地獄の死闘をする日本軍と米軍。我々は先人の歴史をもっと知らねばならない。
特に現代日本に大きな禍根を与えた明治以降から大東亜戦争の検証が必要だ。その前の歴史全般、戦国時代などは本当は二の次だ。
南部の戦いで天皇が現地の状況を何も知らぬのに「現地軍は何故攻勢に出ぬか」と下問した。」とあるがそれによって多くの将兵が無駄に死ぬこととなった。
沖縄本島南部の戦い[編集]
第32軍の方針は前述の通り「軍主力は沖縄本島南半部を徹して国頭郡山岳地区に転位して戦略持久を策する」[63]との首里城に置かれた司令部を中心とした沖縄本島南部での持久戦術であり、沖縄戦の殆どの期間が南部攻略に費やされた。その為、南部での戦いを前・中・後期に分け記述する。
沖縄本島南部の戦い前期 嘉数高地陥落まで[編集]
嘉数高地における戦闘の詳細については「嘉数の戦い」を参照
南部のアメリカ軍の進撃は順調で、当初は予定通りのスケジュールで前進していた。
海軍上陸軍司令官リッチモンド・K・ターナー中将が太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ大将に「私の頭がおかしくなったのかもしれないが、当地における日本軍は戦闘を行う意思がない模様である」と報告し、ニミッツから窘められている[64]。
嘉数高地で撃破されたM4中戦車
その中で独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)は孤軍奮闘、圧倒的なアメリカ軍相手に4月2日〜4日まで野嵩及び新垣のラインでアメリカ軍の進撃をよく阻止し、十分に役割を果たし撤収している[65]。
アメリカ軍は日本軍の抵抗を排除しながら首里(現那覇市の一部)の司令部を目指して南進するが、途中には守備軍が丘陵地形と陣地で待ち構えていた。そして、4月5日にはその前哨基地であるピナクル(日本軍呼称「161.8高地」)に達したが、同高地を防衛する独立歩兵第147大隊第一中隊(長谷川中隊)を主力とするわずか150名の日本軍は、圧倒的な米軍を相手に構築した地下陣地を活用し7〜8回米軍の攻撃を撃退したが、アメリカ軍は地下陣地に爆薬から黄燐手榴弾までを使用して攻撃、長谷川中隊の生存者はわずか30名となった為撤退し、6日にはピナクルはアメリカ軍の手に墜ちた(ピナクルの戦い(英語版))[66]。
アメリカ軍はその後全線に渡って進撃を開始したが、4月7日には各所で日本軍の頑強な陣地に阻まれ、進撃は停止した。第7歩兵師団はレッドヒル(日本軍呼称「北上原陣地」)を攻撃したが、歩兵と援護の戦車10両と装甲車5両のアメリカ軍部隊に対し、日本軍は対戦車地雷と梱包爆弾により戦車3両をたちまち撃破、アメリカ軍歩兵を砲撃と機銃掃射で後退させ戦車を孤立させて、戦車を肉弾攻撃し撃退している[67]。この歩兵と戦車を分離させて撃破する戦術は、沖縄戦では他の戦闘でも多用されることとなった[68]。
伊江城山の日本軍陣地、各砲座や銃座は地下坑道や壕で結ばれ、山全体が要塞化されている状況が記載されている。この様な要塞が至る所に構築された。
沖縄戦のアメリカ軍には、太平洋戦域の各戦場を戦い抜いてきた歴戦の兵士も多かったが、沖縄の日本軍地下陣地が、今までの戦場で見てきた日本軍陣地における巧妙や複雑さなどの利点を全て兼ね備えていると痛感させられた。陣地は網の目の様な地下坑道で連結され、地下可動性が高く補給や兵員の補充も容易で、防御から攻撃への切り替えもできた。また、出入り口は巧妙に擬装されており、攻撃しているアメリカ軍の後方に不意に出現し、背後から攻撃する事も可能であった[69]。
日本軍の陣地構築に際しては、コンクリートなどの資材は不足していたが、沖縄の南部地域は珊瑚隆起の固い地面も多く、その強度はコンクリート並みであった為に、その固い地層を活用して地下陣地が構築され、アメリカ軍の砲爆撃でも容易には破壊されなかった。また、多数存在した天然の洞穴や、沖縄独特の墓である亀甲墓がその堅牢な構造からトーチカ代わりに使われ陣地の一部となった[70]。
その沖縄の日本軍の陣地の中で、第96師団が攻撃した嘉数高地が、地形要因にも恵まれもっとも強固な陣地となり、第96師団を初めとしてアメリカ軍は多大な出血を強いられる事になった(嘉数の戦い)。日本側はその強固な陣地を最大限活用し、賀谷支隊をはじめ、主陣地を守備した第62師団、第2線陣地を守備した第24師団が激しい抵抗をしている。特に4月8日〜12日に嘉数高地を攻撃した米陸軍第96師団と、同時に和宇慶高地を攻撃した同第7師団は日本軍の巧みな防衛を前に合計2,880名の死傷者を出したが、日本軍の防衛線はビクともしなかった[64][注 9]。
ここまで大本営陸軍部は、第32軍の意図する「出血持久作戦」をよく理解していたはずであった。しかし、4月3日の戦況上奏の際に、昭和天皇(大元帥)が梅津陸軍参謀総長に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と下問した。
その下問を受けて梅津は「第32軍に適切な作戦指導を行わなければならぬ」と考え[73]、大本営陸軍部は第32軍に対しアメリカ軍に奪われた北・中飛行場の奪回を要望する電令を発した[74]。さらに沖縄戦を最後の決戦と位置づける連合艦隊からも、北・中飛行場を奪還する要望が第32軍に打電されている[75]。これらの督促を受けて、長第32軍参謀長は攻勢を主張、八原高級参謀は反対するも、牛島軍司令官は北・中飛行場方面への出撃を決定した。4月8日と12日に日本軍は夜襲を行ったが、第62師団の2個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった[76]。
夜襲失敗の状況などを考え、13日には第32軍の方針は一旦は八原高級参謀主張の持久方針に固まった[77]。
日本軍の夜襲後も、アメリカ軍は激しい攻撃を繰り返した。特に4月19日に第96・第7・第27師団の3個師団で行われた総攻撃は、日本軍の激しい抵抗により第27師団の、30両のM4中戦車内22両を撃破され、第24軍団全体でも720名の死傷者を出す大損害を被って撃退されている[78][72]。
その後膠着状態が続き、アメリカ軍の攻撃は完全に行き詰った様に見えたが、アメリカ軍は日本軍に艦砲射撃を含む砲爆撃を徹底的に浴びせ[注 10]、多数の戦車を伴い、防衛線全線に渡って攻撃を継続した。特に、ペリリュー島の戦い以降、日本軍陣地の攻撃手段として行ってきた「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」での陣地攻撃により、陣地に籠る日本兵の死傷者も激増していた。
これは日本軍が「馬乗り戦法」と名付け恐れた戦術であり、まずは日本軍陣地の出入り口を見つけると、戦車の支援と激しい集中射撃で日本軍を陣地の中に追い込み、歩兵が通気口を見つけそこからガソリンやナパームジェルを流し込み、火災で日本兵を殲滅し、最後に大量の爆薬で陣地ごと吹き飛ばすといった、圧倒的物量を誇る米軍ならではの戦法であった[80]。善戦していた日本の第62師団も大きな損害を被っており、第32軍は4月23日に戦線整理として、一部の部隊に撤収と陣地変換を命じている。19日〜23日までの激戦で第32軍も戦死2,490名負傷2,665名の損害を被っていた[81]。これによりアメリカ軍はようやく首里防衛ラインの外郭を突破し、対する日本側第32軍は予備兵力の第24師団と独立混成第44旅団主力も投入し、後退した第62師団と合わせて防衛線を再構築した。
沖縄戦の陸海軍司令官、左からレイモンド・スプルーアンス、チェスター・ニミッツ、サイモン・B・バックナー・ジュニア
嘉数高地で陸軍が苦戦している間、アメリカ海軍の将兵は日本軍の激しい特攻に曝されており、4月1日〜4月23日の間に60隻の艦船が撃沈破されて、人的損失も1,100名戦死、2,000名以上負傷に達していた。
太平洋艦隊チェスター・ニミッツ司令長官は、陸軍の進撃速度のあまりの遅さに、バックナーは陸軍の損害を軽減させるために、海軍を犠牲にしてわざと慎重な手法を使っていると疑っており、現場の指揮には口を挟まないという方針を崩して、バックナーの作戦指導に介入する為に4月22日にアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官を連れて、自ら沖縄に出向いている[82]。バックナーは慎重な作戦を好んだが、海軍や海兵隊よりは積極性に欠けるとの評価で不満が燻っており、普段温厚なニミッツも、会談中にあまりにも慎重なバックナーの姿勢に激高し「他の誰かを軍司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば海軍はいまいましいカミカゼから解放される」と詰め寄っている[72]。
この際にニミッツとヴァンデグリフトが提案したのは、頑強な日本軍防衛線の背後に、サイパンで待機中の第2海兵師団の残存部隊を上陸させて、防衛線の背後をつくというものであり、レイテ島の戦いのオルモック上陸作戦での成功を再現できると海兵隊も乗り気であった[83]。
しかし、バックナーは補給の問題[注 11]と、「そんなことをしたらアンツィオ上陸作戦より酷い事になる」という懸念より、その提案を取り上げなかった。後にヴァンデグリフトは「バックナーは(上陸作戦に)あまり関心を示さなかった」とこの時のやり取りを振り返っている[85]。
バックナーは、父親も南北戦争で南軍の将軍として従事した軍人家系の家に生まれたが、その厳格な性格はウェストポイント陸軍士官学校校長時代から定評があり、圧倒的物量により正面突破する戦術を好んだ[86]。
1943年には司令官として、アリューシャン列島攻略作戦を正攻法で成功させた為、沖縄戦についても、正攻法を貫き通す意向であった。ニミッツらの提案以外でも、同じ陸軍の第77師団アンドリュー・D・ブルース少将からも、自らのレイテ島オルモックでの成功体験より同様な提案あっていたが、きっぱりと撥ね除けている[85]。バックナーは様々な作戦の提案を取り上げることなく、日本軍防衛線正面からの正攻法を採り、結局ニミッツも陸海軍の対立を懸念し、バックナーの正攻法を受け入れた[83]。しかし、この判断は後に米軍に多大な出血を強いることとなり、マスコミを初めとした強いバッシングを受け[83]、バックナー自身の運命をも左右させる事となった。
日本軍は海上においても、4月9日船舶工兵第26連隊の決死隊50人が神山島に潜入し、野戦重砲陣地の破壊を報じた。これに合同して海上挺進第26戦隊のマルレ40隻が出撃し、フレッチャー級駆逐艦「チャールズ・J・バジャー」を大破させた[87]。その後も、4月中に延べ60隻以上のマルレが出撃し、駆逐艦「ハッチンス」を擱座させ(後に廃艦)、数隻の歩兵揚陸艦や哨戒艇を撃沈している。
沖縄本島南部の戦い中期 日本軍総攻撃の失敗 首里防衛線崩壊まで[編集]
(日本軍総攻撃)[編集]
第32軍は夜襲失敗以降は、八原博通高級参謀の持久戦術により、米軍に多大な損害を与えて進撃を遅滞させてきたが、損害は増大し主陣地も逐次圧迫され、第32軍首脳部は今後の戦況の推移に憂慮していた。
4月29日に長勇参謀長は八原ら参謀を集め「今後の戦況の見通しと軍の攻勢」について幕僚会議を開いた。その席で長は「現状をもって推移すれば、軍の戦力は蝋燭のごとく消磨し、軍の運命が尽きることは明白、攻撃戦力を保有している時期に攻勢を採り、運命の打開をすべき」と反転攻勢を主張した[88]。
八原は「攻勢をとれば全滅の運命は必至という状況を冷静に受け入れ、今までの戦略持久を堅持すべきである」こと、「防御陣地を捨てて攻勢に転じても圧倒的火力優勢な米軍を撃退することは不可能であり、失敗すれば戦略持久すら不可能となり、本土攻撃までの持久日数が短小となる」と強く主張し反対したが[89]、他の参謀らは長を熱烈に支持した。牛島満第32軍司令官も、かねてよりの中央からの督戦も気に病んでおり、長らの攻勢の意見を取り上げ同日に総攻撃を決定した。5月1日には最後まで反対していた八原を呼び「既に軍は全運命を賭けて攻勢に決したのだから、よろしく気分一新し、全軍の気勢を殺がぬよう注意せよ」と温厚な牛島にしては異例の叱責を行っている[90]。
日本軍の夜襲に対して砲撃するアメリカ軍重砲
作戦会議決定により5月4日・5日に、日本軍は反転攻勢に転じた。第32軍は、温存していた砲兵隊に砲撃を開始させ、第24師団と戦車第27連隊などを繰り出して普天間付近までの戦線回復を図った。日本軍は一晩に5,000発のかつてない規模での砲撃を加え、船舶工兵第23、26連隊と海上挺進第26-29戦隊は、舟艇で海上を迂回しての逆上陸を試みた。また第32軍の要請により、大本営は空からの援護として菊水五号作戦と第六次航空総攻撃を実施した。
日本軍の猛烈な砲撃にアメリカ軍は一時混乱に陥ったが、あらゆる火砲や火器を集中して総攻撃してきた日本軍を攻撃し、日本兵は得意の白兵戦に持ち込む事もできずバタバタと斃された[91]。また日本軍の発砲地点を観測機により発見して効果的に反撃し、対砲兵戦により59門を破壊したと記録している[92]。また、日本の戦車第27連隊は95式軽戦車の殆どが撃破され[93]、残存戦車6両となり連隊はほぼ壊滅するなど、日本軍の総攻撃は大失敗に終わった。日本軍の遺棄死体は6,237名にも及び、殆ど無傷の予備兵力であった第24師団も大打撃をうけ、隷下歩兵第32連隊などは戦力が30%以下となった[94]。アメリカ軍の損害は、日本軍の攻勢正面で死傷者714人を生じている。この損害は、日本軍の攻勢正面から外れた地域で侵攻中だった第1海兵師団が5月4日だけで352人の死傷者を出したのと比べると相対的に軽い[95]。
この結果よりアメリカ陸軍は、この総攻撃の提案者の長に対し、「5月4日から5日にかけての日本軍の反撃は、長より八原の戦術の方が優れている事を示した。長が自信過剰になって思い付き、不適切に実行した攻撃は、途方もない大失態だった」と厳しい評価をしている[96]。総攻撃の失敗により、沖縄戦は二週間以上短縮されたと分析されているが、この失敗に懲りた牛島は、八原に目に涙を浮かべながら謝罪し、今後は八原の助言を重んじると告げている[97]。
一方で総攻撃への空からの援護であった特攻は、相応の戦果を挙げており、駆逐艦「モリソン」「ルース」、中型揚陸艦LSM(R)-190およびLSM(R)-194が撃沈され、護衛空母「サンガモン」、軽巡洋艦「バーミンガム」が大破するなど17隻が撃沈破され682名の死傷者を出した[98]。この内「バーミンガム」への特攻の瞬間は、地上で戦っていた海兵第一師団からも目撃できたという[99]。
第32軍の総攻撃失敗から数日後の5月8日にナチスドイツが無条件降伏したが、沖縄のアメリカ兵たちは誰も大して関心を払わなかった。ナチスドイツが降伏しようが、総攻撃失敗で大損害を被ろうが日本軍は今までの様に沖縄でも全滅するまで戦うだろうと確信しており、元海兵隊員で戦後に生物学者となったユージーン・スレッジは当時「ナチスドイツなど月より遠い話だ」と考えたと回想している[100]。海兵隊員らの予想通り、この後日本軍は八原の作戦指揮の下、無謀な攻撃はせず、徹底した持久戦術をとった為、米軍の損害が増大していった。
(シュガーローフの死闘)[編集]
詳細は「シュガーローフの戦い」を参照
シュガーローフ・ヒル(安里52高地)
バックナー中将は、日本軍が予備隊を使い果たした状況であるのを踏まえ、5月中が首里へ向けて総攻撃を行う好機と判断した[101]。第6海兵師団を中心とする第3水陸両用軍団は、島北部の掃討任務を第27歩兵師団と交代して5月11日までに南へ転進した。これによりアメリカ軍は、西から順に第6海兵・第1海兵・第77・第96師団を並べ、第7師団を予備隊に控えた態勢で総攻撃を開始した[102]。
バックナーは日本軍は精鋭部隊の殆どを総攻撃失敗で失ってしまった、という前提の上で「今度の攻勢では、特に変わった戦闘はない。新鋭師団も十分だから、1個師団は常に休養が取れる」と考え、幕僚らも「新鋭の海兵師団をもってすれば、迅速に日本軍陣地を突破できる」と楽観的な見通しを持っていた[103]。
しかし、日本軍は牛島中将が、総攻撃の失敗の教訓として「首里を包含し、両翼を東西海岸に委託する現陣地に拠り、米軍の出血を強要しつつ、あくまでも持久し」[104]と徹底した持久作戦を指示、八原高級参謀も「我々はひたすら陣地内に潜み、可能な限り沢山の米兵を殺すべし」[105]と徹底しており、バックナーらの見通し通りとはならず、戦いはこれまでを遙かに上回る激戦となった
バックナーの作戦は、首里防衛線の右翼を第3水陸両用軍団の 第1海兵師団と第6海兵師団、左翼を第24軍団の陸軍第96師団と第77師団が突破し、中央の首里城にある第32軍の司令部を包囲しようというものであった[106]。中でも、前半戦は北部戦線にいた第6海兵師団は他師団と比較すると損害は少なく、また精鋭師団との自負もあり、師団長のレミュエル・C・シェファード少将は第三水陸両用軍団司令官のロイ・ガイガー中将に対し「海岸沿いを迅速に進撃し、首里城を回り込んで、沖縄の南端まで達してみせる」と豪語し、第一海兵師団と一体化して進撃するという作戦を変更させている[107]。
5月11日に第6海兵師団は日本軍の激しい抵抗を受けながらも安謝川を渡河し、首里西方の安里付近に進出したが、そこの三つの高地(シュガーローフ、ハーフムーン、ホースショア)の日本軍陣地に進撃を止められた。この三つの丘はシュガーローフを頂点、他の二つが底辺とする三角形を構成し侵攻軍に矛先を向け、三つの丘は相互に相補って強固な防衛線を構築していた[108]。12日にシュガーローフを最初に攻撃した第22海兵連隊のG中隊は7名の将校と236名の兵士で構成され、戦車11両を先頭に進撃してきたが、集中砲撃を浴びたちまち戦車3両が炎上、退却中に日本軍の猛攻により、夜までには総兵力は75名となり壊滅した[109]。
この後も、シュガーローフは一帯は海兵隊史上最大の激戦となり、反斜面陣地を軸とした強固な陣地を守る日本軍の独立混成第44旅団配下の部隊と激しい攻防戦を繰り広げた(シュガーローフの戦い)。反斜面陣地とは、敵と相対する斜面ではなく反対斜面に構築された陣地であり、反対斜面にあるのでアメリカ軍の砲撃では中々破壊されず、アメリカ軍が山頂に達すると、反対斜面の陣地で砲爆撃をやりすごした日本軍が、迫撃砲や擲弾筒や手榴弾投擲で山頂のアメリカ軍を攻撃したり、網の目のように張り巡らされた地下坑道を伝ってきた日本軍が背後から攻撃してくるといったもので、今までのアメリカ軍が経験したことがない戦法であった[110]。巧みな日本軍の陣地構築で「死傷者が続出しているのに日本兵の姿は全く見えない」「丘(シュガーローフ)から弾は飛んでくるが日本兵は全く見えないので、丘を相手に戦ってる気分だった」という状況であった[111]。
特にアメリカ軍に多大な出血を強いたのは、日本軍の多数の火砲であった。シュガーローフを防衛していた独立混成第44旅団は8門の10cm野砲と4門の山砲を装備し、他にも多数の迫撃砲や擲弾筒などの火砲も併せて、進撃してくるアメリカ軍に激しい砲撃を加えている。砲撃は正確であり、海兵隊員は「やつら(日本軍)は牛乳瓶の中にでも弾を撃ち込むことができた」とその正確性に驚愕し、後に編纂された海兵第6師団の戦史では「日本軍の砲撃はこれまで出会った事が無いほど、優れた統制と正確さの下で実施された」と纏められている[112]。ある時には観測地点で敵情観察中の海兵隊将校らのど真ん中に砲撃を命中させ、大隊長と戦車隊将校ら5名を戦死させ、中隊長3名に重傷を負わせている[113]。
しかし激しい砲撃や射撃の中で、
海兵隊はシュガーローフやハーフムーンに中々近づく事ができず、支援の戦車も次々に撃破された。シュガーローフの戦いでは主に対戦車地雷と一式機動四十七粍速射砲によって多数のM4中戦車が撃破された。日本軍は速射砲を巧みに擬装して米軍戦車を一旦やりすごした後に装甲の薄い後方から攻撃し、貫通した砲弾と装甲板が車内を跳ね回り乗員を殺傷した。アメリカ軍はその対策として、最後尾の戦車は砲塔を後ろ向きにして警戒していた