財政破綻したら国が取り崩される、それを免れるために戦争を仕掛ける必要がありました。
しかし、それはそもそも米国、そして米国系ユダヤ人があらかじめ金を貸し付けたために生じたと言うこともできます。日本人は、借金の代わりに得たものがあったでしょうか?それとも都合の良い奴隷だったのでしょうか?
日本が太平洋戦争に向かう中、日本のポンド建て国債の金利は高騰。金利は、返せない可能性が懸念されればされるほど高くなります。
7%で調達した日露戦争の戦時国債の借り換えは太平洋戦争の直前には、今や不可能な水準になっていました。
次世代まで払いきれない負債を作ったとき、すでに日本人は隷属していたのです。個人資産は、相続放棄できるが、国家の負債は放棄できません。
多くの国では、個人の相続財産は3世代で縮小するように相続税の税率が設定されています。短期的には資本主義的な国家であっても長期的に格差が拡大していかないように競争を維持させるほうが社会にとっては都合がよく、相続税によって社会に富を再分配させるからです。
しかし、相続放棄や相続税のメカニズムは国家間では働きません。債務によって生じた関係は長期間持続可能なものになってしまうのです。日本人は、資本主義の主人の側ではなく、奴隷の側に堕ちたのです。
戦後最初の時期には、積極的な賠償金請求が行われ、戦後補償が開始された。だが、米国は、敗戦国に賠償金を課すことはよくないとの主張を展開した。
彼らは借金返済を帳消しにすることはありませんでした、ただ、戦争当事国への賠償を減らそうと主張したのです。それは、一見、正義のようにも、優しさのようにも見えます。しかしそれは、日本の抱えていた借金の取り立てを可能にするための主張でした。
歴史の教科書の説明はこうです。
『日本は損害賠償の支払い義務があるが、支払い能力が十分ではないとして、結局14条で「連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する。」とし、すべての賠償請求権を放棄させた。
連合国がこのような寛大な処置をとった背景には、第一次世界大戦後のドイツに対する苛酷な賠償請求が、ドイツ経済を崩壊させ、ヒトラー台頭の一因となったという反省がある。また、1949年の中華人民共和国の建国や、1950年の朝鮮戦争の勃発など冷戦が激化する中で、すべての交戦国に賠償請求権を放棄させることにより、日本を自陣営に取り込みたいとするアメリカ側の狙いもあった。』
そんなこと言いながら、米国はしっかり膨大な日本の債務を昭和の終わりまで回収し続けた。
「寛大な措置」というのなら、債権を放棄してむしろ国土が破壊された国々への賠償を優先させるべきだったでしょうか?
米国にとって日本は、軍事的には対共産圏の極東の前線という意味があり、経済的には貸し倒れさせたくない債務者でもありました。米国の政策は、徹底して日本を朝鮮戦争やベトナム戦争の前線基地・調達工場として採用し、日本の労働力を安く利用しました。
「寛大な措置」などではなく、パイの取り合いに力のある国家が勝利した結果に過ぎなかったのです。
日本がポンド建て国債を返済し終えた2年後の1985年、日本はNYにおけるプラザ合意を受け入れ、変動相場制に突入します。
戦後の日本経済の政策誘導は、膨大な米国の対日赤字を伴っていました。そのため、米国でのインフレが進んでいました。
歴史的な会議ではあったが、事前に内容は決められており、会議自体の所要時間はわずか20分程度であったといわれる。
プラザ合意は、日本がアメリカの赤字解消のための為替操作を容認した対米妥協策と言われますが、その節目の時期には、日米貿易の意味合いが全く変わっていたのです。