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従軍作家・火野葦平の新資料発見  軍と一体と見られていた火野葦平。ところが、今回の調査記録からは火野が戦時中から軍を批判的に見ていたことが明らかになりました。

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火野は記録の中で次のように語っています。
(調査記録)
「軍隊の道義心の腐敗が甚だしかったと思ふ/民家を強奪する兵隊がゐる.ひどいのになると婦女子を侵したりする兵などもゐた」。
こうした軍の様子を目にして火野は戦争の行く末にも悲観的な見方を強めていきました。
聞き取りの記録では軍に対して痛烈な批判を述べています。
(調査記録)
「この戦争はもう負けだどうせ死ぬものならやりたい事をやって死ねといったやうな自暴自棄にもなってゐたと思ふ/軍人の腐敗を見てとても戦争には勝てないと思った」。
 
昭和20年終戦を迎え、その3年後、火野は著作を通じて戦争に加担したとして公職追放されました。
その後も、「戦犯作家」という批判を受けながらも、「花と龍」など新たなベストセラーを出すなど執筆活動を続けますが、53才で自殺しました。
>葦平が一番つらかったのは「あんたは戦争を煽って多くの日本兵を死なせたくせに戦後のうのうと生き作家活動を続け贅沢な暮らしをしている。」
というような批判を受けたことや自分が軍の言われるまま戦争を賛美した作品を作ったことの後悔ではないかと思われます。
 そして53歳で自ら命を絶っています。それは自分でも死んでいった兵士にすまない思いからけじめをつけたかったものと推測します。
火野葦平も戦争の犠牲者の一人です。

従軍作家・火野葦平の新資料発見

8月11日 18時25分
坂田一則記者
戦時中、軍に同行して戦地で作品を書いた「従軍作家」の1人で北九州出身の芥川賞作家、火野葦平。その火野が終戦から3か月後、アメリカから聞き取り調査を受けていたときの記録が見つかりました。記録からは、軍から制約を受けながらも戦地のありのままを書きたいと葛藤する火野の姿が浮かび上がってきました。
北九州放送局の坂田一則記者が取材しました。

“従軍作家”火野葦平

火野葦平は、日中戦争から太平洋戦争にかけて軍に同行しながら作品を書く「従軍作家」でした。
火野は30歳で一兵士として召集されました。
ニュース画像
その翌年、出征前に同人誌に発表した作品が芥川賞に選ばれます。授賞式は戦地、中国・杭州で行われるという異例なものでした。
受賞を機に、火野は陸軍の報道部への異動を命じられます。火野の文才に目をつけた陸軍が引き抜いたのです。それからの火野は陸軍報道部員としてさまざまな作戦に同行しながら戦争のようすを伝える作品を執筆しました。
火野の代表作で、戦場の兵士の日常を描いた「麦と兵隊」をはじめとする“兵隊三部作”は300万部を突破しました。戦地に送られた肉親の様子を知りたいという国民の期待に応え、それが戦意高揚につながっていきました。
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見つかった火野への聞き取りの記録

今回、新たに見つかったのはアメリカの戦略爆撃調査団が行った火野葦平への聞き取り調査の記録です。
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調査は、終戦から3か月後、全国の60カ所でおよそ4000人の市民を対象に行われたものです。アメリカの空襲が市民の戦意にいかに影響したかを調べるものでした。
従軍作家だった火野への聞き取りは、一般市民とは別にスペシャルインタビューという形で行われていました。火野への聞き取りは、戦地から帰国した火野が滞在していた福岡市で終戦のおよそ3か月後の11月24日に行われていました。担当はアメリカから送り込まれた日系人で、日本語で聞き取ったものをその後英訳しています。
調査記録を見つけたのは山口県の高校教諭、梶原康久さんです。高校で日本史を教えながら、地元、下関市の空襲について研究しています。その一環で、国立国会図書館がアメリカ国立公文書館から収集した膨大な調査記録を調べるなか、偶然、火野の記録を見つけました。
調査記録を見つけたときのことについて梶原さんは、「火野葦平が調査団の聞き取りに応じているのかと、それはもう驚きだった。葦平が占領軍に何かを語った資料というのは少なくともないですからね」と話しています。
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6枚の聞き取り記録に書かれた葦平の“声”

火野の証言は報告用紙6枚にまとめられていました。この中で、火野は軍の特別な庇護を受けていたことを語っていました。調査記録には次のように記されています。
(調査記録)
「私は従軍中でもあったので他の作家達よりは、いろいろと便宜も与えられてゐたと思う.火野が書いた物なら、まあ良いだろうといふような事で他の作家の場合削除されそうな所も大目に見て貰へるというような事もあった」。
兵隊三部作の1つ「土と兵隊」は陸軍の全面協力のもと映画化もされました。
火野が軍の庇護を受けながら創作活動を行っていたことを物語っています。映画は人気を博し国民と戦場との一体感を高めました。
文学と戦争との関わりを研究している関西大学の増田周子教授は、「有名作家だから、その作品が国民全体の意識を改革したり同じ方向に向かわせるために利用されることになった」と話し、戦争への国民の支持を得るために軍は人気作家だった火野を積極的に利用したと指摘します。
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軍への絶望

軍と一体と見られていた火野葦平。ところが、今回の調査記録からは火野が戦時中から軍を批判的に見ていたことが明らかになりました。太平洋戦争末期、戦況が日一日と悪化していくなか、火野は戦地での任務を終えて帰国します。そこで目の当たりにしたのは、日本本土の守備を任されていたはずの荒廃した軍隊の姿でした。
火野は記録の中で次のように語っています。
(調査記録)
「軍隊の道義心の腐敗が甚だしかったと思ふ/民家を強奪する兵隊がゐる.ひどいのになると婦女子を侵したりする兵などもゐた」。
こうした軍の様子を目にして火野は戦争の行く末にも悲観的な見方を強めていきました。
聞き取りの記録では軍に対して痛烈な批判を述べています。
(調査記録)
「この戦争はもう負けだどうせ死ぬものならやりたい事をやって死ねといったやうな自暴自棄にもなってゐたと思ふ/軍人の腐敗を見てとても戦争には勝てないと思った」。
ニュース画像

葦平の苦悩

さらに従軍作家として庇護されていた火野にも、著作活動に厳しい制限があったことが記録から分かりました。軍による「検閲」は火野に対しても例外ではなかったのです。
代表作の「兵隊三部作」。これまでも火野自身が検閲で削除されたことを明らかにしていましたが、今回見つかった調査記録で、その数が合わせて50か所以上に上っていたことが分かりました。記録ではみずからの作品が完全なものではなかったとまで語っています。
(調査記録)
「書きたくて仕方のない事は一切書けなかったわけで/小説といっても戦争中にかいたものはどれも完全なものではあり得なかった」。
ニュース画像
みずからが受けた検閲の実態について、火野は戦後、「選集」に寄せた「解説」で次のように記しています。
「日本軍が負けているところを書いてはならない」。
「戦争の暗黒面を書いてはならない」。
「戦っている敵は憎々しくいやらしく書かねばならなかった」。
こうした検閲について関西大学の増田周子教授は「日本軍が悪いように書く、そういうことが許されなかった。自由が無い状態です。そうしたことで非常に画一的な作品しか出されないようになっていきました」と話しています。
北九州市若松区の火野が住んでいた家には、戦前の火野の著作に制限が加えられていたことを物語る資料が残されています。
ベストセラーとなり映画も作られた「土と兵隊」。戦後、再出版される際、火野は戦前出版された本に新たな部分を手書きで加えて原稿としました。そこには日本軍の兵士が中国人の捕虜を殺害する場面が次のように記されていました。
「先刻まで、電線で数珠つなぎにされていた捕虜の姿が見えない.どうしたのかと、そこに居た兵隊に訊ねると、皆殺しましたと云った.見ると散兵壕のなかに支那兵の屍骸が投げ込まれてある」。
ニュース画像
火野の三男、玉井史太郎さんは「これを最初見たときはもうびっくりしました。父としては、自分の見てきたこと、やってきたことをそのまま文章にしたかったのだと思います。軍の制約を知りながらやっぱり書き残しておきたいという思いは、葦平のなかには強かったんだと思います」と話しています。
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終戦、そして、火野の苦悩

昭和20年終戦を迎え、その3年後、火野は著作を通じて戦争に加担したとして公職追放されました。
その後も、「戦犯作家」という批判を受けながらも、「花と龍」など新たなベストセラーを出すなど執筆活動を続けますが、53才で自殺しました。
ニュース画像
8年にわたりみずから体験した戦争。
火野は聞き取り調査の記録の中でこう総括していました。
(調査記録)
「結果から見ると今では負けた事が却って国民にとって幸福だと思っている」。
戦時中、その作品を通じて国民と戦場を結びつけてきた火野葦平。
6枚の調査記録に記されていた火野の言葉には、戦争の現実を伝えきれなかった火野の苦悩がにじんでいました。

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