私も戦前の軍国主義は反吐が出るほど嫌いだ。
しかし戦争体験者のいわんとすることはよくわかるが、それが高じて無抵抗主義になるのはおろかだ。
確かに戦争は絶対にしてはならないが今のシナ共産党がちょうど戦前の日本のように軍国主義化して日本は逆に反日デモなどで多大の侮辱を受けてもただひたすらに甘んじている。
悪党に左のほほをたたかれたら右を出したらまたたたかれ虫けらのように殺されるかもしれない。
西欧人は口では聖書の言葉を出しきれいごとを言うがやられたら10倍返しをする肉食民族だ。
しかしその白人たちも今ではより紳士的になり有色人種の人権も尊重するようになった。
今の世界の最大の脅威はシナだ。彼らは現在進行形で領土拡張の野望を実践しようとしている。
ISIS、北朝鮮などはそれに比べれば微々たるもの。
兵士ではない年寄りらを連れてきて柱に縛りつけ、銃剣で突いた。「おじいちゃんやおばあちゃん。もう体がボロボロになるほど。本当に残酷なことを日本の兵隊はやったわけです」――。戦後70年を迎え、再び「戦争」への不安が立ち込める中、戦前世代が重い口を開き始めた。家族にもほとんど話してこなかった記憶は、孫世代に何を語りかけるのか。10人の証言を紹介する。
◇第1章 年寄りを銃剣で突いた
◇第2章 竹槍で戦うつもりだった
◇第3章 家族の悲しみ伝え続ける
◇第4章 「逃げて」妹は言った
◇第5章 運がよくて生き延びた
◇第6章 黒い血流して逝った姉
◇第7章 軍国教育は怖いもの
◇第8章 飛び立つ先輩、表情今も
◇第9章 焼かれる街、夜空真っ赤
◇第10章 満州逃避行、軍に怒り
第1章 年寄りを銃剣で突いた
90歳まで長生きできたのも、亡くなった人のおかげじゃないかな。悲惨な思いで亡くなった人のことを話してやんなくちゃ申し訳ないな――。栃木市平井町の鈴木清富さん(90)は、自らの体験を家族にもほとんど話してこなかったが、「語り継ぐのが責任」と考えるようになった。
1944(昭和19)年暮れに召集され、宇都宮、博多、朝鮮半島を経て中国へ。現地での訓練を「正気の沙汰じゃなかった」と振り返る。
兵士ではない年寄りらを連れてきて柱に縛りつけ、銃剣で突いた。「おじいちゃんやおばあちゃん。もう体がボロボロになるほど。本当に残酷なことを日本の兵隊はやったわけです」。場所は麦畑。やめてくれ、と農民は泣いて懇願した。八路軍(中国共産党軍)との戦いは手投げ弾や小銃で攻撃され、中隊長や小隊長が地雷にやられた。
その後、広島警備を命じられたが、日本本土に渡る前に逃亡兵が出て、捜索中に玉音放送を聞いた。負けを受け入れられず、自害する者もいた。
ソ連軍が来て、村の学校で武装解除された。船で着いたのがウラジオストク。さらに移動し、極寒の地シベリアでの4年間にわたる抑留生活が始まった。
350グラムの黒パンやわずかにキャベツが入ったスープ。栄養失調で連日5人、10人と亡くなった。
「埋めようにも土は凍っている。5、6人がかりで何時間かかっても掘れるのは5センチくらい。裸の遺体に周りの雪をかけた」。木の伐採はとくに過酷な労働で、ダニにかまれて亡くなる人もいた。
ソ連兵の銃を奪い、殺して逃げた仲間は国境近くでつかまった。機関銃で撃たれた遺体は収容所に運ばれ、「逃げればこうなる」とばかりに見せられた。
49年8月、引き揚げ船で京都・舞鶴へ。東京の上野駅に兄弟や親戚が迎えにきて、古里・栃木に帰った。コメ作りや酪農をした後、地元の会社に30年近く勤めた。定年後もシルバー人材センターで植木の仕事をした。子どもや孫に恵まれ、ひ孫もいる。
広島警備の任務についていれば原爆でやられたかもしれない。「戦争だけは絶対にやってほしくない」と願う。安全保障関連法案の行方が心配だ。「衆院で通っちゃったけど、あれはもう廃案に追い込んでもらいたい。結局は国民が犠牲になるんだから・・・
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