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共産党軍の兵士向けパンフレットに、「蘆溝橋事変は、わが優秀なる劉少奇同志の指示によって行われたものである」と自慢した記述があった。 

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全てが日本軍が悪い・・・それに反論しない日本~こんなのダメだ。
 なぜ反証を列記して反論しないのか。
靖国参拝より重要なことだ。
 
 
盧溝橋事件の日に“今日は七夕”、批判の声に大使館関係者がコメントしたが・・“火に油”で更なる炎上
FOCUS-ASIA.COM 79()2316分配信
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日本の在中国大使館が7日、中国版ツイッター・微博の公式アカウントに書き込んだ内容をめぐる騒動が、中国のインターネット上でさらに波紋を広げている。中国・観察者網が9日伝えた。

日本の在中国大使館は微博上で7日、中国で「盧溝橋事件の日」と認識されているこの日について、「七夕の日だ」として、その日本での文化を紹介する書き込みをした。同日の書き込みで盧溝橋事件に対する言及や謝罪がなかったことに対して中国人ネットユーザーたちから批判の声が噴出。これを受けて大使館関係者の日本人男性が8日、批判や謝罪に関する書き込みをしたが、その内容が中国人ネットユーザーたちの怒りをさらに大きくさせる結果となった。

8日の書き込みは「批判のコメントは全て、真剣に読んだ」「私の妻は中国人で、小学生の子供がいる。昨日、私は妻と中国人の血を引く子供に対して謝罪しなかったし、子供も母親に対して謝罪はしなかった」「3人とも戦争は経験しておらず、出身も年齢も受けた教育も違う。七夕の日、私たちはただ黙って日中関係の永遠の平和を祈った」といった内容だった。

これに対して中国人ネットユーザーたちから「問題のすり替えだ」といった批判の声が殺到。「大事なのは日本の盧溝橋事件の日に対する態度であり、あなたの妻や子供は関係ない」「盧溝橋事件の日のことは中国では中学生でもみんな知っている。大使館員なのに知らなかったのか?」「中国は日本人個人の謝罪など要求していない」「日本政府は少なくとももう少し誠意のある態度を見せるべきじゃないのか?」といったコメントが続々と寄せられた。

(編集翻訳 恩田有紀)
 

盧溝橋 ( ろこうきょう )事件】
1937年、北京郊外の盧溝橋で一発の銃声が響いた。
これを合図に日中戦争始まったとされている。
そして、その最初の一発を撃ったのが日本軍だというのだが
フォームの始まり
フォームの終わり


共産党軍の兵士向けパンフレットに、「蘆溝橋事変は、わが優秀なる劉少奇同志の指示によって行われたものである」と自慢した記述があった。 
              《谷沢永一 渡部昇一 「日本に『戦争責任』なし」》


蘆溝橋で日本側に戦争計画など全くなかった立証
 空砲の他に、万が一の場合に備えて各自実砲30発を携帯していたが、実砲は厳重に包装
  され、間違っても使用できない状態になっていた。(木綿糸がグルグルまいてあった)

 空砲による演習は中国側に予告する必要はなかった。中国側の特別の希望により、当日の
  夜間演習は4日に通告してあった。

 同中隊はその夜の演習に鉄帽さえ携行していなかった。日本は鉄帽なきまま中国軍との
  紛争に巻き込まれていった。

1937年7月7日夜10時40分頃、北京西12㎞の蘆溝橋北側で、演習を終了した支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊に対して、突如数発の銃弾が河畔堤防の竜王廟付近よりなされた。
              

銃撃を受けた中隊は直ちに集合したが、この時、兵1名が行方不明であることがわかった。(20分後にこの兵は帰隊)牟田口第一連隊長は北平特務機関に連絡。
              

特務機関は不拡大方針に基づき、日支双方の代表からなる軍使を現地に派遣することを決めた。
              

軍使一行は、8日午前4時、北平の連隊本部を出発した。この間、現地清水中隊は中国側に対して一発の応射もせず、約2㎞東の西五里店に移動し、豊台を発した第三大隊に合流。同大隊は一文字山を占領した。
              

その直後の3時25分、再び竜王廟方面より3発の不法射撃が行われた。

              

この報告を受けた連隊長は「3時25分といえば、既に彼我の識別が明瞭」にできる時刻であり、日本軍と知りつつ2度まで不法射撃を加えるのは侮辱であるとして、戦闘開始を許可する。
                

そして一木大隊が竜王廟付近の中国兵に対して攻撃を開始せんとした時、先刻の軍使一行が一文字山に到着。弾薬の装填禁止を命じた。大隊長は攻撃を中止して、部隊に朝食をとらせた。この時軍使一行は蘆溝橋城内で、中国側と交渉に入ったところであった。

                

この日本の攻撃中止を怯慄と誤った竜王廟の中国兵は、俄然日本に猛射を浴びせてきた。

  事ここに至って、日本軍も遂に反撃の火蓋を切った。(7月8日 午前5時30分)
蘆溝橋事件で、最初の射撃を受けてから実に7時間、1発の応射もせずに自重を堅持(これは、日本軍に開戦の意図がなかったことを立証する)した日本であったが、攻撃に移るやたちまち敵を撃滅し永定河右岸に進出した。この戦闘で敵の遺体から手帳が発見され、その中に直系上司名として第29軍長・宋哲元らの名が記されており、紛れもなく29軍正規兵であることが判明した。
蘆溝橋事件発生後、日華双方を挑発するような銃声が頻発するので、7月22日夜、日本憲兵隊と特務機関で調査したところ、中共北方局主任・劉少奇指導下に北平・清華大学生たちが、土炮と爆竹を鳴らして日華双方を刺激し、事変拡大を策していたことが判明している。

これと符合するかの如く、戦後中共軍将校となった経歴をもつ葛西純一は中共軍の「戦士政治課本」の中に、事件は「劉少奇の指揮を受けた一隊が、決死的に中国共産党中央の指示に基づいて実行した」ものであることが書いてあるのを見たと、著書「新資料・蘆溝橋事件」に記している。
東京裁判で蘆溝橋事件は「緊張と不安の雰囲気の中で」「緊迫した状況を作り出した日本側に責任がある」とし、発砲者が何者であったかは殆ど追求されなかった。満州事変の柳条湖事件に対しては厳しく追及されたのに比べて矛盾がある。これは、深く追及していくと中国側に不利な証拠が出てくることを恐れたからだろう。
                《中村粲 「大東亜戦争への道」》


政府も陸軍中央も、事件発生から3週間に互って不拡大方針を堅持したこと、その間現地の情勢によって二度内地師団の派兵を下令しながら、その都度現地からの情報を信じて二度とも派兵を中止したほど慎重であった。

事件発生直後の深夜、我軍特種情報班が傍受した北京大学内の中共秘密無電室より、延安の中共軍司令部に緊急発信された電信は極めて重要である。それは明碼(ミンマー=平文電報符号)で「2052 0501 0055」(成功了=うまくいった)というもので、3回反復送信されたという。蘆溝橋で日中両軍を衝突させるのに成功したとの報告電信に間違いあるまい。(平尾治「或る特種情報機関長の手記」)
       

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