しかし日本が中国に支配されたら在日も日本人もともに地獄行きだ。真の脅威=敵を見失ってはいけない。
芸能人が体験した“在日差別”の実態を今こそ知れ! 松田優作、都はるみの苦悩、伊原剛志、玉山鉄二の勇気
朴一『僕たちのヒーローはみんな在日だった』(講談社)
カリスマ俳優、松田優作もそのひとりだ。以前、当サイトでも紹介したことがあるが、松田優作の前妻で、作家の松田美智子氏が死の直後に出版した『永遠の挑発 松田優作との21年』(リム出版新社)、そして2008年同書に加筆する形で出版した手記『越境者 松田優作』(新潮社)でその詳細を記述しており、朴氏もそれを引く形で、松田優作の苦悩を記述している。
このような複雑な生い立ちを抱えていた優作だが、家が女郎屋で劣悪な生活環境にあったことはインタビューでも隠すことなく語っていたものの、自分が金優作という名をもつ韓国籍の在日コリアンだということはかたくなに隠し通していた。それは、「松田は朝鮮人だから付き合うな」などと言われた学生時代の経験から、貧乏だった過去はファンから受け入れられても、生い立ちに関しては受け入れてもらえないだろうという確信があったからだと朴氏は指摘している。生い立ちを知られたら周囲の人々は自分のもとから去っていってしまう──。その強迫観念は、役者としての活動のみならず、私生活でも優作の心を縛っていく。
優作は美智子に自分が在日コリアンであることを告げていなかった。自分の恋人に生まれを明かすことができない。それほど差別意識の強い時代だったのだ。美智子が男と同棲していることを知った彼女の親族による身上調査の結果、後に美智子は優作の過去を知ることになるが、だからといって優作との関係を終わらせることもなく、同棲生活は続いていった。
その後、優作はスターへの階段を順調に昇っていく。そんななか、『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)に出演するようになったとき、優作は美智子に「どうしても、帰化したい。協力してくれ」と頼み込んできたという。それまでも帰化申請を行ったことはあったが、母親が風俗関係の仕事をしていたことなどが問題で受け付けてもらったことはなかった。だが、美智子の家の養子となる道を選べば日本国籍を取得できるかもしれない、彼はそう考えたのだった。俳優として活動し続けるためには、在日であるというルーツを捨てることがその時代どうしても必要だった。少なくとも、彼はそう考えていた。
〈僕は今年の七月から日本テレビの『太陽にほえろ!』という人気番組にレギュラーで出演しています。視聴者は子供から大人までと幅広く、家族で楽しめる番組です。僕を応援してくれる人たちも沢山できました。現在は松田優作という通称名を使っているので、番組の関係者にも知られていませんが、もし、僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが、失望すると思います。特に子供たちは夢を裏切られた気持ちになるでしょう〉(『永遠の挑発 松田優作との21年』より)
都はるみは、48年に在日韓国人の父と日本人の母との間で生まれているが、69年11月に発売された「週刊平凡」(平凡出版)で母の北村松代が娘の出生についてカミングアウト。「朝鮮人と結婚したため、若いときからひどい差別と蔑視を受けてきた。世間を見返すためにどうしても娘を人気歌手に育てねば」と語った。この記事は思った以上の大きな反響を呼び、このまま発言を続けると歌手としての娘のキャリアが絶たれてしまうと判断した母はそれ以降取材をすべて断っている。また、都はるみ本人も、そのことについて口を開くことはなかった。
そうしてこの話題はいったん沈静化したものの、当時はまだまだ差別意識の色濃い時代で、カミングアウトから7年後の76年に都はるみが「北の宿から」でレコード大賞を受賞したとき、〈都はるみの父は日本人ではない。そんな人が賞を取っていいのか〉(産業経済新聞社「週刊サンケイ」76年12月9日号)といったバッシングがメディア上で展開されるなど、都はるみはその歌手人生を通じて差別意識に苦しめられることになる。
「僕は表向き、差別なんてされたことはないよ、と言うことにしてるんですが、実際はかなりありました。特に福岡県の場合、あのころは韓国が『李承晩ライン』というのを設定してそれを越えた日本の漁船をどんどん拿捕していたころですし、筑波炭坑の坑夫たちは気も荒かったですから、かなり激しい差別がありました。拿捕のニュースが新聞に出た日などは、学校に行きたくないと思った程です」(アプロツーワン「アプロ21」97年1月号)
「私にとって、自分が何人ということよりも、役者だということのほうが大事なんです。役者は、自分がどういう存在かを知っていないと成り立たないと思う。だから日本人も韓国人も客観的に見れる自分の立場というのは、役者をやるのにかえっていいことだと思っていますよ」(「毎日新聞」02年3月24日付)
俳優の玉山鉄二も同じく自らの出自にプライドをもっている芸能人だ。彼は06年にソウルで開催されたメガボックス日本映画祭に出席し、父親が韓国人であることを明かした。彼は「機会があれば韓国で活動したい」と話すなど、日本と韓国の映画界の橋渡しの役割を担っていく意向も語っている。
こうした在日の著名人たちの勇気あるカミングアウトもあって、一時はそのまま差別はなくなっていくように見えた。しかし、本稿冒頭でも記したように、その後、時代を逆行するように差別意識は急激な高まりを見せる。朴氏の著書ではこのような揺り戻しについて指摘されていないが、もしもいま、伊原や玉山のようなカミングアウトを行えば、その時点でネトウヨによる罵詈雑言の餌食となり、芸能人としての人気も危ういものとなるだろう。
我々はもう一度、差別がいかに残酷で人を追いつめるかということを学び直すべきではないのだろうか。
(井川健二)