排日抗日活動や赤化防止の為に『華北分離政策』を行い、親日派の殷汝耕を首班に『冀東防共自治政府』が樹立されたのですが、この評価は現在において、あまりよくありません。冀東政府に属する保安隊が通州事件を起こした結果、『華北分離政策』は『大失敗』だったと一部では評価されています。
今の私にはこの政策が失敗だったのかどうか明確な評価はまだ出来ません。結果だけを見れば、失敗とも言えるのですが。 この政策は土肥原賢二陸軍大将(在満州特務機関長/A級戦犯)が担当職務だったのですが、『謀略はテクニックではなく、それはすべて"誠"の心で事にあたるべきである。小手先で相手を牛耳り、圧迫するのではなく、誠をもって赤心を人の腹中に置けば、我が意は相手の心底に響き、通じるものである』と話しています。
日本人が美徳とする"謙遜"は、狡猾でしたたかな大陸の人間相手には、甘過ぎて逆に裏目に出たのでしょう。ただ土肥原大将の『心』は同じ日本人として誇らしいものです。またシナ事変全体を見ると、当時の近衛首相や広田外相(A級戦犯)は、蒋介石の腹の内を読み間違えたのか、対蒋介石強硬策を打ち出し、シナ事変を拡大(いわゆる一般的に言われている日中戦争)する原因になったとも言われています。
当時の日本は、背後に潜む中共とスターリンの謀略に気づかず、知らぬ間にその謀略に『ハマっていった』のですね。日本の『華北分離政策』によって作られた親日派の『冀東防共自治政府』に属する『保安隊』の中に、国民党や中共の"反日分子"が紛れ込んでいたのを全く気付かずに。
通州事件は、突発的に冀東保安隊が反乱を起こし日本人居留民を襲撃したのではなく、計画的凶行でした。
事件2日前、シナ部隊を掃討するために日本軍が出動した際、誤って冀東保安隊の訓練所を爆撃し、数名が死亡するという不幸が起きました。そのことから『報復』の為に通州の日本人居留民を惨殺したと言う説もありますが、これは違います。
誤爆を聞いた通州の特務機関長は、すぐさま首班の殷汝耕に陳謝すると共に、遺族を弔問していました。
また、冀東保安隊には誤爆について釈明し、慰撫に努めていました。
通州事件の原因は、 ●冀東保安隊第一総隊長『張慶餘』と『張硯田』の反日派2人が、国民党の第29軍隊長で冀察政務委員会の『宋哲元』と盧溝橋事件以前から接触し、冀東政府壊滅と抗日の"密約"を交わしたからです。これは中国で出版された『盧溝橋事変風雲編』に書かれている史実です。宋哲元は事前に通州の日本人居留民の人数や住所、家族構成まですべて調査していました。つまりこれによって計画的凶行の裏付けが出来ます。
先述でも触れましたが、中共の反日分子までも保安隊の中に紛れ込ませていたのです。後は日本軍が通州を空ける時を待つのみ。通州事件前後、北平周辺にある中国軍を掃討する為、日本兵守備隊100人余りを残して日本軍は通州を留守にしていました。たった100人程度の守備しか残さなかったのは、冀東政府とそれに属する保安隊を信じていたからです。
また当時シナでは、南京の怪放送、北平シナ新聞の虚報が有名でした。「日本軍は敗走した。29軍は大挙して冀東を攻撃する。通州の敵を屠り、"殷汝耕首班を血祭りにあげよ"」
張慶餘はこの怪放送をいいことに、日本軍守備が手薄になった機を逃さず、通州の日本人居留民を襲撃したのです。 この事例は情報心理戦において、シナが卓越した能力を発揮した場面であったと言えますが、これはシナに対する賞賛ではなく、そこまでして日本人居留民を虐殺したかったのか、日本軍に勝利する目的の策であればまだしも…確かにこれが大陸の戦争文化なのですが、理解に苦しみます。
29日午前3時、突如冀東保安隊3000人が通州の日本人居留民を襲撃。
逃走出来ないように通州城の門を閉め、『日本人を殺せ、朝鮮人を逃がすな!』と、わめきながら城内くまなく家一軒一軒探し求めて、片っ端から残虐の極みを尽くしました。不意をつかれた日本兵は防戦したものの多勢に無勢、次々と虐殺され、その戦闘の最中、保安隊は冀東政府首班の殷汝耕を拘束。
シナ人による惨殺は次の日の夕方まで繰り広げられたのです。惨状の報告を受けた日本軍の第二連隊は、あまりの惨たらしい大量の惨殺死体に驚愕、唖然としました。
手榴弾で吹き飛んだ少女、蜂の巣状態の死体。銃剣で刺され、目をエグりとられた死体。
付近の日本食堂では、子供が壁に打ち付けられ頭蓋骨陥没で即死。店員の女性全員は強姦後射殺。
食堂『旭軒』の女性店員8人も強姦のあと裸体にされ、陰部に銃剣が刺し込まれていたり、箸や棒を突き刺したまま放置。また、口の中に砂を詰められたり、腹をかち割られ内臓が飛び出し、ハエがたかっていたものもありました。外にも女性の無惨な全裸死体が放置され、死体すべての乳房や陰部がエグリとられていました。
中でも一番酷かったのは、通州の高級割烹旅館『近水楼』の惨殺です。八方の屋根の上から機関銃、小銃を撃ち込み、物凄い喚声を上げて内部に乱入し、手当たり次第虐殺。
女性に至っては屋根の上に引きずりあげ、または畑の中に引きずり込んで言語に絶する暴行を加えたり、手や足を縛られ、鼻や喉を針金で突き通し、ひきづり回して二ヶ所にまとめて射殺。宿泊客11人は数珠繋ぎにされひきづられた後ひとまとめに射殺。女中4人は射殺後に凌辱。惨たらしい死体は家の中や外に散乱し、池は赤く染まり、一家数珠繋ぎにされた死体が浮かんでいました。
また虐殺だけではありません。
シナ人は日本居留民の金品から家財道具、食料の略奪を行い、家は軒並みに2回、3回と財産の略奪を受け、政府の茶碗に至るまでも略奪され、一物も残らず空家同然という有り様。銀行からは現金6万元をはじめ、目ぼしい金品は尽く略奪されました。
この惨劇から逃れられたのは約400人近い居留民の中で120人程しかいませんでした。シナ人による日本人虐殺は通州事件だけではありません。
事件の詳細は書きませんが、読みやすいように以下の順に沿って書きます。 �事件名/発生年月・場所 �加害者/被害者数 �殺害方法(暴行・略奪等含む)
「尼港事件」�1920年(大正9)3月から5月。尼港は、間宮海峡(タタール海峡)をはさんで、樺太と向い合った大陸の、アムール川河口にある最果ての小市街で、人口は約1万5千いました。そこに日本居留民は約700人、他にもロシア人、中国人、朝鮮人、英国人が住んでいました。�ロシアのトリャピーチン率いる露中共産パルチザン(ロシア人、シナ人、朝鮮人)からなる約4千人の共産党ゲリラによる無差別大量虐殺。日本人犠牲者は約700人。(死者半数は民間人。そのうち140人は監獄に収容、虐殺される。)日本人以外の市民も5000人以上殺害。�犠牲者たちは、両目を抉り取られる、5本の指をバラバラに切り落とされて刺殺される、金歯があるものはあごから顔面を裂かれて抜き取られる、女子供は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られるなどの方法で殺されました。そのうえ町を焼き払いました。
獄舎の壁には血痕、毛のついた皮膚などがこびりついており、鉛筆書きで「大正9年5月24日午後12時を忘れるな」と書かれていました。
「南京事件」�1927年3月24日、南京。�反帝国主義約2百人のシナ人兵士と、一般のシナ人暴徒。日本人1人、英2人、米1人、伊1人、仏1人の死者が出ました。�日本人は死者1名で、被害は小さいと思われるかも知れませんが、この事件は「暴行、略奪、破壊」の被害が大きかったのです。一般市民の暴徒には「シナ人女性から子供」までもが、各国の領事館や居留地で、略奪や破壊行為をしました。
「済 南 事 件」�1928年(昭和3年)、中国山東省の済南。済南は主要な商業都市であり、日本人を中心として多くの外国人が居住していました。�日本の権益確保と日本人居留民保護のため派遣された日本軍とシナ軍との間に起きた武力衝突。日本人居留民12名が虐殺されました。(掠奪被害戸数136、被害人員約400)�「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿込みたるもの、顔面 、上部を切落したるもの、右耳を切落された左頬より右後頭部に貫通突傷 あり、全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切落したるもの」(昭和3年5月9日田中外相宛西田領事報告より引用)
シナ人による、民間人虐殺、陵辱、略奪、破壊の事件を3例あげましたが、�に注目してください。これらはすべて「通州事件」の残虐行為や略奪・破壊行為に酷似していませんか? |