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緊急提言 憲法から9条を削除せよ - 井上達夫(東京大学大学院法学政治学研究科教授)安全保障は憲法になじまない

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私の考えでは、憲法とは、法の支配と民主主義を保障する原理です。特定の政策の押し付けではなく、政策論争を公正に裁断するための民主的政治競争のルール設定と、被差別少数者の人権保障がその本質です。

 財政や社会保障などの政策は、憲法自体が先決するのではなく、憲法に従った民主的プロセスによって決定されます。それなのに、なぜ安全保障だけが民主的プロセスに任されず、憲法9条によって先決されているのでしょうか。

>この方の理論はまさに正論だと思います。
しかし今の日本では憲法否定だとサヨクの猛反撃を受けるでしょう。

緊急提言 憲法から9条を削除せよ - 井上達夫(東京大学大学院法学政治学研究科教授)

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憲法学者たちはいつまでごまかしを続けるのか
憲法を形骸化させ、安全保障論議を妨げる。戦後70年の今こそ問う


 今年5月14日、安倍政権は集団的自衛権行使のための自衛隊出動を合憲とみなす閣議決定をおこないました。これは、従来、集団的自衛権行使を違憲としてきた歴代政権(内閣法制局)の立場を変える「解釈改憲」だとして多くの批判を呼びました。6月4日に、衆議院憲法審査会に呼ばれた憲法学者三人が、集団的自衛権を盛り込んだ安保法案を「憲法違反」とコメントし、マスコミなどで大きく取り上げられたことも記憶に新しいでしょう。ここでは、変動する国際環境のなかで日本の安全保障をどうするか、それは日本国憲法で謳われた平和主義、戦争放棄の理念とどう整合するか、といった長年論じられてきた問題が再び繰り返されています。

 しかし私がみるところ、むしろ憲法9条の存在こそが護憲派・改憲派双方の自己矛盾と欺瞞を生み、本格的な安全保障論議を妨げてきたと思われます。さらには、立憲民主主義に照らして、そもそも憲法で安全保障政策を定めることは正しいのかという、本質的な問題にもほとんど目が向けられてきませんでした。

 私は二十年来の持論として「9条削除論」を唱えてきましたが(『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』〔毎日新聞出版〕、「9条削除で真の『護憲』を」〔「論座」2005年6月号〕など)、誤解曲解もふくめ、議論の全体像が伝わっているとはなかなか言いがたい。

 私の議論は、国際社会における武力行使はどこまで正当化可能か、そして民主主義において憲法とはどんな役割を果たすのか、といった法哲学に基づくもので、まっとうなリベラリズムに立脚するものだと自負しています。今回はできるだけわかりやすく、「なぜ9条は削除すべきなのか」を論じてみたいと思います。

「押しつけ農地改革」を何故批判しない?

 まず改憲派、護憲派双方の欺瞞から見ていきましょう。「9条を削除せよ」というと、「実質的な改憲論、自衛隊強化論ではないか」という〝誤解〟をしばしば招きますので、改憲派の批判から始めたいと思います。

 改憲派が憲法改正を求める大きな論拠のひとつは、いわゆる「押しつけ憲法」論です。戦後、占領期の主権喪失の下で、マッカーサー率いるGHQから一方的に憲法草案を押し付けられた。だから、日本国憲法には正統性がない。日本の政治的主体性を回復するためには改憲が不可欠だ―という議論です。「戦後レジームからの脱却」にもつながる議論ですが、本当に改憲派は「押しつけ」を拒否してきたのか、といえば、そうではない。占領軍の「押しつけ」でも自分たちに都合のいいものは大歓迎してきた。その代表的な例が農地改革です。

 憲法制定でも、日本側の出した「松本原案」が微温的だったように、日本政府の打ち出した第一次農地改革は地主の大土地所有に抜本的に手をつけるところまではいきませんでした。本格的な農地改革を実現させたのは、マッカーサーが「押しつけ」た第二次のほうです。

 これは戦後の日本にとってきわめて重大な改革でした。たとえばフィリピンなどでは、抜本的な土地改革が行えなかったために、大土地所有層の貧農搾取に反発する左翼革命勢力と軍事政権の対立が続き、これが経済的発展を阻んできました。それくらい土地改革は難題なのです。占領軍の強圧的なパワーだったから可能だったという側面がある。また、それによって農村部を中心に保守の安定した票田が形成されたわけです。

 だから「押しつけ憲法」は批判する保守派も「押しつけ農地改革」とは言わない。つまり、改憲派は口では「押しつけ拒否」「主体性の回復」を唱えながら、実際には、単に自分たちの意に沿わない政策を変更したいだけではないか。あまりにもご都合主義的な政治的欺瞞がここにはあります。

 さらに言えば、たしかに日本国憲法は占領期に制定されたものですが、独立後、いつでも改正できたわけです。しかし、実際には改憲の発議さえなされていない。それは単純に発議しても通らない、国民の支持が得られないと政治的に判断したからに過ぎません。「押しつけ」の不当性は問えても、改正できなかったことの責任まで他人に「押しつけ」るのはおかしいでしょう。

 そもそも改憲派が9条を改正する狙いは何か。これは安倍政権の集団的自衛権行使も同様ですが、つまるところ、アメリカへの軍事協力をもっとやりやすくしたいわけです。つまり、対米従属は強まるばかりで、まさしく「主体性の回復」とは正反対の選択にほかなりません。

 実は、この点を最も鋭く指摘したのが清水幾太郎でした。彼は60年安保反対闘争で活躍しながら、後には日本核武装論を発表するなどして、転向したと批判されました。しかし、その論理を突き詰めると、主体性なき日米安保を脱却して、日本は自分で自分を守れ、と一貫している。清水の核武装論は、保守派からも「愚劣だ」と批判されましたが、実は「核の傘による対米従属」という保守派の一番痛いところを衝いたからだと思います。

 また保守派の間では、今の安保体制は米軍が一方的に日本を守る片務的な関係であり、その不公平を是正しないと日米同盟が揺らいでしまうという議論もありますが、これはまったくの謬論です。アメリカにとって日本は、多くの軍事基地と主要な兵站拠点を提供してくれる代替不能の戦略拠点です。これ以上の利益供与やリスク負担などは必要ない。アメリカが世界の警察官であることをやめ、アジアからも後退していくという議論もありますが、米軍が日本に戦略拠点を確保したいのは、アジアを守るためでも、日本を守るためでもありません。米国自身の国益を守るためなのです。

 私自身は、米国への従属を深める集団的自衛権の行使には基本的に反対です。さらにいえば集団的自衛権を行使しようとすると、たとえば冷戦時代のワルシャワ条約機構対NATOのように、敵・味方のラインをあらかじめ引いてしまうことになる。これは非常に危うい。様々な問題はあるものの、ある国が侵略を受けたら、国際社会が一致して守る集団安全保障体制を充実させる方に努力すべきだと考えます。

最大の欺瞞は原理主義的護憲派

 改憲派が政治的欺瞞だとすると、護憲派が抱えるのは憲法論的欺瞞です。憲法を擁護しているように見えて、実際は形骸化させてしまっている。改憲派よりも護憲派の欺瞞の方が根深い。

 護憲派にも二つあって、ひとつは原理主義的護憲派。こちらは「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という9条第二項を字義通り捉え、自衛隊と日米安保は存在自体が違憲だという立場です。

 それに対して、修正主義的護憲派は、専守防衛であれば自衛隊も安保も合憲であるという立場で、基本的には歴代の内閣法制局の見解と同じです。

 実は、護憲派学者の間では、これまでこの修正主義を表立って言う人は少なかったのですが、近年、衆議院憲法審査会に出席した長谷部恭男さんのように、はっきりこの立場を取るような人たちが出てきました。彼らは自分たちの解釈は正当で、集団的自衛権行使は解釈改憲だと批判する。

 しかし、私はこの立場には無理があると思います。よく知られているように、一九四六年の帝国議会憲法改正委員会の席で、野坂参三が、自衛のための戦力まで放棄するのはおかしいではないか、と質問したのに対し、時の吉田茂首相は、自衛のための戦力も放棄したという趣旨だ、とはっきり答弁している。それが冷戦の深刻化、朝鮮戦争などを受けて、米政府の要請で再軍備を果たすのですが、自衛隊のような巨大な武装装置が戦力ではない、というのは、どこをどう曲げても成り立ちません。日米安保に至っては、世界最強の米軍が日本を防衛することを取り決めているわけですから。

 つまり「専守防衛の範囲なら」という内閣法制局の見解自体、すでに解釈改憲そのものなのです。つまり、修正主義的護憲派は、自分たちがすでに解釈改憲を行っていながら、違った意見を持つ安倍政権にはそれを許さないと主張している。ダブル・スタンダード以外のなにものでもない。彼らに安倍政権の解釈改憲を批判する資格はありません。修正主義的護憲派の狙いは憲法と現実の乖離の是正ですが、そうであるなら、本当に取り組むべきは「専守防衛に限り戦力を保有する」と明示した「9条改正」でしょう。

 私は安倍政権のやり方をみていると、改憲派も、この修正主義的護憲派に「学んでいる」なと感じます。これまでは曲がりなりにも、現実と憲法の矛盾を自覚し、憲法改正という正攻法でそれを正そうとしてきたけれど、「憲法改正などしなくても、解釈改憲でいいじゃないか。そのほうが楽だ」と安易な道を選んでしまった。憲法の都合の悪い部分は単に無視してしまえばいい、と。はっきり言うと、改憲派が修正主義的護憲派のレベルに落ちてしまったわけです。私はリベラルを自認するものですが、この「保守」の劣化を深く憂慮しています。

 では、原理主義的護憲派ならばいいのか、といえば、こちらはもっとおかしい。たとえば、次のような議論のどこが変かわかりますか?

〈自衛隊は違憲だと主張し続けることは、専守防衛の枠に抑え込むのに政治的に有効だ〉

 これは実際に原理主義的護憲論者が展開している議論なのですが(愛敬浩二『改憲問題』ちくま新書など)、つまり実際に「非武装」が実現可能だなんて、彼ら自身信じていないわけです。専守防衛の自衛隊は違憲だけど必要だから、違憲の烙印を押し続けながら存在させよう、と。要するに、違憲状態の固定化を望んでいる。これの一体どこが護憲なのか。しかも違憲状態固定化容認の姿勢を、いまや世間に公然とばらしている。

 彼らはこれを「政治的に賢明な、大人の知恵」だという。私からすれば、おぼっちゃま的な政治的幼児性以外のなにものでもありません。彼らの視点に完全に欠け落ちているのは、たとえば自衛隊員の立場ですよ。「お前らは違憲の存在で、法的には認知してやらないけれど、一朝事あらば命を張って我々を守れ」と言っているに等しい。そういう意味では、私が一番許せないのは原理主義的護憲派ですね。
 

安全保障は憲法になじまない

 ここまで9条をめぐる改憲派・護憲派それぞれの矛盾と欺瞞をみてきました。しかし、ここまでだと、なぜ私が9条の「削除」を主張するかは説明できていません。

 私の考えでは、憲法とは、法の支配と民主主義を保障する原理です。特定の政策の押し付けではなく、政策論争を公正に裁断するための民主的政治競争のルール設定と、被差別少数者の人権保障がその本質です。

 財政や社会保障などの政策は、憲法自体が先決するのではなく、憲法に従った民主的プロセスによって決定されます。それなのに、なぜ安全保障だけが民主的プロセスに任されず、憲法9条によって先決されているのでしょうか。

 もう少し詳しく論じたいと思います。国家のない自然状態というものを想定すると、そこでもめごとが生じると、暴力で決着をつけるしかない。国家とは、この紛争を法廷や議会など言論により決着させるための政治的意思決定システムです。では、どんな争いをこのシステムで決定するのか。人生観や宗教などであれば、単一の見解を政治的決定で押し付ける必要はありません。違いはあっても、それぞれの違いを認めて、自己決定にまかせればいい。

 ところが、そうはいかない問題があります。たとえば分配システム。小さな政府で税負担を軽くするのがいいか、福祉国家で大規模な再分配をするのがいいかは、それぞれ勝手にやれ、というわけにはいきません。集団的決定が必要になりますが、その決定に対して、みんなが満足することは期待できない。だからこそ、その決定に反対する者も、変更されるまではそれを「正当性はないけれど正統性のある決定」として尊重できなければならない。

 では、この集団的決定の「正統性」の条件は何か。

 私は、政策の「正当性」をめぐって対立する立場に対する共通の制約原理となる正義概念があると考えます。難しい哲学的表現になりますが、自己と他者との普遍化不可能な差別の禁止がその核心です。

 これは、自分の他者に対する行動や要求は、もし自分が他者だとしても拒絶できないような理由によって正当化可能なものでなければならないという「反転可能性」の要請を含意します。 「集団的決定」とは、政治的競争の勝者の決定を敗者に押し付けることです。しかし、勝者は何をしてもいいわけではない。もし自分が敗者だったとしても、その決定を尊重できるのか、という反転可能性テストに耐えうることが要請される。これが「正統性」の基礎です。

 特定の政治勢力が勝者の地位を永続的に独占できるなら、「もし自分が敗者だったら」という問いは無意味化します。したがって勝者と敗者の地位は現実的にも反転可能であることが必要です。これを保障するのが民主主義的選挙制度であり、それによる政権交代です。中国の共産党のように一党独裁で、この反転可能性が確保されていない場合は、正統性を欠くとみなさざるを得ません。

 さらに重要な問題は、被差別少数者の存在です。人種的・文化的少数者や同性愛者などは、多数者の偏見に曝され民主的競争の勝者になる見込みは小さい。そうした人々から正統性承認を得るには、民主主義だけでは不十分で、違憲審査制のような司法的人権保障が必要です。

 つまり民主的な政治競争のルールと少数者の人権保障により、「敗者でも尊重できる」という反転可能性を現実的に確保することが、政治的決定が正統性を持つための大前提となる。それを保障するのが憲法なのです。憲法は公正な「政争のルール」であって、各党派が自己の政治的選好を実現するために利用する「政争の具」にされてはならない。

 だから、私は憲法改正の手続きを定めた九六条のハードルを下げる改正には反対です。時々の選挙の勝者が自分に都合のいいように簡単に憲法を変えられるなら、憲法は公正な政争のルールではなくなり、立憲民主政治の正統性そのものが崩壊します。

 こう考えていくと、安全保障のあり方は、憲法で先決せず、民主的プロセスのなかで討議すべき問題です。それは被差別少数者の人権問題を越えた多数者を含む国民全体の利害に関わる政策課題ですから。

 国際状況は予測不可能な仕方で激変します。専守防衛を維持したほうがいいのか、集団的安全保障までは認めるのか、集団的自衛権にまで踏み出すのか、どれが今後の日本にとって最適なのかは、誰にも確言はできない。そうしたなかで、ある特定の安全保障観を、憲法によって固定化してしまうことの方がよほど問題ではないでしょうか。

 すると、こうした反論が予想されます。安全保障のような高度に専門的な議論を、素人である国民の判断に委ねていいものか、と。護憲派知識人が、安全保障体制を民主的立法だけでなく憲法改正の国民投票に委ねることすら反対するときの論理ですね。これはパターナリズム(家父長的干渉主義)です。要するに国民は愚かで正しい判断は下せないという愚民観がその根底にあります。

 これには二つの反論を用意しています。

 まず本質論として、安全保障のような国民全体に関わる問題であればあるほど、民主的な討議と決定が求められること。これは帝国陸海軍という「専門家」が安全保障問題を独占していた戦前日本の失敗を想起すべきです。

 また、専門家が一般の国民よりも賢明な判断を下しうる、という前提自体が大いに疑わしい。たしかに具体的な戦略・兵站や軍事情報通信システムなど、技術的な問題はプロに任せるべきでしょう。しかし、集団的自衛権行使云々という安全保障体制の基本原理に関して、確実な正解を知る専門家など存在しない。もちろん国民の判断も誤ることはあるでしょう。しかし、民主主義は時間はかかっても失敗をフィードバックし、学びを重ねていけるシステムです。これを私は「我ら愚者の民主主義」と呼んでいますが、専門家・エリートも含め、みな愚かな失敗をするからこそ、失敗とその教訓を次の選択に活かす民主的プロセスに委ねるべきなのです。

 ところが、9条の存在は、この問題の国民的討議を回避させています。つまり、「9条の壁」の前に思考停止をしてしまう。現実には自衛隊という精強な軍隊を持ち、世界最大のアメリカとも軍事同盟を結びながら、自分たちは9条を守る平和主義者だという欺瞞に浸る。一方、現状に不満な改憲派も9条叩きで終わってしまい、改憲するだけで自主的でより安全な国防が実現するかのような幻想を抱いている。

 現実には死文化しているにもかかわらず、実質的な安全保障論議を妨げるという呪縛力だけ持っている、それが憲法9条なのです。

抑止のための徴兵制が必要

 最後に、私自身が考える日本が取るべき安全保障について述べてみたいと思います。「戦争の正義」に対する考え方には、大きく分けて五つのタイプがあります。

 まず憲法9条が位置するのは、絶対平和主義です。しばしば絶対平和主義は平和ボケなどと揶揄されますが、これは誤解です。それはむしろガンジーやマーティン・ルーサー・キングの非暴力抵抗運動にもつながる、最も過酷な選択なのです。不正な侵略には徹底して抵抗しますが、そのときに軍事力は使わない。侵略者と同じ道徳的な堕落を招くからです。いくら殺されようとも、デモやゼネストなどの非暴力で対抗する。これは大変に立派な行いで、自己を律する倫理としては成立するでしょう。しかし、他者に(ともに侵略を受けている仲間も含め)それを強制することはできません。侵略を受けた人たちが、自衛のために武力を使う道を選ぶのを止める権利は誰にもないのです。民主的なプロセスで、この絶対平和主義が選ばれる可能性はほとんどない。しかし、個人としての選択であれば、私は尊重に値すると思います。

 似て非なるものに「諦観的平和主義」があります。これは「不正な平和でも、戦争よりまし」というもので、戦後日本でも根強い人気がありました。しかし、これは論理的に破綻しています。この立場では、いかに現状が不正に思えても、それに武力で対抗することは禁止されます。すると、結局は先に既成事実を作れば勝ちとなってしまい、かえって武力行使を招きやすくなるのです。ナチスドイツのチェコ侵略などがこれに近い例でしょう。

 第三に、無差別戦争観。これは国益追求の手段として戦争を認めるもので、いわば国家間の決闘のようなものとして戦争を捉える考え方です。

 第四が積極的正戦論。これは自分の信じる宗教・道徳・イデオロギーの実現のための武力行使を認めるもので、宗教的聖戦論や現代の体制干渉戦争に見られます。

 私はこの四つのどれをも採りません。私の立場は消極的正戦論、すなわち正当な戦争原因を自衛に限る考え方です。この点でだけ言えば、修正主義的護憲派の専守防衛と重なる。ただ大きく違うのは、安全保障体制のあり方は憲法でなく民主的立法で決定し、憲法は「もし戦力を保有するなら徴兵制を採用し、良心的拒否権を保障すべし」という条件付け制約を課すべきだとする点です。

 カントは有名な『恒久平和のために』で、平和のための条件のひとつに共和制であることを挙げました。つまり君主制では王が勝手に戦争を始め、そのコストを払うのは国民です。しかし、共和制ならば、戦争が起きたら兵士となって戦場に出る国民自身に決定権がある。自らコストを負うのだから、戦争に慎重になるはずだ、と。

 実際にベトナム戦争でのアメリカでは、徴兵制が大きな影響を与えました。戦争の激化とともに、一九六九年に法改正で徴兵制が強化され、マジョリティである白人中間層とその家族を含めて、より多くの市民が戦場に送られるにつれて、反戦運動も拡大激化したのです(新著で、当初は志願制だったとしたのは誤りで訂正します)。

 したがって徴兵制は絶対に無差別公平でなければなりません。富裕層だろうと、政治家の家族だろうと徴兵逃れは許されない。開戦決定を左右するエリートとマジョリティ自身に「血を流す」コストを負わせるべきです。

 同時に良心的兵役拒否を認める必要があります。先述したように絶対平和主義者の自己決定は尊重する。ただし、良心的拒否権の利己的濫用を抑止するために厳しい代替的役務を課す。非武装で看護の任務に就いたり、消防隊や被災地域の救護活動など、実質的に兵役に等しいリスクを引き受けることがそこでは求められます。

 戦後七十年が経ち、日本の安全保障のあり方については、このままでいいのかという問題意識が国民の間にも相当に広がっています。私が言いたいのは、これ以上、憲法9条をめぐる欺瞞的な議論にエネルギーを浪費するのはもうやめにしませんか、ということ。この国の安全保障を決定するのも、そのコストを負うのも、主権者である我々日本国民なのですから。

■プロフィール
いのうえ たつお 1954年大阪市生まれ。東京大学法学部卒。著書に『
リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版)、『世界正義論』(筑摩書房)など。

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