渉は締結した。日本が困難な外交的取引を通じて辛うじて勝利を勝ち取った。
この条約はアメリカの北方領土に対する姿勢と共通しています。即ちこの時からすでに日本は包囲網に囲まれるのが規定路線。金づる、カモ決定というわけです。ちなみにセオド・アルーズベルトは日本に「日本が韓国を統治してるところが見たい」と言った人物。日本が日本人の税金でドぎたない韓国にインフラ投資をさせるためにせっせと金をつぎ込んだ後、反日教育を叩き込んだ事からしてもう確信犯でしょう。ユダヤ・イルミナ確定です。
勝利という金の掛からないものだけを与えられてるのは力道山、スポーツ大会の金メダル、スポーツ選手の活躍、日本映画や文化・技術の賛美などの歴史を見ても明らかです。日本人にプライドの満足だけを与え金だけはむしりとる。と過去から延々と一貫してますが日本人はそれに陶酔しきって後ろからお金が駄々漏れなのに気付かない。
今回ジェイコブ・シフという一ユダヤ人だけにスポットライトを当てただけなのですがこんなに日本のダメさが露呈してしまいました。日本人がダメなのではなく政治を執り行ってるアホと取り巻きがアホなだけです。
そしてジェイコブ・シフは決して日本が好きだから日露戦争において融資したのではないというのは確かだと思います。