転載記事です。
- by薄田 雅人
- on 2013/7/2
日中は関係悪化で双方とも傷を負った
国際ビジネスにおいて、相手国での「日本」イメージが良いに越したことはありません。残念ながら、日本のビジネスパーソンは過去も現在も中国で、たとえば欧米人たちよりはずっと微妙な心遣いをせざるを得ない状況に置かれています。
隣国同士というのはそもそもそういうものだという言い方も、ある意味できるでしょう。遠ければ、大体喧嘩にはなりません。
しかし、日中両国はGDPで世界第二位と第三位の大国でありますから、その影響たるや、たちまち世界規模のものとなります。中国の台頭に呼応し、その成長力を自社の利益に取り込もうと手を打ってきた幾多の日本企業が冷や水を浴びせられました。
一方、中国も、周辺諸国との緊張関係を増大させ、その後は日本政府の囲い込み外交にも遭い、かなりの外交的失策を犯しました。要するに、二国間関係の悪化で双方倶(とも)に傷を負ったのであります。
「反日デモは”ガス抜き”論」に感じる疑問
今日は、一つの見方に疑問を呈するところから、始めたいと思います。
昨年秋、いわゆる「反日デモ」が中国各地-特に激しかったのは西安、蘇州、長沙など-で燃え盛りました。そのころ日本のチャイナ・ウォッチャーの一部に、中国国内にはそもそも収入格差や経済腐敗といった、すぐさま大火事になるほど沸々と煮えたぎった「政府への不満」が溜まっているので、そうした大衆(=無知蒙昧な大衆)の怒りの矛先(ほこさき)を変える、いわば、”ガス抜き”を効果的におこなうために「反日」が利用されたと主張する人々がいました。
江沢民政権の頃から、たしかに「反日」(=愛国主義運動)は、意図的に唱導されてきました。加えて「大衆動員」というのは、1949年の「建国」以来、ずっと使われ続けた政治手法ですから、為政者側にそのような考え方があっても不思議はありません。ただ、わたしは”ガス抜き”説を聞いた時、何かしらスッキリしない感じを抱いたのです。
わたしが先に触れた「専門家の見方」に違和感を覚えたのは、「中国の大衆」=「操作される人びと」=「無知蒙昧な人びと」とでもいうべき、相手への「非常に極端な単純化」が其処にあると感じたからでした。
果たして「中国の大衆」というのは、日本の一部のチャイナ・ウォッチャーや中国の一部エリートが言うように、”いまも変わらず”阿Q的な暗愚の集団であって、何千回も何万回も繰り返し放映されてきた「反日ドラマ」にいまだに洗脳され続けるほど「お目出度い単細胞」なのでしょうか。
だいたい、口先滑らかに「中国の大衆」の資質を語るそうした人びとは、実際に「中国大衆」と、どれだけ膝を詰めて語り合ったことがあるのでしょうか。
”サムライブルー”に対する好意的関心「称賛」「羨望」
話を、ガラリと変えます。
サッカーのコンフェデレーションズカップ(2013)では、白熱したゲームを楽しむことができました。早起きが苦手なわたしも、眠い目をこすり、日本代表の試合だけは欠かさず観ておりました。
中国が強い球技といえばなんといっても「卓球」ですが、彼らが心底好きなのは圧倒的に「サッカー」です。キオスクに寄れば、常に3~4種類のサッカー専門タブロイド紙が置いてあるほどで、つまりそこまで好きだからこそ、でありましょう。
このところ低迷を続ける「国足(中国男子サッカーナショナルチーム)」の体たらくを嘆く声が巷に溢れております-先日、タイとの親善試合で1-5の大敗を喫したときには、「今日が国恥日」などという過激な言い方までされておりました-。
その中国で、実は”藍色武士(サムライブルー=日本男子サッカーナショナルチーム)”に対する好意的関心-あるいは「称賛」「羨望」と言うべきかもしれません-が、実は非常に高いのです。
ちょっと、例を挙げてみましょう。
6月20日付で新浪網にUPされた記事に《日本人把意大利人打服了!徳羅西:難以置信他們太強了(日本人、イタリア人を心服させる!デ・ロッシ:信じられないくらい彼らは強かった)》があります。
結局は負けたわけで、日本人としてはかなりコソバ痒いところもあるのですが、この記事は大きな反響を呼び、翌21日正午までに29万本以上のコメントが寄せられたのでした。
たとえば江蘇省常州市在住の”Winterfell磊”さん。
「サッカーだけではない。日本は多くの領域で尊敬に値し、学ぶべき対象だ。ネットで日本を罵る愚かな若者たちを前にして、なんともやり切れない気持ちになる。どの面においても自分たちより優れた相手を、いったいどの面(つら)下げて罵るのだ?武力で問題を解決する時代などとうの昔に過ぎた。国民一人ひとりが尊敬を受け、その商品が認められ、敵がわれわれに心服する。これこそが真の強大さの証だ」
次に、北京市在住の”Liberty-REAL”さん。
「日本という国には、骨の髄まで一種の負けじ魂が宿っている。第二次大戦ではアメリカとさえ戦った。ファシズムの邪悪さはともかく、日本民族は中国人よりも団結心に富んでいる」
最後は江蘇省徐州市在住の”jsfxlt555″さん。
「日本は好きではない。しかし日本チームは確かに尊敬を受けるに値する!」
このほかにも、総じて日本人の真面目さ、計画性、あるいは社会制度や教育制度といった諸点について、実に多くの「称賛」が寄せられておりました-中国人が称賛するこうした「美点」が、いまの日本でどれほど健在なのかは、この際、置いておきましょう-。
サッカーで見える”中国人のホンネ” 「反日」でも「侮日」ではない
中国語で「凡事都有利有弊(あらゆる事象に利と弊が並存する)」、と申します。真面目さが硬直性に陥ることがあるでしょうし、計画性に富むという点は、一旦物事が計画通りに進まなくなった場合の順応性はどうなのかということにも繋がります。(学校秀才だけで戦うチームを作るのは難しく、しかも非常に危険であると、わたしは考えております)
ただ、いまここで取り上げているのはそういう次元の問題ではなく、もっと表層的なことがらです。表層的なことがらであるだけに、かえって社会の空気や固定観念を醸成し易いという問題について話をしております。
日本イタリア戦に関する掲示板を読んで、大変面白かったのは、其処で中国のみなさんが挙げていた「日本代表の強さ」であるとか「日本サッカーの良さ」というのが、しばしば中国人が「日本人(ないし日本)」を思い浮かべるときの代表的な「美点」として挙げられるものとほぼ重なっていた、ということでした。
プレスがどうだ、ディフェンスがどうだ、などという「技術論」、いや、もっと言えば、”サッカーとしてどうか”よりも、”日本人はなぜ優れているのか”、あるいは”日本はどうして(自国より)優れているのか”を慨嘆する風に綴ったものが大変多かったのです。
ある国の人びとが他国、特に隣国のことを思い浮かべるとき、大抵一定のステレオタイプ(=紋切り型に一つの類型に当て嵌めて対象を観る態度)に依ることが多いと思います。北東アジアの国々は多かれ少なかれ欧米への劣等意識を持っていますから、欧米には負けても、隣国には負けたくないという屈折した心理状態をただでさえ持ちがちです。
ところが、中国人は、ことサッカーに関しては比較的「ホンネ」をさらけ出します。また、これまた面白いのは、中国人は、日本と同じように(アジアでは)サッカー強国の韓国に対して、わたしの知るかぎり、日本サッカーに対するような「畏敬」とも「畏怖」ともつかぬほど高い「称賛」を与えたことがないのです。
これは非常に特徴的な現象であって、韓国チームが日本チームを試合で負かした時でさえ、あれは”韓国のやり口が汚かったからである”とか、”実力は日本の方が上であったが”といった評価が大勢を占めるのであります。
わたしの直観に過ぎないかもしれません。ただ、思い返してみても、これはわが親愛なる中国の友人諸兄との長く深い付き合いからも総括できるのですが、彼らはこれまで「反日」であったとしても、けっして「侮日」ではなかったのであります。(これに比すれば、彼らは「反韓」にまで至らずとも、多分に「侮韓」なのでありましょう)
「日本人」は自分達にないある資質を備えている民族
中国人は日本人のことをどう思っているのか?この、これまで何百回も訊かれたことに対して、「ビジネス」という側面からの、わたしの回答を申し上げましょう。
中国人は、「日本人」を、自分たちが大いに欠いている或る資質を備えている民族であるとみています。信じがたいほどの規律、緻密な計画性、愚直なまでの生真面目さと弛まぬ研究心により、大言壮語せず-大言壮語する場合には既に一定の実現計画を持っている-、ヒタヒタと、目標に向かい、学習を積み重ね、一致団結した組織の力で歩みをすすめる恐るべき民族であるとみています。
同時に、集団、組織としての凝集力が或る方向に結束(ファッショ)されてしまった場合、下手をすれば、嘗てのごとく自他に大きな破滅をもたらすほどの暴力主体が立ち現れるかもしれないと、かれらはいまでも心の何処かで畏れています。
あらゆることに、プラスとマイナスの両面があります。
中国人の「日本人観」についても、まったく同様に然り、であります。単純に「中国人は反日であるから」などとビジネスパーソンは間違っても言うべきでありません。そうした言い方は自らの浅薄な世界観を暴露するだけで、思考の幼稚性を告白するようなものでもあるし、第一、中国という大市場を傍らに置く国の人間として、計り知れない機会損失を招来する姿勢に繋がりかねないからです。
中国人は、日本(日本人)のことを-国際政治や外交はさておき-非常に高く評価しています。認めている、のです。これは、表玄関から入って中国の国有企業や事業機関と付き合ってきたわたしが実体験から確信を持って言える事実です。だからこそ畏れ、しかし”メイド・イン・ジャパン”にはいまでも信頼を置いているのです。
こうした彼らの実像、ホンネをしっかりと理解してはじめて、中国市場-ローカル企業や消費者-に対し、いかに向き合うべきか、つまり現地法人はどうつくるべきか、人事管理をどうすべきか、営業ユニットはどう組織すべきかといった一つ一つの具体的施策に一本揺るがぬ筋(スジ=判断基準)が入ってくるのです。
しかも”中国”は決して、”中華人民共和国”だけにとどまるものではありません。世界に広がる華人経済ネットワークを無視し、”中国がダメならその他アジア”などと行く筈がありません。話題性やアジテーションを狙い、本来複雑な相をもつ国際関係や国際ビジネスを故意か無知かで”単純化”するインチキ専門家に惑わされず、どうか世界に真の友人をお求めください。それこそが、政治の荒波に負けぬ巌(いわお)の城を形造ることでしょう。