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NATOの集団的自衛権を学ぼう。

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NATOの集団的自衛権を学ぼう。
 
 
 

北大西洋条約機構/NATO

1949年結成のアメリカを含む西側諸国の集団的軍事機構。東西冷戦期にはソ連東欧圏への抑止力となっていたが、冷戦後はその性格を変化させヨーロッパ=北太平洋地域全体の安全保障機構となっている。
 1949年4月4日にアメリカのワシントンで締結された北大西洋条約(ワシントン条約とも呼ばれることがある)にもとづいて、当初12ヵ国が加盟して結成された軍事同盟。North Atlantic Treaty Organizasion 通称NATO。NATO本部は当初パリに置かれたが、66年にフランスが軍事部門から脱退(95年に部分的に復帰)したため、現在はベルギーのブリュッセルに置かれている。アメリカ合衆国とカナダというヨーロッパ以外の国が加盟していることに十分注意する。
 → 
ヴァンデンバーグ決議  NATOの目的  NATOの加盟国  NATOの変質  NATOの東方拡大
成立までの経緯
 アメリカの「封じ込め政策」が始まり、東西冷戦が深刻化する中、1948年2月、チェコスロヴァキアでクーデタが発生し、共産党政権が成立すると、それに衝撃を受けたイギリス(アトリー)は3月、フランスおよびベネルクス三国と西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)を結び、共同防衛をとることとした。6月にはアメリカ、イギリス、フランスの西側が占領地域である西ドイツの経済統合をめざして通貨改革を実行すると、ソ連はベルリン封鎖を強行し、対立は頂点に達した。1949年1月には東側諸国はCOMECONを結成、ソ連の核開発が進み、またアジアでは国共内戦で共産党の優位が明らかになっていた。そのような情勢の中で、西欧同盟諸国(ブリュッセル条約加盟国)は西側の防衛力強化に迫られ、アメリカに働きかけて、北大西洋でソ連圏を包囲する軍事同盟網を結成する構想が生まれた。1949年4月、西欧同盟諸国にアメリカ合衆国、カナダ、ノルウェー、デンマーク、アイスランド、イタリア、ポルトガルが加わり、12ヵ国によって北大西洋条約を締結し、条約に基づいて北大西洋条約機構(NATO)が発足した。
集団的自衛権の主張
 北大西洋条約第5条に「(条約加盟国の)一国ないし二国以上に対する武装攻撃は全ての(加盟)国に対する攻撃と見なす」と規定しており、それにたいしては国際連合憲章第51条で認められた集団的自衛権を行使すると定めた。その目的は、名指しはされていないがソ連および共産圏(東側)を仮想敵勢力としてその武力侵攻から共同防衛をはかることにあった。その目的に従い、機構加盟国は兵員を拠出して、北大西洋軍(NATO軍)を編制した。
アメリカの孤立主義放棄
 ファシズムから自由と民主主義を守るという名分によって第二次世界大戦に参戦(日本の真珠湾攻撃がその口実を与えた)したアメリカ合衆国は、その使命感から国際連合の設立をリードした。冷戦が深刻になると、共産主義との対決という名目のために、従来のモンロー主義以来のアメリカ外交の原則であった孤立主義を放棄して集団的自衛権をかかげ、1949年の北大西洋条約機構(NATO)をはじめ、50年代には中華人民共和国の成立、朝鮮戦争という情勢に対応してANZUS条約、日米安保条約、SEATO結成など、ソ連包囲網を形成する。この転換を国内的に承認したのが、1948年のヴァンデンバーグ決議だった。
西ドイツの加盟
 アメリカ・イギリス・フランスと西ドイツの西側諸国が締結したパリ協定に基づき、1955年に西ドイツ西ドイツ再軍備を認められて加盟すると、ソ連は強く反発して、NATOに対抗する軍事機構としてワルシャワ条約機構を結成した。こうして冷戦期間中、NATO軍はソ連=ワルシャワ条約機構軍と対峙する抑止力として機能した。
NATOとフランス
 フランスのド=ゴール大統領は、NATOを通してのアメリカ合衆国のヨーロッパへの介入に反発するようになり、1966年に軍事部門から脱退した。北大西洋条約そのものからは離脱しなかったが、NATO軍の足並みが乱れたことは確かであった。フランスはその後、1995年に部分的に復帰し、2009年3月にサルコジ大統領のもとでNATO軍事機構に完全復帰することを表明している。
冷戦終結後のNATO
 1990年の東西ドイツの統一、同年のマルタ会談による冷戦の終結を受け、NATOは大きく変容し、1990年の7月「ロンドン宣言」で「ワルシャワ条約機構」と敵対することを放棄した。そのワルシャワ条約機構は91年3月に消滅した。にもかかわらず、NATOが存続しているのは、統一ドイツの「ひとり歩き」をさせず、NATOの枠組みの中に置いておくことが意図されている。<佐瀬昌盛『NATO』1999 文春新書 p.22>
 現在のNATOは、ヨーロッパ=北大西洋地域全体の安全保障機構に移行し、旧東ヨーロッパ諸国の加盟を進めている。ユーゴスラヴィア内戦では平和維持軍を派遣し、2002年5月にはロシアの準加盟を承認した。 → 
NATOの変質
資料 北大西洋条約
 アメリカのワシントンDCで1949年4月4日に締結された北大西洋条約の主な条文はつぎのような部分である。
前文 この条約の締結国は、国連憲章の諸目的と諸原則に対する自らの信念、そして全民族と全政府とともに平和に暮らそうとする願いを再確認する。彼ら(締約国)は自由、民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配に基づき築かれた、諸国民の共有の遺産及び文明を守る決意をした。彼らは北大西洋地域における安定と安寧の促進を希求する。彼らは集団防衛及び平和と安全保障を維持するため努力の結集を決意する。彼らはそれ故、この北大西洋条約に合意する。
第5条 締約国は欧州または北米の一締約国以上に対する武力攻撃を全調印国への攻撃と見なすことに合意し、そのような武力攻撃の生じた場合、国連憲章51条に認められた個別又は集団的自衛権の行使により、北大西洋地域の安全保障の回復と維持のため、各々が、武力の使用を含む、必要と考える行動を、個別に、そして他の調印国と共同し速やかに執ることによって、攻撃された締約国を援助することに合意する。そのようなあらゆる武力攻撃とその結果としてとられたあらゆる措置は、直ちに安全保障理事会に報告されるべきである。そのような措置は安保理が国際平和と安全保障の回復と維持に必要な措置を講じた時、停止されなければならない。<谷口長世『NATO -変貌する地域安全保障-』2000 岩波新書 p.191->

ヴァンデンバーグ決議

1948年、アメリカ議会でNATO加盟を決め、孤立主義と訣別した決議。
 1948年6月11日、アメリカ合衆国上院外交委員長ヴァンデンバーグが主導して上院で可決したもので、北大西洋条約を締結し、NATOに加盟する前提として、アメリカが孤立主義を捨てて集団防衛条約に参加すること、その際に締約国にはアメリカが攻撃された場合に集団的自衛権を行使する決意を表明することを条件としてあげた。以後、アメリカの相互防衛条約一般の基準とされている。<佐々木隆爾『新安保体制下の日米関係』2007 山川出版社 日本史リブレット67>
 この決議によって、アメリカ合衆国は共産主義との対決という名目のために、北大西洋条約機構に加盟することとなり、従来の
アメリカ外交の原則であったモンロー主義以来の孤立主義を放棄して、集団的自衛権に依存する外交姿勢をとることに転換した。

NATOの目的

当初は東側(ソ連および東欧諸国の共産圏)からの武力侵攻に対する共同防衛をはかる軍事同盟であったが、冷戦終結後も存続しているのはなぜか。
 東欧社会主義圏の崩壊に伴い、1989年に冷戦は終結した。しかし、NATOは存続している。
 北大西洋条約の前文には、「国際連合憲章の目的及び原則に対する信念並びにすべての国民及び政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認」し、「民主主義、個人の自由及び法の支配の諸原則の上に築かれたその国民の自由、共同の遺産及び文明を擁護する」ことを掲げ、「北大西洋地域における安定及び福祉の助長に努力」し、「集団的防衛並びに平和及び安全の維持のためにその努力を結集する決意を有する。」と述べている。
 また第5条には、「ヨーロッパ又は北アメリカにおける一又は二以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすことに同意する。したがって、締約国は、そのような武力攻撃が行われたときは、各締約国が、国際連合憲章第51条の規定によって認められている個別的又は集団的自衛権を行使して、北大西洋地域の安全を回復し及び維持するためにその必要と認める行動(兵力の使用を含む。)を個別的に及び他の締約国と共同して直ちに執ることにより、その攻撃を受けた締約国を援助することに同意する。」とある。
結成時の目的
 あきらかにソ連および東欧圏の武力侵攻に対する西側の共同防衛が目的であったが、すでに存在した西欧同盟に加えてアメリカが加わったのは、西欧諸国としてもアメリカの軍事力に依存せざるを得ず、アメリカをヨーロッパ防衛の盾としてつなぎ止めておく必要があったからである(アメリカ国内には伝統的な孤立主義が上院などに根強く、NATO加盟反対の意見もあったが、トルーマン、アイゼンハウアー政権はいずれもNATOを支持した)。
西ドイツ加盟による目的の変化
 1955年、西ドイツがNATO加盟を条件として再軍備を認められたことは、NATOの目的の中にドイツを西側陣営にひきとめておくという目的が含まれることになった。(そのため冷戦後もNATOは続いたと言える)。1952年からNATO初代事務局長を務めたイギリスのイスメイ卿はNATOの目的を「アメリカ人を引っ張り込み、ロシア人を閉め出し、ドイツ人を押さえ込んでおく(keep the American in,the Russian out and the Germens down)」ことだと喝破した。<佐瀬昌盛『NATO』1999 文春新書 など>

NATOの加盟国

原加盟国は12カ国であったが次第に加盟国が増え、現在は26カ国が加盟している。
原加盟国 1949年4月の北大西洋条約機構(NATO)発足時は、アメリカ合衆国・イギリス・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ・ルクセンブルク・ポルトガル・デンマーク・ノルウェー・アイスランド・カナダの12ヵ国が原加盟国であった。北大西洋に位置し、北極海を挟んでソ連・東欧圏と対峙する位置にある諸国が加盟した。ヨーロッパだけでないことに注意すること。
NATO非加盟国 また、すべてのヨーロッパ諸国が加盟しているわけではない。
スウェーデンオーストリアスイスフィンランドアイルランドは中立外交を標榜しており、軍事機構であるNATOに加盟していない。
西ドイツの加盟 朝鮮戦争後の1952年に
ギリシアトルコが加盟し、地中海東部にも地域が広がる。さらに1955年には西ドイツが再軍備を認められると同時に加盟し、ヨーロッパで東西陣営が直接対峙することとなった。これに反発したソ連は、東側の軍事同盟であるワルシャワ条約機構を発足させる。
フランスの軍事機構脱退 ただし66年には
フランスが軍事部門から脱退した。(フランスは北大西洋条約から脱退したのではない。また95年には国防相会議参加などの形で部分復帰した。2009年3月には完全復帰した。)
東方拡大 その後、85年にスペインが加盟し、16ヵ国体制となった。冷戦終結後には旧東欧圏の加盟が始まり、NATOの東方拡大が進んだ。1999年のポーランド・チェコ・ハンガリー、2004年にルーマニア・ブルガリア・スロヴァキア・スロヴェニア・エストニア・ラトヴィア・リトアニアを加えて現在は26ヵ国となっている。 → 
NATOの東方拡大
Episode ポルトガルはよし、スペインはだめ
 NATO加盟国の中に小国が含まれているが、それぞれ加盟理由がある。デンマークグリーンランドがその領土であり、北極海をはさんでソ連と対峙する位置にあるからであった。デンマークは加盟には踏み切ったが平時での他国軍の駐留は認めていない。カナダ、アイスランドやノルウェーも北極海をはなんでソ連の直接の脅威に対抗するには必要な地域であった。イタリアは北大西洋とは離れているが、将来NATOの東地中海方面への拡大が予定されていたので加盟した。意外なのがポルトガルだが、同じく大西洋に面したスペインは加盟しないにもかかわらず、加盟することとなった。その理由は、ポルトガル領のアゾレス諸島が大西洋上の重要な戦略基地であったからである。スペインは当時、フランコ独裁下にあって、NATOの掲げる「自由と民主主義」の理念に合致しないので除外された。もっともポルトガルも当時はサラザール政権という独裁政治が行われていたが、軍事的な理由を優先して加盟を認めた。当時はポルトガルはNATOの恥部といわれたのである。<佐瀬昌盛『NATO』1999 文春新書 p.51>

NATOの変質

冷戦終結後、対共産圏軍事同盟としての目的は消滅。東欧革命、ソ連の解体、ユーゴスラヴィアの解体に伴い、東欧に加盟国を拡大させ、全ヨーロッパの集団安全保障機構へと性質を転換させた。
 NATO(北大西洋条約機構)は第二次世界大戦後、冷戦期の1948年に創設され、その目的は時期とともに変化しながら、柱は共産圏に対する防衛を目的とする軍事同盟であった。従って冷戦の終了とともに東側のワルシャワ条約機構の解散と同じく消滅してしかるべきであったが、前者が解散されたのに対して、NATOは存続を続け、さらに加盟国を増大させている。その反面、アメリカ軍の占める割合は減少し、米軍主体の核で重装備した軍事同盟という性格は薄らいでいる。その変質をまとめると次のようになる。
冷戦終結後のNATO
 1990年にNATO加盟諸国は「ロンドン宣言」を発表し、ワルシャワ条約機構を敵視することを放棄すると宣言、目的を一変させた。結成当時のNATOの目的は大きく変化したので、現在のものを「ニューNATO]という。東欧民主化によって成立した東欧諸国、ソ連解体に伴って成立したバルト三国などが相次いでNATO加盟を申請するようになると、ロシアはNATOが新たにロシアを敵視するのではないかと反発したが、97年にNATO諸国首脳がロシアのエリツィン大統領との間で「ロシアを敵視しない」という「基本文書」に署名、その結果東欧諸国のNATO加盟が実現した。 → NATOの東方拡大
現在のNATO
 「北大西洋」地域の安全保障にとどまらず、国際連合とOSCE(全欧安全保障協力機構)のもとで、民族紛争や人権抑圧、テロに対して、平和維持に必要な軍事行動を行うこととなった。その最初の行動が1999年のコソヴォ紛争でのNATO空軍のセルビア軍に対する空爆であり、アフガニスタンへの治安出動である。
 2014年の
ウクライナ危機では、NATOは集団安全保障機構から、かつてのソ連に対抗する軍事同盟という性格を復活させ、対ロシアの軍事行動に対する集団的自衛権の行使へと進む気配を見せており、憂慮されている。

NATOの東方拡大

東欧社会主義圏およびソ連の解体に伴い、東欧諸国が次々とNATOに加盟した。
 NATO(北大西洋条約機構)加盟国は、アメリカ、イギリス、フランスなど原加盟国12ヵ国から始まり、1952年にギリシア・トルコ、1955年に西ドイツ、1985年にスペインが加盟して16ヵ国体制となった。冷戦の終了、さらに1991年のワルシャワ条約機構の解散ソ連の解体によってNATOの性格は一変し、より広域の安全保障をになう軍事機構となりった。東欧革命後の東ヨーロッパ諸国と、旧ソ連を構成していた国々、さらにユーゴスラヴィアの解体に伴ってできた国々は、NATOによる安全保障の傘の中に入ることを望むようになった。旧盟主であったロシアは当初NATOの拡大に不快感を表し、難航したが、1999年のポーランド、チェコ、ハンガリーの旧ワルシャワ条約機構加盟国の加盟から始まり、NATOの東方拡大がつづくこととなった。その後、2004年にルーマニア、ブルガリア、スロヴァキア、スロヴェニア、エストニア、ラトヴィア、リトアニアを加えて26ヵ国となっている。
ウクライナの危機
 しかし、旧ソ連構成国でロシアに次ぐ大国であるウクライナのNATO加盟については、直接国境を接することになるロシアは神経をとがらせ、2014年にはクリミア半島のロシア編入を決める住民投票、東ウクライナの親ロシア派の反乱を支援するなど、新たな緊張を生んでいる。

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