沖縄戦それは終戦ごのGHQの日本人骨抜き政策の大きな原因となった。
沖縄戦に入る前米軍は短期間でそんなに苦労することなく沖縄戦を片付け日本本土攻撃の基地として利用できると考えていた。
理由として制空権は握っているし何よりもアメリカ軍にくらべ貧弱な武器装備、圧倒する兵力の数等々である。
ところが日本軍の抵抗は予想外の強さでアメリカ軍史上後にも先にもこの沖縄戦が最も苦戦した戦いとされるに至った。
一番アメリカ政府がショックだったのは沖縄戦の連合軍(イギリス軍も合流)総司令官バックナー中将の戦死だった。(この後アメリカ軍は住民への無差別攻撃をより激しくするようになった。)
ヨーロッパでのドイツ軍との抵抗などはこの沖縄の日本軍の抵抗に比べれば軽いと言われている。
沖縄戦で余りにも日本軍が強く善戦したのでアメリカは日本人を非常に恐れ戦後徹底的に洗脳弱体化=サヨク思想の普及で日本を骨抜きにしようとした。それに利用されたのが東大をはじめとするサヨクの教授たち(日本の大学の先生は基本的に軍部を嫌っていてサヨク的だった。今も同じ)が左翼教育の先導をとっていった。
かのフランシスコザビエル(日本に来た目的は日本を植民地にしようとするのが重要目的、布教はその手段であった。)も日本の武士はあまりに強くとても戦って勝てる相手ではない、この国の野蛮民族(白人以外は人ではないというのが彼らの当時の考え)は地球上から抹殺されるべきものとまで本国に伝えているほどだ。
事実アメリカもあまりに強い日本を永遠に弱体化したままでおこうと当時は真剣に考えていた。
皮肉にも日本軍が強すぎたため自虐史観とサヨク洗脳が徹底的に行われるようになったのだ。
以下はウィキペディアからの抜粋です。
連合軍の戦略[編集]
十・十空襲に遭う那覇市街
連合軍は、沖縄本島の存在について、有力な航空基地と泊地を設置可能で日本本土と中国大陸のいずれに侵攻する際の作戦拠点にもできる島と考えていた[16]。また、沖縄諸島の基地化により、日本の南西方面の海上航路・航空路を遮断することもできると見ていた[16]。他方、連合軍がフィリピンへ侵攻した場合には、日本軍の反撃拠点となりうる島であるとも警戒していた。
1944年8月時点での連合軍の戦略では、沖縄本島よりも先に台湾を攻略することが計画されていた[17]。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄県のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦についてはコーズウェイ作戦 (Operation Causeway) の名の下に具体的な検討が進められ、すでに上陸部隊の司令官にはアメリカ陸軍のサイモン・B・バックナー・ジュニア中将が決まっていた[18]。
ところが、9月中旬になってレイテ島上陸の予定繰上げが決まり、フィリピンでの泊地確保もより早く行える可能性が出てくると、アメリカ海軍のチェスター・ニミッツ提督らは台湾攻略以外の選択肢について再検討を始めた[19]。アメリカ陸軍も、ルソン島さえ占領すれば台湾は無力化できると考えて、台湾攻略中止に同調した[19]。そして、新たな日本本土空襲の拠点を求めていたアメリカ陸軍航空軍が、台湾の代わりに沖縄本島を攻略することを提案し[19]、検討の結果、10月5日に沖縄攻略作戦の実施が決定された[18]。計画では10月20日のレイテ島上陸、12月20日のルソン島上陸、翌1945年1月20日の硫黄島占領に続いて、3月1日に沖縄諸島へと上陸することとなった[20]。バックナー中将は、台湾上陸部隊の司令官から、そのまま沖縄上陸部隊の司令官へと任務が変更された[21]。
さっそくレイテ島への侵攻作戦に着手した連合軍は、事前に日本軍の反撃戦力を削る航空撃滅戦として沖縄県周辺や台湾などを攻撃した。1944年10月10日、アメリカ軍機動部隊が南西諸島一帯に対して大規模な空襲を行い、所在の日本軍航空機や艦船は大きな打撃を受けた(十・十空襲)。偵察活動も進められたが、1944年12月末に偵察任務で沖縄へ向かった潜水艦「ソードフィッシュ」が未帰還となった[22]。ペリリュー島の戦いで行われた偵察上陸では半数の人員が未帰還と言う大被害を出していることも踏まえて、偵察要員の事前上陸は見送られた[23]。
1945年3月、連合軍は、予定よりは遅れながらもルソン島攻略と硫黄島攻略をほぼ完了した。このときまでには、日本本土上陸作戦であるダウンフォール作戦の立案もされており、沖縄本島は、九州上陸を支援する拠点として利用されることに決まっていた。ルソン島攻略の遅れによる輸送船不足と3月の悪天候により沖縄侵攻は2度にわたって繰り下げられ、当初計画よりはちょうど1ヶ月遅れで、沖縄攻略を目的とした「アイスバーグ作戦」が発動されることとなった[24]。投入される陸上戦力はアメリカ陸軍第10軍の陸軍5個師団・4個戦車大隊ほかとアメリカ海兵隊3個師団で、強力な航空部隊と艦隊が支援にあてられている[25]。第10軍自体は新編成の組織であるが、主力の第24軍団と第3水陸両用軍団に属する師団はいずれも実戦経験を積んだ部隊であった[26]。
沖縄本島南部の戦い[編集]
第32軍の方針は前述の通り「軍主力は沖縄本島南半部を徹して国頭郡山岳地区に転位して戦略持久を策する」[63]との首里城に置かれた司令部を中心とした沖縄本島南部での持久戦術であり、沖縄戦の殆どの期間が南部攻略に費やされた。その為、南部での戦いを前・中・後期に分け記述する。
沖縄本島南部の戦い前期 嘉数高地陥落まで[編集]
嘉数高地における戦闘の詳細については「嘉数の戦い」を参照
南部のアメリカ軍の進撃は順調で、当初は予定通りのスケジュールで前進していた。
海軍上陸軍司令官リッチモンド・K・ターナー中将が太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ大将に「私の頭がおかしくなったのかもしれないが、当地における日本軍は戦闘を行う意思がない模様である」と報告し、ニミッツから窘められている[64]。
その中で独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)は孤軍奮闘、圧倒的なアメリカ軍相手に4月2日〜4日まで野嵩及び新垣のラインでアメリカ軍の進撃をよく阻止し、十分に役割を果たし撤収している[65]。
アメリカ軍は日本軍の抵抗を排除しながら首里(現那覇市の一部)の司令部を目指して南進するが、途中には守備軍が丘陵地形と陣地で待ち構えていた。そして、4月5日にはその前哨基地であるピナクル(日本軍呼称「161.8高地」)に達したが、同高地を防衛する独立歩兵第147大隊第一中隊(長谷川中隊)を主力とするわずか150名の日本軍は、圧倒的な米軍を相手に構築した地下陣地を活用し7〜8回米軍の攻撃を撃退したが、アメリカ軍は地下陣地に爆薬から黄燐手榴弾までを使用して攻撃、長谷川中隊の生存者はわずか30名となった為撤退し、6日にはピナクルはアメリカ軍の手に墜ちた(ピナクルの戦い)[66]。
アメリカ軍はその後全線に渡って進撃を開始したが、4月7日には各所で日本軍の頑強な陣地に阻まれ、進撃は停止した。第7歩兵師団はレッドヒル(日本軍呼称「北上原陣地」)を攻撃したが、歩兵と援護の戦車10両と装甲車5両のアメリカ軍部隊に対し、日本軍は対戦車地雷と梱包爆弾により戦車3両をたちまち撃破、アメリカ軍歩兵を砲撃と機銃掃射で後退させ戦車を孤立させて、戦車を肉弾攻撃し撃退している[67]。この歩兵と戦車を分離させて撃破する戦術は、沖縄戦では他の戦闘でも多用されることとなった[68]。
沖縄戦のアメリカ軍には、太平洋戦域の各戦場を戦い抜いてきた歴戦の兵士も多かったが、沖縄の日本軍地下陣地が、今までの戦場で見てきた日本軍陣地における巧妙や複雑さなどの利点を全て兼ね備えていると痛感させられた。陣地は網の目の様な地下坑道で連結され、地下可動性が高く補給や兵員の補充も容易で、防御から攻撃への切り替えもできた。また、出入り口は巧妙に擬装されており、攻撃しているアメリカ軍の後方に不意に出現し、背後から攻撃する事も可能であった[69]。
日本軍の陣地構築に際しては、コンクリートなどの資材は不足していたが、沖縄の南部地域は珊瑚隆起の固い地面も多く、その強度はコンクリート並みであった為に、その固い地層を活用して地下陣地が構築され、アメリカ軍の砲爆撃でも容易には破壊されなかった。また、多数存在した天然の洞穴や、沖縄独特の墓である亀甲墓がその堅牢な構造からトーチカ代わりに使われ陣地の一部となった[70]。
その沖縄の日本軍の陣地の中で、第96師団が攻撃した嘉数高地が、地形要因にも恵まれもっとも強固な陣地となり、第96師団を初めとしてアメリカ軍は多大な出血を強いられる事になった(嘉数の戦い)。日本側はその強固な陣地を最大限活用し、賀谷支隊をはじめ、主陣地を守備した第62師団、第2線陣地を守備した第24師団が激しい抵抗をしている。特に4月8日〜12日に嘉数高地を攻撃した米陸軍第96師団と、同時に和宇慶高地を攻撃した同第7師団は日本軍の巧みな防衛を前に合計2,880名の死傷者を出したが、日本軍の防衛線はビクともしなかった[64][注 9]。
ここまで大本営陸軍部は、第32軍の意図する「出血持久作戦」をよく理解していたはずであった。しかし、4月3日の戦況上奏の際に、昭和天皇(大元帥)が梅津陸軍参謀総長に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と下問した。その下問を受けて梅津は「第32軍に適切な作戦指導を行わなければならぬ」と考え[73]、大本営陸軍部は第32軍に対しアメリカ軍に奪われた北・中飛行場の奪回を要望する電令を発した[74]。さらに沖縄戦を最後の決戦と位置づける連合艦隊からも、北・中飛行場を奪還する要望が第32軍に打電されている[75]。これらの督促を受けて、長第32軍参謀長は攻勢を主張、八原高級参謀は反対するも、牛島軍司令官は北・中飛行場方面への出撃を決定した。4月8日と12日に日本軍は夜襲を行ったが、第62師団の2個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった[76]。
夜襲失敗の状況などを考え、13日には第32軍の方針は一旦は八原高級参謀主張の持久方針に固まった[77]。
日本軍の夜襲後も、アメリカ軍は激しい攻撃を繰り返した。特に4月19日に第96・第7・第27師団の3個師団で行われた総攻撃は、日本軍の激しい抵抗により第27師団の、30両のM4中戦車内22両を撃破され、第24軍団全体でも720名の死傷者を出す大損害を被って撃退されている[78][72]。
その後膠着状態が続き、アメリカ軍の攻撃は完全に行き詰った様に見えたが、アメリカ軍は日本軍に艦砲射撃を含む砲爆撃を徹底的に浴びせ[注 10]、多数の戦車を伴い、防衛線全線に渡って攻撃を継続した。特に、ペリリュー島の戦い以降、日本軍陣地の攻撃手段として行ってきた「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」での陣地攻撃により、陣地に籠る日本兵の死傷者も激増していた。これは日本軍が「馬乗り戦法」と名付け恐れた戦術であり、まずは日本軍陣地の出入り口を見つけると、戦車の支援と激しい集中射撃で日本軍を陣地の中に追い込み、歩兵が通気口を見つけそこからガソリンやナパームジェルを流し込み、火災で日本兵を殲滅し、最後に大量の爆薬で陣地ごと吹き飛ばすといった、圧倒的物量を誇る米軍ならではの戦法であった[80]。善戦していた日本の第62師団も大きな損害を被っており、第32軍は4月23日に戦線整理として、一部の部隊に撤収と陣地変換を命じている。19日〜23日までの激戦で第32軍も戦死2,490名負傷2,665名の損害を被っていた[81]。これによりアメリカ軍はようやく首里防衛ラインの外郭を突破し、対する日本側第32軍は予備兵力の第24師団と独立混成第44旅団主力も投入し、後退した第62師団と合わせて防衛線を再構築した。
嘉数高地で陸軍が苦戦している間、アメリカ海軍の将兵は日本軍の激しい特攻に曝されており、4月1日〜4月23日の間に60隻の艦船が撃沈破されて、人的損失も1,100名戦死、2,000名以上負傷に達していた。
太平洋艦隊チェスター・ニミッツ司令長官は、陸軍の進撃速度のあまりの遅さに、バックナーは陸軍の損害を軽減させるために、海軍を犠牲にしてわざと慎重な手法を使っていると疑っており、現場の指揮には口を挟まないという方針を崩して、バックナーの作戦指導に介入する為に4月22日にアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官を連れて、自ら沖縄に出向いている[82]。バックナーは慎重な作戦を好んだが、海軍や海兵隊よりは積極性に欠けるとの評価で不満が燻っており、普段温厚なニミッツも、会談中にあまりにも慎重なバックナーの姿勢に激高し「他の誰かを軍司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば海軍はいまいましいカミカゼから解放される」と詰め寄っている[72]。
この際にニミッツとヴァンデグリフトが提案したのは、頑強な日本軍防衛線の背後に、サイパンで待機中の第2海兵師団の残存部隊を上陸させて、防衛線の背後をつくというものであり、レイテ島の戦いのオルモック上陸作戦での成功を再現できると海兵隊も乗り気であった[83]。
しかし、バックナーは補給の問題[注 11]と、「そんなことをしたらアンツィオ上陸作戦より酷い事になる」という懸念より、その提案を取り上げなかった。後にヴァンデグリフトは「バックナーは(上陸作戦に)あまり関心を示さなかった」とこの時のやり取りを振り返っている[85]。
バックナーは、父親も南北戦争で南軍の将軍として従事した軍人家系の家に生まれたが、その厳格な性格はウェストポイント陸軍士官学校校長時代から定評があり、圧倒的物量により正面突破する戦術を好んだ[86]。
1943年には司令官として、アリューシャン列島攻略作戦を正攻法で成功させた為、沖縄戦についても、正攻法を貫き通す意向であった。ニミッツらの提案以外でも、同じ陸軍の第77師団アンドリュー・D・ブルース少将からも、自らのレイテ島オルモックでの成功体験より同様な提案あっていたが、きっぱりと撥ね除けている[85]。バックナーは様々な作戦の提案を取り上げることなく、日本軍防衛線正面からの正攻法を採り、結局ニミッツも陸海軍の対立を懸念し、バックナーの正攻法を受け入れた[83]。しかし、この判断は後に米軍に多大な出血を強いることとなり、マスコミを初めとした強いバッシングを受け[83]、バックナー自身の運命をも左右させる事となった。
日本軍は海上においても、4月9日船舶工兵第26連隊の決死隊50人が神山島に潜入し、野戦重砲陣地の破壊を報じた。これに合同して海上挺進第26戦隊のマルレ40隻が出撃し、フレッチャー級駆逐艦「チャールズ・J・バジャー」を大破させた[87]。その後も、4月中に延べ60隻以上のマルレが出撃し、駆逐艦「ハッチンス」を擱座させ(後に廃艦)、数隻の歩兵揚陸艦や哨戒艇を撃沈している。