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反日感情をあおる本が米国で大人気

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嫌なことだがこれも認めねばならない。
日本軍には残虐性はなかったというのは嘘でどこの国の軍隊もそれを持っていた。アメリカ、イギリスはその中でも紳士的な軍隊と言って良い。
そのアメリカ軍でも日本占領統治時代強姦強盗したものは多数いた。
それ以上に原爆を落として数十万もの一般人の命を奪っている。
日本はアメリカ軍兵士にした残虐行為の数十倍の仕打ちを受けた。
あまりアメリカ人が日本を非難するなら日本も反撃材料は山ほどあることを言わねばならない。

反日感情をあおる本が米国で大人気

なぜいま、日本軍の捕虜虐待なのか




森川聡一(もりかわ・そういち)
ITバブル期にニューヨークに住んだ経験を持つ経済ジャーナリスト

ベストセラーで読むアメリカ

ベストセラーを見れば世相がわかる--知っているようで知らないアメリカの実相を知ることは、日本を考えることに欠かせない。
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■今回の一冊■
UNBROKEN  筆者Laura Hillenbrand, 出版社Random House, $27
 太平洋戦争で日本兵が捕虜のアメリカ兵に加えた虐待の実態を詳細に描くノンフィクションだ。アメリカ人の反日感情を確実に高めるに違いない本書が今、アメリカでよく売れている。ニューヨーク・タイムズ紙の週間ベストセラーリストの単行本ノンフィクション部門でトップ5に13週連続でランクイン。直近は2位に落ちたが、それまでは6週連続でトップだった。

日本軍による捕虜虐待

 現在も93歳で元気に暮らすルイス・ザンペリーニという、イタリア系アメリカ人の男性の数奇な生涯を追うことで、日本軍の捕虜に対する非人道的な対応を描く。ザンペリーニは19歳の若さで中距離走のアメリカ代表として、1936年のベルリン・オリンピックに出場。メダルは獲得できなかったものの、力走が観戦中のヒットラーの目にとまり、ヒットラーと握手をしたという逸話の持ち主だ。
 出場を目指していた40年の東京オリンピックが日中戦争などのために中止となり、ザンペリーニはアメリカ空軍に入隊。ところが、ハワイ・ホノルルから飛び立った爆撃機が太平洋上でエンジン故障のため墜落、からくも脱出して救命ボートで太平洋上を食料や水がないなか、鮫とも戦いながら47日間も漂流する。そして、ホノルルの南西3900㎞にあるマーシャル諸島のクェゼリン島に漂着した。別名「処刑島」と呼ばれていたその島で、ザンペリーニは日本軍の捕虜になった。
 元オリンピック選手という経歴が日本軍の目にとまり、処刑を免れたザンペリーニは日本に送られる。大船、大森、直江津と捕虜収容所を転々として45年8月の終戦を迎え母国アメリカへと生還する。本書はザンペリーニが収容所で受けた虐待の数々を冷静な筆致で描いており、それだけに逆に日本兵の残虐さが鮮明に浮き上がる。
 特に、捕虜の間でthe Birdとあだ名されたワタナベ・ムツヒロという伍長が、虐待の限りをつくす描写は圧巻だ。本書はワタナベについて、捕虜たちを痛めつけることで性的な快感を覚えるサディストだったとしている。例えば、次のような虐待の場面が無数に本書には出てくる。

サディスト "the Bird" ワタナベ

 The Bird swung the belt backward, with the buckle on the loose end, and then whipped it around himself and forward, as if he were performing a hammer throw. The buckle rammed into Louie’s left temple and ear.
  Louie felt as if he had been shot in the head. Though he had resolved never to let the Bird knock him down, the power of blow, and the explosive pain that followed, overawed everything in him. His legs seemed to liquefy, and he went down. The room spun. (p251)
 「バードはズボンのベルトの先を握ってバックル(留め金)の部分を後ろに振り、ハンマー投げをするように、自分の体に巻き付けるようにしてベルトを前方に振り出した。バックルはルイスの左のこめかみと耳にぶつかった。ルイスは頭を撃ち抜かれたような衝撃を覚えた。
  ルイスはそれまで、バードに殴られても決して倒れまいとしてきたが、打撃の強さと、激痛に見舞われ、すべてがまひした。両足が溶けるようにして、ルイスは倒れた。部屋が回った」
別名バードと呼ばれたワタナベは、ルイスを目の敵にして、毎日のように殴りつけ、十分な食事を与えなかった。国際赤十字が支給した食料も、捕虜たちの手には渡らず、日本軍の兵士たちが横取りしていたという。
 本書は、次のように具体的な数値をあげ、日本による捕虜の扱いが、ナチス・ドイツよりもひどかったと断じている。
 In its rampage over the east, Japan had brought atrocity and death on a scale that staggers the imagination. In the midst of it were the prisoners of war. Japan held some 132,000 POWs from America, Britain, Canada, New Zealand, Holland, and Australia. Of those, nearly 36,000 died, more than one in every four. Americans fared particularly badly; of the 34,648 Americans held by Japan, 12,935―more than 37 percent―died. By comparison, only 1 percent of Americans held by the Nazis and Italians died. (p314-315)
 「東洋を暴れ回った日本は、想像を超える規模の残虐な行為と死をもたらした。その最たるものが戦争捕虜の扱いだった。日本はアメリカ兵やイギリス兵、カナダ兵、ニュージーランド兵、オランダ兵、オーストラリア兵ら約13万2000人を捕虜にした。そのうち3万6000人近くが死んだ。4人に1人を超える確率だ。特にアメリカ兵の捕虜の待遇がひどかった。日本に捕らえられた3万4648人のアメリカ兵のうち、37%超に相当する1万2935人が死んだ。ちなみに、ナチス・ドイツやイタリアに捕らえられたアメリカ兵のうち、死亡したのはわずかに1%だった」
 次のように、捕虜はとてもひどい扱いを受けたという。
 Thousands of other POWs were beaten, burned, stabbed, or clubbed to death, shot, beheaded, killed during medical experiments, or eaten alive in ritual acts of cannibalism. And as a result of being fed grossly inadequate and befouled food and water, thousands more died of starvation and easily preventable diseases. (p315)
 「何千人もの捕虜たちが、殴られたり焼かれたり、銃剣で刺されたり、こん棒で殴られたりして殺され、銃殺され、人体実験で殺され、人食いの風習で生きたまま食われた。ごくわずかしか食事が与えられず、不潔な食品や水のために、さらに何千人もの捕虜たちが餓死し、容易に予防できるはずの病気のために亡くなった」
 捕虜に対する虐待がなぜ日本軍では日常的に行われたのか、本書は次に引用するように日本軍の特異なカルチャーにその原因の一端をみる。
 In the Japanese military of that era, corporal punishment was routine practice. “Iron must be beaten while it’s hot; soldiers must be beaten while they’re fresh” was a saying among servicemen. “No strong soldiers,” went another, “are made without beatings.” For all Japanese soldiers, especially low-ranking ones, beating was inescapable, often a daily event. (p194)
 「当時の日本陸軍では、下士兵に対する殴打は日常的に行われていた。『鉄は熱いうちに打て。兵士は下っ端のうちになぐれ』ということが兵士の間ではよく言われていた。『殴られてはじめて強い兵士ができあがる』とも言われていた。すべての日本兵にとって、特に下級の兵士たちにとって、殴られるのは避けられないことだった。しばしば、毎日、殴られたのだ」
 兵士たち自身が、日常的に殴られた経験があるため、そのうっぷんが捕虜に向かったというのだ。評者・森川は本書を読んでいた時期に、五味川純平が軍隊の不合理を描く戦争小説「人間の條件」を読んでいたので、日本軍の体質に関する本書の指摘にはうなずけるものがあった。

原爆の正当化

 しかし、捕虜を虐待していたのだから、東京などへの大空襲や、広島と長崎への原爆投下はしかたがなかったという、論理を展開する点には納得がいかない。

例えば、アメリカ兵の捕虜が終戦直後に、原爆を投下された広島市の中心部を汽車で通過した時を述懐する次のようなコメントも引用している。
 “Nothing! It was beautiful.”
 「『何もなかった。美しかった』」
 アメリカ兵の捕虜たちは原爆のおかげで終戦を迎え、自分たちが解放されたと思っていたので、何もない爆心地をみて美しいと感激したというのだ。その元捕虜のコメントには次のような発言も含まれている。
 “I know it’s not right to say it was beautiful, because it really wasn’t. But I believed the end probably justified the means.” (p320)
 「『実際には美しくはなかったので、美しいというのは正しくないと分かっていた。しかし、おそらく目的は手段を正当化すると信じた』」

日本外交はこのベストセラーに対応できているか

 戦争を終わらせるためには、原爆投下はしかたがなかったという、アメリカ人の保守層を中心とした典型的な理屈がみてとれる。本書では、日本兵による捕虜虐待について詳述する一方で、原爆で何十万人も民間人が死んだことには一切、言及しない。次の一節では、そもそも原爆で被害者が出たのは日本政府の責任だと言わんばかりだ。
 That same night, B-29s showered leaflets over thirty-five Japanese cities, warning civilians of coming bombings and urging them to evacuate. The Japanese government ordered civilians to turn the leaflets in to authorities, forbade them from sharing the warnings with others, and arrested anyone with leaflets in their possession. Among the cities listed on the leaflets were Hiroshima and Nagasaki. (p297)
 「(大空襲があった45年8月1日の)同じ夜に、B29戦闘機は日本の35を超える都市にビラをばらまいた。空襲が近いので民間人は避難するように伝えるものだった。日本政府は国民にビラを当局に渡すよう命じ、ビラに書いてあったことを他の人に話すことを禁じた。ビラを所持している者はすべて逮捕した。避難が必要な都市として記載していた都市名の中には、広島や長崎の名前もあったのだ」
 評者・森川は正直、日本が第2次世界大戦で捕虜をどう扱ったかという点について、なにも知識を持っていなかったので、本書に対しては戸惑いが多い。引用した統計数値の妥当性についても判断する能力がない。
 それ以上に分からないのは、なぜ今この時期に、このような本が出版され、なおかつ大ベストセラーになっているという事実だ。
 日本人はこのような本がアメリカで売れていることを知っておくべきだろうし、日本の外務省なども本書の内容を分析し、外交戦略の一環として、日本に対するイメージを向上させる対抗策をどう展開するのか、考えた方がいいだろう。


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