このような事を中国のメディアで発信しています。
これは、人民解放軍を沖繩へ派遣する大義名分をつくっているのです。
つまり、沖繩での平和運動(反日・反米運動)は、中国にとっては琉球独立運動なのです。
沖繩で平和運動を盛り上げ、米軍も自衛隊もいない沖繩を実現し、同胞の琉球人民の独立を支援し、中華琉球特別自治区を設立し、
琉球臨時政府を樹立させ、国連の承認も取り、日本の安全保障の要の沖繩を完全に支配権にいれるというのが彼らのシナリオです。
沖繩の子孫に二度と沖縄戦のような悲惨な体験をさせないための平和運動が反米・反日運動として行われているのです。
しかし、どれだけ純粋な思いで反米・反日運動をやったとしてもそれは、中国では
「沖繩の反米・反日運動は琉球独立運動であり、琉球の中国復帰運動である。」
>今や沖縄の状況は最悪となっている。
支那の沖縄独立工作に乗せられた沖縄のサヨクが百田氏の発言の揚げ足取りや自民党議員の発言を期に
一方的に反日、反自民運動を沖縄で盛り上げている。
一方の自民党は完全に守勢となり沖縄での評判は悪化する一方だ。それでも分かる沖縄県民は自民党を支持すると思うが今のままでは悪い方向に向かっていると言って良い。
一部自民党の議員もただ単に沖縄の新聞社二社を潰さないかんというような直接的な発言をするより以下のような資料を公開し沖縄の平和運動に連動したもろもろの運動が支那の独立工作そもものだということを県民に知らせるべきだ。
もし支那が民主化された台湾のような国なら沖縄は独立でもなんでもすればよい。
(独立すれば国からの補助(1兆5000億以上)で成り立っている沖縄経済の破綻は火を見るより明らかだ。観光での収入は500億にも満たない、それも税金を大枚つぎ込んでの結果ようやくそれまでにこぎつけているのが現状だ。)
しかし支那はチベット、ウイグルを見てもわかるような
残虐な国だ。そんな国が沖縄を支配下に置こうとしているのだ。それがわからないものは何遍も言うが頭が悪すぎ。
モノの判断はあくまで比較検討されなければならないのが分からない県民が多すぎる。
■チャイナネット日本語版に掲載された捏造された沖縄の歴史
チャイナネットに写真35枚を使って捏造した沖縄の歴史を紹介しています。
無断転載を禁ずると書かれているのですが、あまりにもひどいので、このブログにそっくりそのまま無断転載をする事にしました。
このサイトの歴史によると沖繩の歴史は、3つの時代にわかれており、最初が明王朝の属国だった「明王朝藩属国時代」、そして次に秦王朝の属国だった「清王朝藩属国時代」そして、日本政府により沖縄県が設置されてから現在に至る期間が「後琉球王国時代」だそうです。
琉球国は明・清と冊封・朝貢関係にありましたが、それが属国になる事を意味するわけではありません。
今後、捏造にしっかり論破できるだけの歴史的事実を明らかにしていく予定です。
今、私たちが知らなければならない事は、中国共産党は中国国内に向けて「沖繩は中国の属領だ!」という宣伝工作を行っているということです。
彼らが嘘をつくには必ず明確な意図があるはずです。つまり、沖繩を直接的、間接的に侵略する大義名分を作っているということです。
沖縄県民はこの事実を1日でも早く知らなければなりません。
■清戦争前と同じ課題と対峙している沖繩
日清戦争前にも中国と日本は琉球の主権について衝突しており、その時にも清国は「琉球は古来より清国のものだ」と主張していました。
その時に、親清派の人たちの中には、清国に密航して亡命し琉球王国の復国を要請したり、様々なロビー活動を行った人々がいます。
そのような人を脱清人(だっしんにん)と呼ばれています。
当時の琉球国の人々は日本語は理解できたけど中国語は理解できなかったのです。それにもかかわらず自らの既得権益のために琉球国の復国を清に要請した人々がいたのです。
■今、沖縄県民の態度が問われている
今中国は軍事力を急速に拡大し沖繩を狙っています。このような時にもし、脱清人(だっしんにん)のような人が沖繩に存在すると中国人民解放軍が沖繩につけいる隙を与えることになります。中国は過去の歴史を踏まえて「日本は琉球国を不当に植民地化し、日本と同化政策をとっている」と主張する事が可能になります。
沖縄県の領土問題、主権問題は国家の問題だから日本政府に任せておけば良いという考えも大きな間違いです。
無条件に中国から観光客を呼び込み仲良くし、中国とともに発展すること事が沖繩の未来をつくると思ったら大きな間違いです。
沖繩の未来は、日本と共に発展する中にこそあるのです。
沖繩は日本防衛の最前線です。沖繩を守ることこそ日本を守ることです。
そして、沖繩を守るためには、沖縄県民の態度こそが最も重要なのです。
誇りある日本人として、誇りある沖縄県民として、来年の祖国復帰40周年を盛大に祝い、来年秋の天皇皇后両陛下の行幸啓を沖縄県民総出でお迎えすることこそ日本の未来を造ることになると確信しています。
(仲村覚)
PDF版ダウンロードはこちらから http://p.tl/HlaR
図説「琉球の過去と現在」(35枚)
タグ: 明王朝 太祖 朱元璋 琉球
発信時間: 2010-10-29 13:11:05 | チャイナネット | 編集者にメールを送る
瑞泉。国王が中国の冊封を受ける際にだけ、この水が供された。
12世紀、琉球諸島の南部、中部、北部に、それぞれ南山、中山、北山の三国が現れる。
明王朝藩属国時代
1372年、明王朝の太祖・朱元璋が中山王・察度に詔勅を発布。北山、中山、南山の三国が明政府に朝貢し、琉球は明王朝の藩属となる。
1392年、朱元璋の命により、福建省出身の造船・航海に長けた技術者、三十六姓が琉球に移民。
1416年、中山王・尚巴志が北山を征服。
1429年、中山王・尚巴志が南山を征服し、統一王朝の琉球王国が誕生(第一尚氏王朝)。琉球と明王朝の藩属関係により、琉球の各代国王は明王朝の冊封を受けなければならなかった。
1470年、第一尚氏王朝が滅亡し、尚円が第二尚氏王朝を樹立。明王朝の冊封を受ける。
1400年‐1550年、琉球王国の黄金時代。商業が高度に発達し、中国、朝鮮、東南アジア、日本と貿易を行う。
15世紀‐16世紀、大量の海賊“倭寇”が琉球諸島を荒らし回る。
1609年(万暦37年)、豊臣秀吉の対外拡張政策を引き継いだ徳川家康は、琉球王国に近い鹿児島の薩摩藩・島津家久率いる3千人の兵を派遣し、琉球を侵略。琉球国王を捕虜とする。
清王朝藩属国時代
東京を訪れた琉球国の使者
1654年、琉球国王は中国の清に使臣を派遣し冊封を求める。清王朝の順治帝は尚質王を琉球国王に封じ、琉球は清朝の藩属となる。
1853年5月、米国海軍准将・ペリーの艦隊が琉球に来航。
1854年3月、ペリーは日本と「神奈川条約」を締結。ペリーは日本に対し、琉球の那覇港の開放を求めるが、日本側は「琉球は遠い国であり、日本側にはその港の開放を決定する権利はない」とした。
1854年7月11日、ペリーは日本との交渉が終了した後、琉球へと急ぎ戻り琉球国政府と交渉。最終的に、中国語、英語の2言語で正式に条約を締結し、那覇港が開放される。
1866年、最後の琉球国王、尚泰が王位を継承。
1872年、日本は琉球王国が日本に属する“内藩(令制国)”であり、琉球諸島は日本の領土であると宣言。1372年に始まる中国の琉球に対する宗主国の地位を認めず公に琉球を侵略し、かつ、中国との琉球問題の交渉の引き延ばしを図る。
1875年7月24日、日本は琉球国王に対し、清王朝への朝貢の停止を強制。
1879年3月30日、日本は最後の琉球国王・尚泰に上京を命じ、琉球に沖縄県を置く。琉球王国は滅亡する。
後琉球王国時代
昔の琉球人の婚礼
1879年、日本と中国が琉球問題についての交渉を開始。中国側は琉球諸島を3分割し、日本に近い奄美大島を日本の領土、琉球本島及び付近の島々を独立した琉球王国とし、南部の先島諸島を中国の領土とする案を提示。日本側は琉球を2分割し、琉球本島及びその北方の島々を日本の領土とし、南部の先島諸島を中国の領土とすることを提案。(交渉では魚釣島の帰属については触れなかった)。
1880年9月、中国側は交渉の最後に妥協して、「分島・改約案」に署名。日本が提案する方法で琉球を二分するが、清朝皇帝はこの不平等条約への同意を拒み、中国側代表に日本との交渉の継続を指示。その後、日本側が去ったため、交渉は決裂。
1882年、天津領事・竹添進一郎が清政府と琉球問題の交渉を再開するが合意には至らず、琉球問題はそのまま日清戦争まで持ち越される。
1894年‐1895年、日清戦争の後、敗戦国となった中国は台湾、澎湖諸島を割譲し、琉球諸島問題については発言権などなかった。以降、琉球諸島が一つの国家であり、中国の藩属国である事実は忘れ去られる。
1898年、日本は琉球人に兵役を強制。
1901年、最後の琉球国王・尚泰が死去。
1916年、全沖縄教師大会は沖縄の教師に、学校で琉球語を使用した生徒を侮辱的な方法で罰するよう要求。
官職
1945年、第二次世界大戦の後期、米国が琉球本島に侵攻し、日本兵は琉球人に崖から投身自殺するように迫り、或いは、洞窟の中で食糧不足になる不安を減らすため大人しく撲殺されるよう迫った。また、琉球語を使用する者をスパイ嫌疑で殺害。戦争で琉球の人口は1/4に減少する。
1945年-1972年、米国の占領期、米国は琉球で異化政策を実行。米国の琉球占領に対し、中華人民共和国は「この諸島は米国が不法に占拠する日本の領土である」との態度であった。
1947年4月、国連は「旧日本委任統治島嶼に関する協定」により、北緯29度以南の琉球諸島及び元は中国に属していた釣魚台諸島(尖閣諸島)を米国の信託統治領とする。
1951年、日本と米国は中国代表が不参加の状況で「サンフランシスコ平和条約」を締結し、琉球諸島と合わせて魚釣島の施政権を日本に譲渡。しかし、土地の主である琉球の人々はこれに反対し、大通りに集まって涙を流した。
1972年5月15日から現在までに、日本は再び琉球諸島に対する統治を回復し、同化政策を実行し続けている。琉球諸島は現在も日本の47地方自治体の中で経済的には最下位にある。
普段着と礼服
尚王
(転載おわり 以下省略)
■唐淳風の沖繩歴史捏造手法を暴く:琉球人民反抗闘争史年表
■唐淳風が発表した「琉球人民反抗闘争史」
鳳凰網のブログサイトに「1945-2007琉球人民反抗闘争史年表」というのが掲載されています。
敗戦した1945年から2007年までの沖繩での反米・反日闘争史の年表として詳細に記述した非常に長い文章です。
この情報がガセネタと言われないように、情報源を先に示しておきます。
この記事を書いたのは、唐淳風という人です。
単なる民間人ではなく、日本の中国大使館でも勤務した事のある人物で、現在の役職は、
「中華人民共和国商務部研究院研究員日本問題専門家」です。
また、この記事を掲載したサイトも2Chねるなどではなく、大手のメディア会社です。
<鳳凰網紹介>
■唐淳風の沖縄戦後史捏造手法
さて、是非、問題の年表を目を通していただきたいのですが、驚くほど沖繩の出来事が細かく掲載されています。
沖繩県民でもここまで戦後史を把握している人はいないといっても間違いはないと思います。
しかし、沖繩に滞在した事の無い唐淳風がここまでわかるはずはありません。彼は以前、ネットの写真を勝手に利用して
琉球独立運動だとして捏造した事のある人物なので、同様の情報もネットにある可能性があります。
そこで、探してみるとパクリ元の情報源と見て間違いの無いサイトがありました。
「沖縄県祖国復帰闘争史年表」です。
このホームページで記載されている「祖国復帰闘争」とは、実は共産主義者の活動です。
「復帰運動」ではなく、左翼活動家が使う「闘争」という言葉を使った「復帰闘争」である事にご注目いただきたいと思います。
唐淳風は、このサイトの情報をパックって中国語に訳し、情報を加えたり省いたりして「琉球人民反抗闘争史年表」を作ったと思われます。
沖繩県民の祖国復帰闘争の歴史が彼の手により、「琉球人民反抗闘争」として中国に紹介されたわけです。
具体的にどのようにパクったのか確認してみたいと思います。
1953年11月9日から1954年2月20日まで年表を使って確認してみたいと思います。
上の2つの年表を比較してみてください。
まず、上と下の年表で日付が同じところを見比べてみてください。中国語のわからない方でも漢字をみれば
全く同じ内容である事がわかると思います。
■沖繩の祖国復帰運動の祖国は中国だった!
しかし、驚くような修正をいれています。
それは、「祖国」という文言の後に必ず、「(中国)」という文言を追加し、「祖国(中国)」に修正しているのです。
沖繩で戦後始まった祖国復帰運動の祖国は中国だったという事になっているのです。
唐淳風は、沖繩の歴史年表に事細かにかかれている沖縄県民の運動は、「日米政府の圧政から脱出するための反日、反米の
琉球独立運動」であり、それは「祖国中国に戻る」事であるとして発表したのです。
つまり、今、中国メディアでは、今、現在でも「沖縄県民は祖国中国に復帰したがっている」との捏造報道がなされているということなのです。
■沖繩祖国復帰運動は日本共産革命闘争だった
そこで、ひとつ疑問が出てきます。
何故、沖繩祖国復帰闘争史の年表の祖国のあとに「(中国)」と追加するだけで、中国国内で「沖繩の反米・反日の独立運動」として通用する内容になるのでしょうか?
復帰前、沖繩の祖国復帰運動に参加している沖縄県民にとっての祖国とは明らかに日本の事でした。しかし、復帰運動をリードしていたのは、
実は、自民党などの保守政党ではなく、沖繩人民党(後の共産党)や社会党などの革新政党や共産主義系の組合でした。
上の年表にその事がうかがえる内容がいくつかあります。
<1954年>
1.11 オグデン民政副長官「復帰運動は共産主義者を慰めるだけ」と声明
2.20 プラムり一首席民政官、復帰期成会(教職員会)会長宛に書簡をおくり、「復帰運動は共産主義者を利するのみ、教職員は児童生徒の教育に専念せよ」と警告(反共攻撃強まる。)
4.24 米民政府「メーデーはマルクス誕生の日で、共産主義者が指導、非共産主義者は参加しないよう」勧告声明。
米国民政府の声明などをみれば、沖繩の復帰運動は、共産革命運動であった事がわかると思います。
沖繩祖国復帰運動をリードした人たちは、祖国という言葉を使い、多くの県民を扇動しました。しかし、自らは祖国日本を愛する心は皆無どころか、もしかしたら、
共産主義国家の中国を理想の国と愛し、信じながら、復帰闘争を展開していたかもしれないのです。
しかし、ほとんどの沖縄県民は、この事をしらず、「祖国復帰」という純粋な思いで運動に参加し、洗脳され騙されていったのです。
そういう意味で、悔しいことに唐淳風の「沖縄県民は中国を祖国として復帰運度をしていた」という捏造記事も100%捏造とは言えないのではいかと思います。
■沖繩の反米・反日運動とは何か?
日本の安全保障最前線の沖繩で常時繰り広げられている、反米・反日運動は、防衛の大きな手枷足枷となっています。
(※反日運動:沖縄戦での集団自決に軍命があった。日本軍は沖縄県民を虐殺したという歴史観からくる運動。自衛隊配備反対につながる。)
(※米軍基地があるから戦争が起こる。基地がなくなれば平和になるいう思想からくる米軍基地撤去運動)
では、沖繩の反米・反日運動とはいったい何なのでしょうか?
これまでの内容を踏まえて結論を述べると、
「沖繩の反米・反日運動とは、第三国の指示を受けた日本の共産革命運動である」
とうい事になります。
しかし、安保闘争のようにいきなり日本全体を共産革命するのではなく、第一弾として沖繩だけを奪いに来ます。
沖繩の反米・反日運動は、沖繩では日常的に行われています。それは、地元のメディアの言葉を使って言うとあくまでも平和運動です。
沖繩の子孫に二度と沖縄戦のような悲惨な体験をさせないための平和運動が反米・反日運動として行われているのです。
しかし、どれだけ純粋な思いで反米・反日運動をやったとしてもそれは、中国では
「沖繩の反米・反日運動は琉球独立運動であり、琉球の中国復帰運動である。」
という事になるのです。
つまり、教科書検定で軍命の記述を求める運動をしたり、普天間基地の撤去や新型航空機のオフプレイの配備に反対したりするのも
結果としては、中国にとっては沖縄県民が琉球独立運動をしている事になるのです。
■反米・反日運動は、人民解放軍を沖繩へ呼び寄せる
唐淳風は、「中国は琉球人民の独立運動を支援するべきだ」といっています。
何故なら、
「琉球人民は中華民族の同胞であり、祖国中国を守るために餓死しようとも沖繩から米軍を追いだそうと戦っている。」
「このような琉球人民に対して、中国社会が支持しないなら琉球人民に合わす顔が無い!」
このような事を中国のメディアで発信しています。
これは、人民解放軍を沖繩へ派遣する大義名分をつくっているのです。
つまり、沖繩での平和運動(反日・反米運動)は、中国にとっては琉球独立運動なのです。
沖繩で平和運動を盛り上げ、米軍も自衛隊もいない沖繩を実現し、同胞の琉球人民の独立を支援し、中華琉球特別自治区を設立し、
琉球臨時政府を樹立させ、国連の承認も取り、日本の安全保障の要の沖繩を完全に支配権にいれるというのが彼らのシナリオです。
以前に私のブログで日本語に訳していますので、お時間のある方は是非御覧ください。