この頃に台湾の第10方面軍より、傍受したアメリカのラジオ・ニュースの内容が知らされたが「天久台での海兵隊の損害は甚大で、250名の中隊が炊事兵まで繰り出して戦い、ついには8名になった」と言うもので、第32軍は予想以上にアメリカ軍を苦戦させていることが判り狂喜した。しかし八原は「あのバカげた総攻撃さえなければ、今こそ米軍に甚大な損害を与え撃退できたのに」と悔やんだ[121]。
海兵隊の損害も甚大であったが、日本軍の損害も大きく、日に日に日本軍の抵抗は弱まっていき、ついに5月19日の11回目の攻撃で陥落した。しかしアメリカ軍の払った代償は大きく、死傷者は2,622名にも及び、他1,289名の神経症患者も出すこととなった[122]。特に将校の死傷率が高く3名の大隊長が戦死、11名の中隊長が死傷するなど死傷率は70%にも及んだ[123]。圧倒的なアメリカ軍を相手に、シュガーローフで10日間も足止めした日本軍の戦術は、戦後に米海兵第6師団の教本で「教科書通りの陣地防御戦術」と称賛された[124]。
(首里防衛線の崩壊)[編集]
海兵第4師団の隣を進撃していた海兵第1師団も進撃の行く手には、安羽茶地区、沢岻高地、沢岻村、大名高地、大名村があったが、これらは全て堅く陣地化され、互いに支援しあえる様に緻密に設計された縦深防御の精巧な防衛システムが構築されていた[125]。第一海兵師団は5月6日に安羽茶地区のナン高地(日本軍呼称:50米閉鎖曲線高地)に達したが、日本軍は陣地に立て籠もり抵抗、一式機動四十七粍速射砲により3両の戦車が撃破されるなどで2回撃退されたが、9日にはアメリカ軍は得意の「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で陣地ごと爆破し、ナン高地を制圧した[126]。
次いで沢岻高地、沢岻村も、攻撃してきた米海兵第七連隊に対して、日本軍2個大隊が激しく抵抗したが12日にアメリカ軍が占領した[127]。
14日に海兵第1師団は大名高地に達した。大名高地とそれに隣接する高地は首里直前に位置し、首里防衛線の中核を成しており、その堅牢さはそれまでとは比較にならなかった[128]。12両の戦車を先頭に第5海兵連隊が攻撃したが、日本軍の速射砲の攻撃で戦車2両が撃破され、迫撃砲の集中射撃で多数の死傷者が出たため、第7海兵連隊は戦艦「コロラド」の艦砲射撃の支援を要請し、40.6cm砲の砲撃で日本軍の速射砲陣地を撃破し、漸く前進できた[129]。
大名高地付近に進出できた第1海兵師団は、17日より大名高地に対して攻撃を開始した。アメリカ軍は艦砲や爆撃から野砲・迫撃砲・戦車による火炎放射に至るまであらゆる火器を集中し大名高地の日本軍陣地を攻撃したが、日本軍よりの応射も凄まじかった。第1海兵師団はペリリューの戦いの激戦も潜り抜けてきたが、大名の戦いはペリリューとは別次元の激しさだったと海兵隊員らは感じたという[130]。
20日は第一海兵師団は2個大隊により二手から大名高地を攻撃、その内の第三大隊は一つ一つ陣地を「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で撃破しながら進撃、ナパームで高地を焼き払い、日本兵を炙り出して掃討しつつ一日でようやく60m進んだが、その後丘陵部を25m前進すると、日本軍の猛烈な反撃でまた元の陣地に押し換えされた[131]。
21日深夜、一部奪われた大名高地を奪還すべく、日本軍独立歩兵第22大隊が反対側の険しい崖をロープや十字鍬でよじ登り夜襲をかけたが、迫撃砲の集中射撃と大量の手榴弾投擲により140名の戦死者を出して撃退された[132]。
その後6月21日より、沖縄には10日間に渡って雨が降った。地面はぬかるみ、アメリカ軍の車両の運用が困難となった為に、大名高地を含みアメリカ軍の攻撃は一時停滞した[133]。
縦深防御システムは陸軍各師団の進撃路にも構築されており、陸軍も海兵隊と同様にもがき苦しんだ。第77師団は首里へ続く曲がりくねった道を前進したが、数メートルおきに日本軍の陣地があり、同師団の第305歩兵連隊は損害に構わず押し進んだ結果、5月11日〜15日の間に戦力が1/4まで落ち込んでしまった[134]。
米軍は通常、午前中に進撃して、午後から陣地を構築して、夜間は陣地に籠り日本軍の夜襲を警戒するというスケジュールであったが、第77師団は少しでも前進速度を上げる為に夜間攻撃を強行し、日本軍と激しい白兵戦を演じている[135]。第307歩兵連隊は日本軍の重要拠点石嶺丘陵の陣地に夜襲をかけ、頂上から日本軍の洞窟陣地を攻撃し、就寝していた日本兵多数を殺傷したが、その後日本軍の激しい反撃を浴び、3日間山頂に孤立し、救出された時には夜間攻撃に参加した204名の内156名が死傷していた[136]。
石嶺丘陵の内でもっとも頑強な陣地は、その形状から、皿にもったチョコレートドロップに見える事から、アメリカ兵にチョコ・ドロップという名付けられた小山(日本軍呼称:西部130高地)であったが、チョコ・ドロップを攻撃してきたアメリカ軍第77師団の第306歩兵連隊は、速射砲第二大隊[注 12]の一式機動四十七粍速射砲により次々と戦車を撃破され[137]、激しい砲火で歩兵の死傷も増大し、死傷者は471名にも上ったことから、第307歩兵連隊と交代させられることになった[138]。
チョコ・ドロップの日本軍はこの後もアメリカ軍を何度も撃退したが、最後は洞窟を封鎖されて「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で制圧された。
最初に首里戦線の突破口を開いたのは一番端を進んでいた陸軍第96師団であった。第24軍団長ジョン・リード・ホッジ少将は、首里により近い高地を攻撃し、一気に首里に近づく作戦を主張していたが、第96師団師団長ブラッドリー少将が地形を偵察の上で、より高いコニカルヒル(運玉森)の攻略が優先させた方がよいという意見であった[139]。
5月10日に第96師団の第383歩兵連隊がコニカルヒルに対して攻撃を開始した。その前にはアメリカ海軍は念入りに膨大な量の艦砲射撃を加えた為、兵士たちはこの山を「100万ドルの山」と呼んだが[140]、第24師団の金山大佐率いる歩兵第89連隊が主力として布陣した日本軍の陣地は、他の戦場と同様に砲爆撃では破壊できなかった。第383歩兵連隊が前進すると日本軍から激しい砲撃を浴び、容易に前進できなかった。しかし大きな損害を被りながらも、同連隊は13日までにはコニカルヒルの頂上を望める点まで進撃してきた。その報告を受けたホッジは「これが成功したら首里の鍵を握ることができる」と喜び、総司令官バックナーも自ら連隊長の元を訪れ激励している[141]。
第383歩兵連隊は同じ第96師団の第381・第382歩兵連隊と共同で、最高地点の犬歯山(形状が犬歯のようにギザギザしていることよりアメリカ軍が呼称)を目指して、日本軍の激しい抵抗を排除しながらようやく21日に山頂に到達、最後は日本軍との手榴弾の投げ合いと白兵戦を制し、ついに制圧した。この際に犬歯山頂上で日本軍と白兵戦を行った第三大隊だけで1,100個の手榴弾を一日で使用し、大隊保有の手榴弾を全て使い果たしている[142]。
以上の通り、首里防衛線全線でアメリカ軍は日本軍の防衛線を突破したが損害は甚大であった。首里戦線の二か月弱の戦闘で、第24軍団と第三水陸両用軍団の死傷者は合計で26,044名であったが、他に戦闘ストレス反応による傷病兵も海兵隊6,315名、陸軍7,762名の膨大な数に及んだ[143]。戦車も陸軍だけで(海兵隊のデーターなし)221両が撃破されたが、これは沖縄戦に投入されたアメリカ陸軍戦車の57%にも上り、またその内には貴重で補充ができなかった火炎放射戦車も12両含まれていた[144]。
バックナーがとった首里防衛線への正面からの両翼包囲作戦は、そのあまりの損害の大きさにマスコミから「大失敗」とか「パールハーバー以上の軍事上の無能な作戦の悪例」と酷評される事になった[145]。
沖縄本島南部の戦い後期 首里陥落 第32軍撤退まで[編集]
第32軍は運玉森方面(アメリカ軍呼称 コニカルヒル)にアメリカ軍が攻勢を強めていることを重く見て、運玉森が攻略されれば、一気に首里防衛線は崩壊すると憂慮していた。その為、5月21日に八原博通高級参謀が軍参謀を召集し、今後の方針として下記の各案の利害得失を協議した[146]。
- 首里陣地に籠り最後の決戦を行う 軍の構想は平素よりこの案が元であり、各陣地もこの案で整備されている。しかし生存の将兵は未だ50,000名はいると推定され、この兵を圧迫された首里陣地内に配置すれば米軍の砲爆撃の好餌となってしまう。
- 知念半島撤退案 知念半島は四方を海に囲まれ対戦車戦闘に有利である。しかし洞窟の数が少なく残存兵力を収容するのが困難であり、既集積物資も少ない。
- 喜屋武半島撤退案 海正面は30〜40mの断崖で防御地域として良好であり、自然・人工の洞窟が豊富で残存兵力の収容も可能で、第24師団の軍需品が集積されている。
第62師団長などは首里決戦案を主張したが、各兵団長の意見を聞いた上で、翌22日に牛島満軍司令官は、より長くアメリカ軍を沖縄に足止めすべく、地形堅固な喜屋武半島への撤退による持久作戦継続を決心し、軍主力の後退は29日と予定、その前に軍需品や負傷者の後送をただちに行うよう指示した[147]。
アメリカ軍の進撃は、5月末より降り出した豪雨で一時停滞していたが、23日には、第96師団が制圧したコニカルヒルより、第7師団の第184連隊と第32連隊が首里を包囲するため前進した。遭遇した日本軍は敗残部隊が多く、両連隊に幾度となく攻撃をしかけたが、撃退され両連隊の進撃を阻止できなかった[148]。しかし第32連隊が、首里と沖縄南部を結ぶ幹線道路と接する重要な高台地に達すると、日本軍は残存砲兵戦力の総力を挙げての激しい砲撃と、第24師団第89連隊の敢闘により、多数の損害を出させて撃退している[149]。24日には第六海兵師団の偵察部隊が那覇に進出している。既に砲爆撃により廃墟となっていた那覇には日本軍の姿はなく、同日にアメリカ軍の手に落ちた。
コニカルヒルを完全制圧した第96師団や、シュガローフやハーフムーンを突破した海兵隊が首里に近づき、首里包囲網が完成されつつあった26日に、海軍の偵察機が日本軍の大規模な移動を発見した。その報告を聞いたサイモン・B・バックナー・ジュニア中将は、日本軍の意図を察して、各軍団に「日本軍は側面を脅かすわが軍に対し反撃を加えつつ、新たな陣地に撤退している兆候が見られる。このような敵の行動に対し速やかに全力で圧力を加え、日本軍を不安定な状態にし、敵の意図を妨害すべし。形ばかりの攻撃では再び敵の新たな陣地構築を許すことになる。」と厳命し、移動している日本軍45,000名に艦砲・空爆・砲撃で徹底攻撃を加えたが、全く撤退を予測しておらず追撃ができなかったこと、5月末より降り出した雨が激しくなった事などの要因で、完全に第32軍の撤退を阻止することはできず、30,000名が南部で新たな陣地にまた防衛線を構築することができた。首里を包囲しつつあった第24軍と第3水陸両用軍団の脇をすり抜けての撤退であり、損害は大きかったが奇跡的な陣地移動であった[150]。 牛島司令官ら第32軍首脳は、5月27日、豪雨と夜陰に紛れて徒歩で首里を撤退し南風原町津嘉山の壕へ向かった。さらに30日未明には新しい司令部となる摩文仁に移動した。[151]。
しかし、この第32軍の南部撤退は、南部に戦火を逃れてきた多くの沖縄島民を戦争の惨禍に巻き込むことになってしまい、未だに強い批判が向けられる。八原は、当時としては作戦的には最良と判断したが、結果的に作戦優先で住民避難を考慮できず夥しい犠牲を生じさせた事を終生悔やみ「沖縄の人たちにすまない、あわせる顔が無い」と二度と沖縄の土を踏むことが無かった[152]。
わずかばかりの守備隊が残った首里城はアメリカ軍の手に落ちたが、難攻不落の要塞だった首里城も、アメリカ軍の艦砲射撃などでいたる所が破壊されており、日本兵の遺体が散乱していた。その光景を見たバックナーは「これからは掃討戦に移ることになる。これは激しい戦闘が起こらないわけではないが、既に日本軍は再び強固な防衛線を築く余力は残っていない」と部下将兵に宣言したが、またもこの見通しは大きく外れ、アメリカ軍は日本軍の組織的な抵抗を完全に制圧するためにあと3週間もの期間を要することとなった[153]。
南部への撤退に際しては、混乱もあっている。大田実少将率いる海軍部隊は、26日に真榮平に移動したが、第32軍よりの、軍主力の移動の援護をした後に6月2日以降撤退せよという命令を、命令書の表現が曖昧であった為誤解していた事が判明し、大田少将は28日夜に小祿の旧陣地に復帰したが[154]4日には進撃速度を上げたアメリカ軍が海軍部隊の守る小祿飛行場陣地まで進撃してきた。
海軍部隊である沖縄方面根拠地隊は、主に飛行場設営隊などを陸戦隊に再編成したもので本来の戦闘部隊は少なく、航空機用機銃を陸戦用に改造するなどの努力はしたものの装備は劣悪であった。比較的戦力のある4個大隊を陸軍の指揮下に入れて首里戦線に送った後、本隊は陸軍守備隊と別行動をとり、小禄地区に篭って抗戦しており、接近したアメリカ軍駆逐艦「ロングショー」と掃海艦とタンカーを海岸砲で砲撃して沈めるなどの戦果を挙げていたが[155]、26日の撤退の際に残存の重火器を破却しており、残存の戦闘力は低かった。それでも大田少将は死守を決意し、5日には第32軍司令部に対し「海軍は包囲せられ撤退不能のため、小祿地区にて最後まで戦う」と打電している[156]。牛島中将は大田少将に南部への後退命令を再度発し、自ら懇切な親書を認めたが太田少将の決意は固く翻意は無理であった[157]。