スパイ容疑などで殺害された沖縄の住民も多数いたのも事実で今のサヨクの恰好の宣伝材料にされている。
日本軍さえ来なかったら沖縄はこんな地獄を経験せずに済んだものをという気持ちは理解できる。しかしそれは日本全体に言えることで多くの日本人が兵士として死に民間人も空襲、原爆で死んでいった。
合掌。
米軍上陸前の住民の動き(避難)[編集]
県外疎開[編集]
大本営陸軍部が沖縄の住民疎開について検討を始めたのは、サイパン島にアメリカ軍が来攻した1944年6月のことである。7月1日に、研究要員として後に第32軍参謀長となる長勇少将(1945年3月に中将)が現地入りした。7月7日にサイパン島が陥落すると、東條英機内閣は緊急閣議を開き「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断した。沖縄本島・宮古・石垣・奄美・徳之島の5島から、60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童を本土及び台湾へ疎開させることが決定され、沖縄県に通達された[188]。軍も、住民保護目的ではなく、「県民が軍の懐に入り込むことにより軍の活動を妨害することになる」との作戦上の目的からも県民の疎開を希望していた。また、沖縄県では消費米の2/3を県外からの移入に頼っているため、海上交通が途絶えた場合には守備隊増強で膨れ上がった人口を養うのは困難という事情もあった。
その後の通達で疎開目標は本土へ8万人と台湾疎開へ2万人の計10万人と決定された。対象者は、60歳以上と15歳未満の者、その看護者である婦女のみが許可され、警察署長の渡航証明書を受けることとされた。根こそぎ動員により、「鉄血勤皇隊」の14歳からときには70歳の者までが防衛召集・動員されており[189]、彼らは疎開することを禁止された。また、食料生産などのために動員された婦女も、許可されなかった。
輸送は陸海軍艦船などを投入して全額国庫負担で行うことになり、大蔵省第2予備金から1500万円を拠出する予算措置が取られた[188]。一般住民の疎開は法的には強制力が無く、県を通じた行政指導による形式であった[190]。県民が疎開に応じるか不安視した県は、短期間で徹底して遂行するにはある種の威令や組織力・機動力が必要と考え、一般疎開を本来の社事兵事を司る内政部ではなく警察部に担当させることに決定した。一方、学校との連絡が欠かせない学童疎開のみは内政部教学課の担当として、その指揮下に各国民学校長が推進することとした。
しかし、県民の疎開機運は一向に盛り上がらなかった。理由としては、本土では、貸し家の「琉球人お断り」など沖縄差別も根強く、一家の大黒柱を欠いた状態で身寄りのない本土や台湾に疎開することの不安や、船舶に頼らざるを得ない県外疎開そのものへの不安があったとされる。1944年6月29日には増援部隊を乗せた輸送船「富山丸」が潜水艦に撃沈され、将兵約3,700人が犠牲になる大惨事が発生していた。軍はこの事件を「軍極秘」として箝口令を敷いていたが、県民の間に口伝で広まり、1944年8月22日の学童疎開船「対馬丸」撃沈事件(約1500人死亡)とともに疎開に対する不安を煽る結果となった[190]。さらには、第32軍司令部の方針が末端部隊まで徹底しなかったことによる末端将兵の放言も、県民に、日本軍が勝つという希望的観測を生じさせていた。なお、沖縄県知事の泉守紀も北部への県内疎開には食糧供給が困難として消極的な立場で、疎開の促進を求める軍としばしば対立した。
荒井退造警察部長を始めとする県の必死の努力により、疎開第1船である「天草丸」は7月21日に警察官、県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出港した。続く7月末の疎開第2船での220人、8月初めの第3船での1566人はほとんどが本土に縁故のある人々であった(本土出身者の引き揚げが多くを占めた[191])ものの、その後8月10日に出航した第4次の約9000人は縁故のない県民が中心となり、ようやく県の努力が実りつつあった。
皮肉なことに県民の疎開を一挙に促進させたのは米軍による1944年10月10日の5次に渡る大空襲(十・十空襲)であった[192]。その後、1945年1月に新たな県知事として赴任した島田叡の下で、最後の努力が行われた[193]。
沖縄県の調べでは、県外疎開は1944年7月から海上交通が途絶する翌年3月上旬まで続き、海軍艦艇を含む延べ187隻の疎開船により学童疎開5586人を含む8万人以上が疎開した。内訳は、沖縄本島周辺からは九州へ約6万人と台湾へ2千人、宮古列島と八重山列島から台湾へ2万人以上となっている[192]。3月上旬までの県外疎開船延べ187隻のうち犠牲になったのは「対馬丸」(約1500人死亡)一隻のみであるとされているが[192]、6隻(約3000人死亡)とする見解もある[194]。また、先島諸島への集団疎開も実施されたが、食料・衛生器材の不足で多くの病死者をだしている。八重山列島では疎開により、多くの住民がマラリアに感染し、死亡したものも多く、これを戦争マラリアと呼んでいる。県内疎開の正確な犠牲者は不明である。
なお、九州に事前疎開できた沖縄県民については、沖縄県庁の機能停止後、7月に福岡沖縄県事務所が正式発足して支援業務を引き継いでいる。
本島北部への避難(島内避難)[編集]
1944年12月になると、第32軍は、県に対し沖縄本島北部へ10万人の住民避難を要請した。北部避難の対象者は、県外疎開と同様であったが、加えてアメリカ軍上陸直前には食料生産などに動員していた婦女も北部避難させるという計画であった(避難命令は出ないままアメリカ軍上陸となった)。なお、北部にも日本軍の施設や兵員が配置されており、非戦闘地域になっていたわけではなく、住民が戦闘に巻き込まれた。
軍も県当局も北部避難の準備は何もなかった。食料も住居も自弁自給を基本とされた。軍の協力は、避難民の輸送でも避難準備の物資運搬でも得られなかったばかりか、車両は荷馬車まで供出となっていた。そのため老幼の避難民は、持てるだけの食料を背負い徒歩で100Km以上ある泥にぬかるんだ道を避難した。県は、配給米の備蓄に努力したが、2か月分が精一杯であった。北部は山岳地帯で耕作地も限られた。さらにはマラリア発症地帯であって、餓死やマラリアで多くの死者を出すことになった。
いったん避難しても食料を取りに戻る者もあり、北部には食料も何もないという口コミが広がった。艦砲射撃が始まったことで避難する者が増えたものの、北部避難者は約8万人と推定されている[195]。
米軍上陸後の住民の動き(避難)[編集]
第32軍司令部は、戦況の切迫を理由に沖縄本島へのアメリカ軍上陸直前の3月31日に北部への避難民の移動を禁止している[196]。その後アメリカ軍が本当に上陸すると、すぐに島は南北に分断されたため、日本側の交通は絶たれ、本島北部山岳地帯への避難は不可能になった。
北部への避難ができなかった住民は、集団自決をした避難壕もあれば、アメリカ軍に集団投降した壕もあった。5月上旬までに13万人の住民(北部避難者等を含む)がアメリカ軍に収容された[197]。
本島南部(島尻地域)へは、戦線の南下に従い追い詰められるようにして、最終的に推計10万人以上もの避難民が集まることになった。南部地域でも、第32軍が首里司令部の放棄で撤退した喜屋武半島方面では戦闘に巻き込まれて多くの避難民が犠牲となった一方で、日本軍の流入がなくほとんど戦闘が行われずに「事実上の非戦闘地域」となった知念半島方面では多くの避難民が生き延びている。
本島南部への避難[編集]
アメリカ軍上陸から約1か月経過した4月27日に、沖縄県島田叡知事は住民保護のため、南部地区の市町村長と警察署長を繁田川の地下壕内に移転していた県庁内に召集して会議を開いている。その場で避難民の受け入れ態勢の整備や食糧確策等が話合われたが[198]第32軍も4月29日には島田叡沖縄県知事に、住民を本島南部に避難させるよう指示し、多くの住民が南部に避難していた。
しかし、その後に戦況が悪化すると第32軍は南部への転進を決定、決定後の5月22日に島田叡知事に知らされ、軍より首里近辺の非戦闘員の南部島尻地区への撤収が指示された[199]。知事は軍の転進に強く反対するも決定は覆らなかった。
島田知事は25日に女子挺身隊に高嶺村與座方面への移動と住民保護を指示し、県庁も兼城の秋吉に移動した[200]。 その後、南部地区は後退してくる軍と避難民が各所で溢れ混雑を呈した。 島田知事は5日に伊敷の轟の壕に移動し、9日にはもはや組織として体をなしていなかった県庁と警察の解散を命じている[201]。
この後、軍や行政の保護も受けられなくなった住民の犠牲は夥しい数に上り、沖縄戦における住民の戦没者全体の6割が、第32軍が南部撤退した6月以降に南部地域において亡くなっている[202]。
なお、予想外の日本軍の南部撤退に、アメリカ軍では6月初旬の司令部作戦会議で避難住民保護が検討されたことが明らかになっている。バックナー司令官の側近として司令官の指示内容を記録していたジェームス・バーンズ曹長の陣中日誌には、「一時休戦を申し入れ(南部にいる)住民を保護すべきではないか」などの意見が出たと記されている。しかし、結局そうした施策はなされないまま、アメリカ軍は掃討作戦を開始した[203]。
知念半島の非戦闘地域化[編集]
5月22日牛島司令官が喜屋武半島方面への撤退を決断したことで、知念半島方面は第32軍の作戦区域外となり「事実上の非戦闘地域」となった。しかし、軍から県庁に「知念方面が非戦闘地域である」と通知されたのは、司令部撤退がほぼ完了した5月29日になってからであった。この頃すでにアメリカ軍は、東海岸を打通し知念半島に進出しており、知念方面へ向かう道はどこもアメリカ軍に制圧されていたため、もはや知念に行くことは困難であった。 29日に突如、第24師団の壕に呼ばれて知らされた島田知事は「なぜにもっと早くに知らせてくれなかったのか」と憤慨したという[205]。
集団自決[編集]
詳細は「沖縄戦における集団自決」を参照
サイパンの戦いなどと同様に、沖縄戦においても一般住民までが集団で自殺する集団自決が発生した。読谷村のチビチリガマの事例(83人[206])などが知られ、集団自決者の総数は1000人以上とする研究者もいる[207]。
これらの集団自決を軍の命令によるものとする主張がある一方で、「集団自決は沖縄住民による戦傷病者戦没者遺族等援護法の給付を目的とした嘘である」との証言も一部に存在する[208]。
集団投降[編集]
日本軍がいなかった避難壕では、集団投降した例も多い。アメリカ軍が上陸後すぐに進攻した中城村では日本軍が4月2日には撤退してしまい住民だけが残されたが、島袋地区では4月3日に1500人が集団投降して地区住民のほとんどが生き延びた。日本軍の主陣地が構築された宜野湾村では、村南部のように日本軍とともに「軍民雑居」となった地域では、住民は投降を許されず、日本軍の指示で本島南部に逃げることとなり多くの犠牲者を出している。嘉数地区や佐間下地区などにいた住民の犠牲者率は48%に上る。一方で早々に日本軍が撤退した村中北部は、フトゥキーアブ壕で4月4日に500人など集団投降した例が多く、新城地区や喜友名地区などの住民の犠牲者率は13%と低めである[209]。なお、集団投降した避難壕では、移民帰りの人がいるなどして「鬼畜米帝」との洗脳にとらわれていなかった例も多い。「鬼畜米帝」を信じてアメリカ軍の投降勧告に応じなかった壕では、容赦のない攻撃を受け全滅したりしている。上述のフトゥキーアブ壕でも、数人の少女が「米軍に捕まったら、何をされるかわからない」と壕から出ることを拒否して、手榴弾を投げ込まれ犠牲になっている。(その後の難民収容所では、米兵による強姦被害が多発しており、「鬼畜米帝」が誤謬であるとも言い切れない)
日本軍による住民殺害[編集]
アメリカ軍の攻撃及び住民による自決以外に、日本軍による直接的な住民殺害があった。具体的な事例として、久米島守備隊住民虐殺事件(22人死亡)、渡野喜屋事件(35人死亡・15人負傷)、名護市照屋忠英学校長殺害[210]などが挙げられる。日本軍により殺害された住民の総数は明らかではないが、安仁屋政昭は1000人と推定する見解を採り[211]、元沖縄県知事(元社民党参議院議員)の大田昌秀は、スパイ容疑での直接殺害だけで数百人から1000人以上と推定している[212]。援護法との関係で戦闘参加者と認定された民間人のうち、14人は日本軍による射殺が理由となっているが、大田はこれも実数は数倍に上ると見ている[185]。
住民殺害の動機は、スパイ容疑での処刑が中心で、そのほか物資や壕を巡る日本兵と住民の争いで殺害された事例や、地下壕の探知を避けるために泣き声の止まない子供を殺害した事例などもある[213]。このような事態に至った原因について、極限状態で不可避というだけの問題ではないとの見方もある。一因として、日本兵が住民に対し、愛国心や武を尊ぶ精神に欠けると見て不信感を抱いていたことや、軍民一体化と防諜のため、沖縄語の使用が禁止され、その使用者を処分する方針であったこともある[214]。また、スパイ容疑での処刑については、アメリカ軍収容下に入った住民が食糧集めに駆り出されているのを、アメリカ兵を日本兵の隠れ家へ誘導しているものと戦場の混乱の中で誤解したことが一因ではないかと推定されている[215]。
こういった事例が強調されていることに対し、沖縄戦に参加した日本軍兵士からの反論もある。嘉数の戦いに参加した兵士の一人(独立歩兵第13大隊所属)は、「戦後、日本軍は沖縄県民に犠牲を強いた悪い兵隊だと宣伝された。しかし私の知るほとんどの下級兵士は自分の命など眼中になく、洞窟に潜んで助けを求める県民のため身を挺して戦った。」[216]と述べている。
また、《泣き声で米軍に見つからないよう、「日本軍により幼児が殺された」とする教科書記述にも異説がある。匿名を条件に取材に応じたある地方議員は「老人会でのひそひそ話に耳を疑ったことがある。子供が軍命令で殺されたとして遺族年金をもらっている人について『あの人、本当は自分で殺したんだよね』と話し合っていた」と語る》[217]
連合軍による住民の扱い[編集]
連合軍による住民殺害[編集]
既述のように沖縄地上戦での住民犠牲は約9万4千人とされているところ、集団自決者や日本軍により殺害された者はそれぞれ1000人程度と推定されており、残りの約9万2千人は連合軍の攻撃により殺害されたことになる。
長周新聞によると、「沖縄本島に上陸した米軍は宜野湾市の嘉数で激しく抵抗された。ここは丘陵が重なり天然の防塁だったため毒ガスを使用。壕に潜む非戦闘員まで殺害した。嘉数では住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺した。前田丘陵四日間の戦斗は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものだった。国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。ここは米軍司令官バックナーが戦死した報復として猛攻撃を加えた。国吉で捕虜になった住民のうち男子は全員銃殺された。南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼった。」[218]
住民がスパイ容疑で処刑されることもあった。ある事例では、「民間人3人は、軍政府内の住民用尋問室で日系人通訳に暴力を振るわれながら尋問された後、身柄を2人の中尉に引き渡された。文書では「1人は敵兵(日本兵)である疑いがあった」と記述している。中尉は民間人3人のうち2人を約180メートル先にある墓穴のような穴を掘った場所に連行した後、そのうちの1人を上官の命令で銃殺した。殺害時、周囲には25-45人の米兵が取り囲んでいた。」という[219]。バックナー中将の戦死時には、住民が日本軍を手引きしたと疑われ、数十人の住民が銃殺された[220]。
民間人収容所[編集]
アメリカ軍の占領地域となった場所では、民間人収容所が捕虜収容所とは別に設けられ、地域住民や近在の避難民が収容された。アメリカ軍は占領段階に応じたA-Dの4種の軍政要員を用意して、住民の管理・収容を進めた。本島に11か所、周辺島嶼に5か所の計16か所が設置されたが、作戦上の都合などにより合併や閉鎖が適宜行われた。本島では基地建設のために5月から7月にかけて中南部の無人化政策がとられ、北部東岸の収容所への強制移住が実施された。そのため、宜野座地区収容所には、生存島民の2/3にあたる20万人以上が押し込められた過密な状態だった[221]。
多くの場合、収容所は集落単位で管理され、それぞれ憲兵が配置されて監視していた。境界が有刺鉄線で区分されている例もあった。収容所の間での移動は禁じられ、違反すれば「カナアミ」と称する有刺鉄線で囲んだ仮拘置所に留置された。収容所の内部的管理については自治体風の形式を採り、収容所ごとに「メイヤー」(市長)や民警察 (CP) といった役職を任命して、物資配給や労務者の供出などの実務を行わせた[221]。
アメリカ軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という。一例として、浦添村(現浦添市)の場合、全犠牲者の1割以上にあたる312人は、収容所での生活中に死亡している[222]。
なお、前述の日本兵による住民殺害事件にも、渡野喜屋事件のように米軍管理下の民間人が殺傷された例がある。
連合軍兵士による性的暴行などの虐待[編集]
収容所および米軍の占領地域では、米軍兵士による住民への暴行や強盗行為が多発した。無抵抗の住民を背後より射殺するなどの蛮行が報告されており、住民女性への拉致・暴行・強姦も多数証言されている[218]。戦争の終結後も暴行は続き、たとえば、「南部戦線の戦闘が終結してからはとくに米兵たちは横暴になり、昼夜を分かたず強姦事件が頻発していた。収容所では米兵がおそってくると、酸素ボンベの鐘をたたいて女性たちを避難させるさわぎが続いた。」とも[223]、「戦時中も戦局が追い詰められた状態になると、アメリカの軍隊そのものが集団で村の女性たちを襲ったといいます。なかには夫の目の前で犯された女性もいます。」ともいわれる[224]。米軍兵士により強姦された女性数を10000人と推定する見解もある[225]。ニューヨーク・タイムズの記事によれば、強姦はあまりに多発したため、65歳以上(2000年時点)の沖縄の住民は誰しもこの連合軍による強姦について知っているか、あるいは聞いたことがあるという[226]。
沖縄戦時中に米兵が沖縄の住民女性を強姦し、軍法会議で有罪となりながら、戦後米海軍省で判決が破棄されていた。軍法会議で禁錮9年、不名誉除隊の判決が出たが、海軍法務総監が10月に有罪判決を破棄するよう勧告。11月に海軍長官が判決を破棄し、被告を釈放して軍務に復帰させるよう命じた。勧告文では、レイプ犯罪を「女性が能力の限りを尽くして抵抗したとみられるものでなければならない」と定義。「すごくおびえて叫ぶことができなかった」と証言した被害女性に対し、最大限の抵抗をしなかった、叫び声を上げなかった-などを理由に被告を無罪とした[227]。
沖縄戦についてのアメリカ軍による評価[編集]
圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、洞窟陣地を利用した粘り強い防御戦闘と反斜面陣地などの巧みな陣地形成で苦戦を強いられたアメリカ軍は、この日本軍の防御戦闘を「歩兵戦闘の極み」と評した。これについて八原参謀の作戦計画は、反対斜面陣地と野戦重砲兵の支援砲撃を前提として挑んだ『寝技戦法』とも呼ばれた。この作戦は、強力なボクサーを相手に柔道家が寝技に持ち込み、相手のパンチを防いで得意の接近戦で敵の戦意を挫こうとするものであった。それには、まずアメリカ軍の大部隊を、展開が困難でかつ航空支援や援護砲撃が不可能な日本軍陣地の100-200m程度の直前まで誘導する。そして日本軍は重機関銃、軽機関銃、小銃、擲弾筒で掃射して戦車部隊と歩兵部隊を分離させる。急速前進を余儀なくされた敵戦車は対戦車砲(速射砲)、山砲、野砲、地雷、歩兵の肉弾戦によって撃破する。そして駆けつけてきた敵の増援部隊を、精密測量した地域に釘付けにして重榴弾砲、加農といった味方野戦重砲・重砲の砲撃により叩くことが基本戦術であった。唯一の有効兵器は満州から転出してきた野戦重砲という状況において、八原の戦術的判断は的を射ている。
米陸軍省戦史局編集の公式報告書「OKINAWA: THE LAST BATTLE」での総括は「沖縄で支払った代償は高価なものであった。米軍の死傷者の最終的な対価は、日本軍に対するどの方面作戦で経験したものよりも高かった」「勝利の高い代償は、予想以上の強力な戦力を持って巧みに先導された日本陸軍と戦ったこと、厳重かつ巧妙に要塞化された難しい地形を越えたこと、故国を何千kmも離れて戦った事実によるものだった」「作戦は予想していたより遙かに長引いた」など、苦しい戦いであった事を指摘した上で「だが、米軍は、希望するどんな土地も最後には日本軍から奪うことができることを沖縄で示した」と激戦を勝ち抜いた自信も示している[228]。
またアメリカ海兵隊の公式活動報告書でも「(日本兵は)よく訓練され、統制もとれた陸軍兵士で、特に士気の高さと、身体能力の高さは特筆すべきである」とか「日本軍の兵士は常に頑強で機知にとんだ戦法で戦い、絶対に降伏しなかった」等、その能力を高く評価している[229]。
前線のアメリカ軍兵士も、当初は人種差別と憎しみから「日本兵は、がに股で飛び跳ねながら猿のように金切り声を上げたり、豚のように鳴いたりする奴らと思っていた」という偏見を持つ兵士も多かったが、シュガーローフなどの激戦を経て「日本兵は極めて統率のとれた集団だ」とか「日本兵は実際に見ると落ち着き払っており、米軍海兵隊員と同じ顔つきだった」という印象に変わっていき、更に日本兵への畏敬の念が行き過ぎて「日本兵を大したことがない、なんて抜かす奴がいたら俺が撃ち殺してやる」と新兵を怒鳴り散らす小隊長もいたという[230]。
米海軍は特別攻撃隊に沖縄戦中終始苦しめられ、米海軍史上最悪の損害を被ることになったが、太平洋艦隊司令のニミッツ大将は、「沖縄作戦は攻撃側にとってもまことに高価なものだった。約13,000名の米兵が戦死したが、その内3,400名が海兵隊で4,000名が海軍だった。艦隊における死傷者の大部分は日本機、主として特攻機により生じたものである」と回顧している[231]。
沖縄戦が終わると、大英帝国首相ウィンストン・チャーチルはハリー・S・トルーマン米大統領に向けて「この戦いは、軍事史の中で最も苛烈で名高いものであります。我々は貴方の全ての部隊とその指揮官に敬意を表します」と慰労と称賛の言葉を送っている[232]。
ピューリッツアー賞も受賞した、アメリカの軍事評論家の第一人者、ハンソン・W・ボールドウィンは沖縄戦を振り返って「その規模、その広がり、その苛烈さにおいて バトル・オブ・ブリテンすら影の薄いものとした。飛行機と飛行機、水上部隊と航空部隊の間で、これほど凄惨な、独特の死闘が行われた事は、後にも先にもない」と著書に書いている[233]。