日本軍が野戦病院を敷いていたというミャンマーの森林。「昔はこのあたりが白骨だらけだったよ」と話しているの は現地の元・警察署長さん
牟田口中将は、作戦失敗後に上司と責任をなすりつけ合い、戦後にも「独断で撤退した師団さえなければ勝てた」という持論を国会図書館に残している。謝罪なき余生をまっとうしているため、旧日本軍を過大評価するネトウヨからも、さすがにその力量を肯定されることは少ない。
こんな作戦を許可した陸軍上層部の一般人に対する人権無視、人命軽視が根底に有るから無謀な作戦も当たり前のようにほかの前線でも日常的に行われた。
この牟田口はビルマからのうのうと生きて帰り畳の上で死んでいる。許せない。
戦時の旧日本陸軍を壊滅させた「元祖・ブラック企業」な作戦
2015.08.14 ニュース
終戦から70年目とあって、様々なメディアで、日本がかつて崩壊しかけた第二次世界大戦が振り返られている。その中で、1944年3月に日本軍が行った「インパール作戦」は、現代のサラリーマンにも、強いシンパシーを感じさせる戦いかも知れない。この作戦が、世界中の軍事評論家から「無謀」と酷評されているにも関わらずだ。
第二次大戦中、南方のビルマ(現・ミャンマー)を占領した日本軍は、長くインドを支配してきたイギリス中心の連合国軍と、ミンタミの山々を挟んで睨み合いを続けていた。
両軍を躊躇させたのは、「自然の要塞」と呼ばれる険しい山々で、食糧や弾薬を運ぶことが絶望的。しかも、マラリアやデング熱など、様々な伝染病まで蔓延していたのだ。
ここを、事実上の気合い一辺倒で突破させ、日本陸軍そのものを壊滅に追いやったのが、牟田口廉也中将によるインパール作戦である。動員された約8万5千人の日本軍で、推定3万人が死亡。正常な身体で帰還できたのは、1万人程度だったと言われている。
牟田口中将は、作戦失敗後に上司と責任をなすりつけ合い、戦後にも「独断で撤退した師団さえなければ勝てた」という持論を国会図書館に残している。謝罪なき余生をまっとうしているため、旧日本軍を過大評価するネトウヨからも、さすがにその力量を肯定されることは少ない。
戦史学者の荒川憲一氏は「仮に攻め込むにしても、もっと柔軟性に秀でた方法があった」と語る。それでもインパール作戦が選択されたことについては「牟田口中将には戦局への危機意識が薄く、英雄になることに憧れた言動も複数見られます。実行するリーダーの狙いが、組織の狙いと食い違った場合、計画が失敗するのは戦いでよくある話です」と分析した。
無能なリーダーによる安易な根性論、異常なポジティブ思考の強制など、インパール作戦には、現代のブラック企業に通ずる点が多い。対照的に、これらが極端に欠落した「ゆとり世代」が台頭したのも現実である。この作戦失敗を現代の反省材料にするなら、根性論の否定ではなく、根性と柔軟な発想をハイレベルで融合させることかも知れない。
※8月15日午後7時からフジテレビ系で終戦特番『私たちに戦争を教えてください』がオンエア。筆者らによるインパール作戦ルートへの潜入も放送されています。
<取材・文/善理俊哉>
第二次大戦中、南方のビルマ(現・ミャンマー)を占領した日本軍は、長くインドを支配してきたイギリス中心の連合国軍と、ミンタミの山々を挟んで睨み合いを続けていた。
両軍を躊躇させたのは、「自然の要塞」と呼ばれる険しい山々で、食糧や弾薬を運ぶことが絶望的。しかも、マラリアやデング熱など、様々な伝染病まで蔓延していたのだ。
ここを、事実上の気合い一辺倒で突破させ、日本陸軍そのものを壊滅に追いやったのが、牟田口廉也中将によるインパール作戦である。動員された約8万5千人の日本軍で、推定3万人が死亡。正常な身体で帰還できたのは、1万人程度だったと言われている。
牟田口中将は、作戦失敗後に上司と責任をなすりつけ合い、戦後にも「独断で撤退した師団さえなければ勝てた」という持論を国会図書館に残している。謝罪なき余生をまっとうしているため、旧日本軍を過大評価するネトウヨからも、さすがにその力量を肯定されることは少ない。
戦史学者の荒川憲一氏は「仮に攻め込むにしても、もっと柔軟性に秀でた方法があった」と語る。それでもインパール作戦が選択されたことについては「牟田口中将には戦局への危機意識が薄く、英雄になることに憧れた言動も複数見られます。実行するリーダーの狙いが、組織の狙いと食い違った場合、計画が失敗するのは戦いでよくある話です」と分析した。
無能なリーダーによる安易な根性論、異常なポジティブ思考の強制など、インパール作戦には、現代のブラック企業に通ずる点が多い。対照的に、これらが極端に欠落した「ゆとり世代」が台頭したのも現実である。この作戦失敗を現代の反省材料にするなら、根性論の否定ではなく、根性と柔軟な発想をハイレベルで融合させることかも知れない。
※8月15日午後7時からフジテレビ系で終戦特番『私たちに戦争を教えてください』がオンエア。筆者らによるインパール作戦ルートへの潜入も放送されています。
<取材・文/善理俊哉>
インパール 白骨街道
強行された作戦
中国への連合国の補給路遮断を目的に旧日本陸軍が1944(昭和19)年3月、インド北東部の英軍拠点攻略を企図して開始したインパール作戦。
ほぼ全土を制圧していたビルマ(現ミャンマー)を足掛かりに計画が立案され、国境周辺は険しい山脈と谷が入り組み、補給が確保できないことが予想されながら、進攻作戦が強行された。
その結果、途中で食料や弾薬が欠乏し、飢えやマラリアなどで戦病者が続出。やがて英、インド両軍の強力な反攻に遭い、作戦は7月、正式に中止され、多数の犠牲者を出しながら、撤退を余儀なくされた。
病気や飢餓などで死者が相次ぎ、日本兵の遺体で埋まった撤退路は「白骨街道」と呼ばれた。
補給のない戦いと、地獄のような退却路を生き延びた元上等兵(静岡市清水区)に、悲惨な体験の記憶たどってもらった。
聞き手:静岡総局 岩間康郎
編集:時事ドットコム編集部
(2015年7月28日)
編集:時事ドットコム編集部
(2015年7月28日)
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元陸軍上等兵 望月耕一さん(90)
1942(昭和17)年12月に20歳で徴兵された。召集令状が届いたことを聞いたとき、(木になった)ミカンを切っていた。自宅で農業をしていれば満足だった中での知らせ。泣きたいくらいに嫌だった。
家にはいられず、思わず外に出てしまった。逃げようと思ったが、逃げたら国賊と言われる。従うしかなかった。
徴兵後、中国へ渡った。そこで、ビルマ方面へ向かう第31師団(烈兵団)の衛生隊車両中隊の指揮班に所属することが決まり、中隊長の伝令を務めることになった。
行く先は自由に選べず、命令通りにするしかない。そう諦めもついた頃、南方の景色の良い場所を想像し、良いことばかり頭に浮かぶ。ビルマに行った方が良いと思い始めた。
43(昭和18)年夏にビルマのラングーン(現ヤンゴン)に到着。船で向かう途中、沈められた船の帆柱が海中にいくつも見えたが、自分たちの船は一度も危険な目に遭わなかった。しかし、上陸後は敵機の襲来に遭うようになる。灯火管制で暗い中、方向も分からず逃げたことがあった。
その年の秋ごろ、北ビルマに向かう。途中、汽車に乗ったこともあったが、ほとんどは歩いた。時に機関砲を積んだ戦闘機に襲われ、その度に逃げた。北上して着いたチャンギという山村でインパール作戦の命令を待った。
作戦失敗、撤退へ
翌1944(昭和19)年3月初旬、作戦開始。
乾期の山村をインド北東部・インパールの北にあるコヒマに向けて出発するときは、「勝って、カルカッタ(現コルカタ)から凱旋(がいせん)する」と口々に言い合った。
ところが、道中のチンドウィン川を渡河する際、物資運搬と食用を兼ねて積んでいた牛が船から何百頭も川に落ちて沈んでしまった。
一時取った(奪取した)コヒマも長くは持たず、補給もないまま周辺で陣を張った。現地での徴発もうまくいかない。
対する英軍は、空輸を担う飛行機が旋回しながら何十個も梱包した荷物を落下傘で落としていた。水まで空輸していたと聞いた。こちらはただ眺めるだけだった。
当たると痛いほどの大きい雨粒が目立つ雨期になるにつれ、はやりだした伝染病に感染し、血便が出た。薬もない野戦病院に入ったら殺されてしまうと思い、自然に治るのを待った。5月末に南への撤退命令が出たとき、服も靴も泥まみれでぼろぼろだった。
ジャングルをひたすら歩く
撤退中、屋根の下で寝た記憶は1度だけ。ジャングルの中で下に落ちた枝を払い、湿った地面に天幕を敷いて休む。弾薬もなく、重いだけの小銃は谷へ投げた。
飯ごうと水筒と鉄かぶと、ぼろぼろの服を入れた背のうを持ち、とにかく歩いた。はだしでじか履きする軍靴の底は抜け、毛布でぐるぐる巻いて留めた。石が入り、痛かった。
食料は尽き、生えている菜っ葉にわずかなコメを混ぜたものを食べた。コメが草の間に飛び回る様子から、「ホタル飯」と称した。次々に目標地点が示され、そこまで下がれば食べるものがあると言われたが、かなえられたことはなく、信用しなくなった。ずうっと腹が減っていた。
まとまって退却していたはずが、気が付くと行方不明になっている者がいた。ジャングルを捜し回ったが、見つけたことはなく、諦めて進んだ。水をくみに沢に行き、喉を潤した後、その上流に目を向けると、日本兵が死んでいたことがある。道端に転がる死体はどれも靴が取られて、はだしだった。
死んだばかりの人にはウジ虫がわく。やがてハエが真っ黒にたかり、そばを通ると飛び回る。樹上ではハゲタカが待つ。暑さで腐敗が進み、行き倒れた人は数日で白骨になった。10メートルの間に4~5体見つけたことがある。
夜、ジャングル沿いを歩いていると、何度も白骨死体にぶつかった。どうにもできず、ただ心の中で拝んだ。
チンドウィン川の渡河地点となるシッタンまでは険しい山岳地帯だった。東側に渡った後は平たんながら暑さがこたえる道のりで、白骨街道と呼ばれた。「もうだめだ」と思うときもあったが、晩夏、拠点イエウにたどり着き、撤退が一段落した。
終戦、忘れられない記憶
その後、サルウィン川防衛戦に参加中、河口の町で終戦を迎えた。別部署へ連絡に向かった下士官が帰って来て、「えれえこと聞いた。日本負けたらしいぞ」と言った。
同じ頃、敵機が日本語で終戦について書かれたビラをまいてきた。がっくりと力が抜けた。周囲はぽかっと口を開けていた。
約2年間、ビルマで抑留捕虜となり、1947(昭和22)年6月に復員した。それまで、何度も帰国する船が出るうわさを聞いていたから、ラングーンに集合したときもまだ信用できない。船に乗り、北極星が見えて北に向かっていることを知ったとき、日本が近い、とありがたくなった。
衛生隊で将校伝令をしていたため、直接、戦闘に加わったことはあまりない。ただ、インパール作戦からの撤退はあまりにひどくて、忘れたくても忘れられない。地獄の退却と思い、見たことを本に記した。
道中、考える余裕も何も無かった。農業をして山道にも慣れていたせいか、下士官らに「元気だなあ」と言われたことを覚えている。みんな助かるつもりで頑張ったけれど、病気だなんだに勝てなかった。生死の分かれ目は運だったと思う。