僕が芸能界を無期限休業したワケ――小橋賢児「ネパールを旅してわかったこと」
2015年の夏、日本中でもっとも熱かったダンスミュージックフェスティバル「ULTRA JAPAN」は、一人の男の熱狂から始まった。周囲の反対を押し切って開催したイベントは成功し、巷間に伝導したころ、その男はバックパック一つでひっそりと旅立つ。
【僕が旅に出る理由 第2回】
シンガポールでトランジットをしてムンバイへ向かう便に搭乗しようとゲートへと向かった。ゲート前には明らかに前の便とは違う雰囲気の搭乗者達で埋め尽くされていた。
搭乗開始のアナウンスが入ったので並ぼうとすると、その者達がダッシュでかけよってきて、あれよあれよという間にどんどん前に入られてしまう。飛行機は逃げないからそんなに焦るなよ~と思いつつ、少しでも気をぬくといくらでも後ろに追いやられそうなので、負けじと応戦する。
きたなぁインド…
インド人はとにかくいつでもどこでも攻め攻めだ。まだ飛行機搭乗前ではあったがこの先約3ヶ月と続くインドという国が始まった気がした瞬間だった。
忘年会続きの身体で疲れていたのか機内食のインド料理を食べながらワインを飲むとすぐに眠りに入った。ふと気づくとムンバイ国際空港に到着していた。あれだけ苦労したVISAの取得であったが、イミグレーションは本当にVISA確認したのか?ってくらいあっさり通過できた。
僕は世界中どこにいってもだいたいバックパック一つで旅行する。
一つの理由としては途上国にいくと機内から荷物が出てこないなんてことはザラだし、荷物の中味がこじ開けられてめちゃくちゃになってる事もよくある、もう一つの理由はどうせ1ヶ月分の洋服をもっていける訳ではないのだから下着さえ多めにもっていけば問題ないし、何よりも移動が多い時は気軽な方がいい。
しかし、今回は約3ヶ月。荷物がいつもより少しだけ多くなってしまった。多くなったといってもマムートの30リットルのバックパックのみではあるけど、そこにキャンプ用の寝袋から枕、インドのカレーに飽きると思ったので日本の味をちょっと多めにつめ、日本の普段着はインドではかえって目立ちすぎるので服は現地購入を主にし少なめに。
⇒【写真】はコチラ http://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1042083
ムンバイには約10年前に行ったことがあるのだが、空港は驚くほど綺麗になっていて、静まりかえり、到着地を間違えたのではないかと思うほどだった。そんな勘違いも束の間、空港を出たその瞬間から、耳を裂くようなクラクションが街中に鳴り響き、信号なんて皆無のように少しでも隙間があれば平気で逆走。車間なんてほとんどない。全てのものが前へ前へと突き進もうとする。ちょっとでも気をそらしたら四方八方から車やバイクがやってくるのでインドの街を歩くのも一苦労だ。
南米でもそうだったけど、交通ルールがほぼ皆無みたいな国の人々って動物的感覚で動いている。逆に安心安全な国で感覚を閉じている自分のほうに、危機感を覚える部分もある。
僕が旅をする理由の一つには、自分の国では当たり前だと思い込んでいる常識が通用しない国に行った時に感じる危機感こそが、自分の内で閉じていた感覚を開くというのもあるのだ。
僕が8歳の頃、たまたま観ていた高田純次さん司会のバラエティー番組で新レギュラー募集中というテロップが流れ、まだ子供で無知な僕は観覧希望と勘違いしてハガキを送り、そのことがきっかけとなり芸能界に入った。
芸能人になりたいとは思ってなかったけど、知らない世界は見てみたいという願望はあったので、結局事務所に入り、学校の合間を縫ってはオーディションを受けるようになった。
劇団員のように教育もされてないからオーディションなんて受からない、むしろみんな同じようにつくられた挨拶をしている劇団の子供達を見て、気持ち悪いなぁって思ってたくらいだから、オーディションで「笑ってください!」って言わると「面白くもないのに笑えません!」と応えていた。
そんな生意気なガキだったけど、それでも100回に1回くらい「お前面白いなぁ」っていってくれる人がいて、その内の1人に映画監督の岩井俊二さんがいた。ほとんどの監督からはガキはおとなしく大人の言うことを聞けって態度の扱いしかしないなか、岩井監督は子供と同じ目線でむしろ仲間のように僕らを扱ってくれた。自然に僕たちの個性を導きだしてくれた。
岩井俊二監督の作品がきっかけとなり、僕は演じることがどんどん楽しくなっていた。
思春期にはそれなりに悪さもしたし、バイトも新聞配達から古着のバイヤーまで色々経験した。それも全て新しい世界や感覚を知りたいと思いからだった。しかし、芸能界での仕事が忙しくなるとプライベートが極端に制御され、それまでのような新しい扉を開いていくことが難しくなっていった。
遊んでいることを事務所にばれるのを恐れ、個室の店で隠れて遊ぶ日々。表現者は多くのリアルな経験を積み、感度を高めないといけない筈なのに、むしろ虚像のような世界に浸り感覚を閉じていく作業の毎日。本当はこうしたい、こうなりたい、こんなところにいきたい、と思っても、芸能人だから仕方がない。それをしたら今の立場を失ってしまう……。
今思えば、そんな状況を全て言い訳にしては、自らの感覚をどんどん閉じていってしまっていた。たとえ自分の心が「NO」と思っても、自分の心に嘘をつくのはあまりにもペインだから、感覚を閉じてしまおうとなる。
そうして感覚を閉じて生きていくと次第に心が死んでいく。
当時周りから「大活躍だね!」って「凄いね!」って言われてもピンとこなかった。心が死んでいて「本来の僕ではないのに何が凄いの?」って思っていたからだと思う。
そんな不感症のような10代後半から20前半が過ぎ、20代後半に差し掛かろうとした時に、ふと自分の30代を想像してみた。
昔から漠然と男は30代からと思っていたからでもあるが、いざ想像してみると恐ろしくなるほど何もない自分しか想像できない。表面的には今の地位とかそれなりの生活とかはあるんだけど、幸せで豊な心がそこにはない気がした。そう考えはじめたら怖くなり、いつもの場所や仲間達から少しずつ離れていった。
26歳の時にネパールに一人旅をした。
そこでたまたま出会った同じ年の男の子と仲良くなり家に招待された。家は畳4畳もない狭い家ではあったが彼には綺麗な奥さんと可愛い娘がいた。娘を学校にいかせるお金がないと嘆いてはいたが、彼の方が今の僕よりも“生きている”気がした。僕が「夕日を見たい」と言うとバイクで丘の上に連れていってくれたのだが、僕はそのバイクの後で突然溢れるように泣いてしまった。
彼は地位も名誉もお金もない。だけど家族を養うために今という時を必死に生きている。当時の自分はというと今の環境が変わることを恐れて、心を犠牲にしてまで自分の立場や生活を守ろうとしている……。今思えば、彼の人間力の大きさと自分の人間力の小ささを目の当たりにして、ショックをうけていたのだと思う。
それからというもの日本に帰ってからは全てが嘘のように感じてしまい、そこから逃れることばかりを考えるようになった。そして27歳の時に無期限の休業にはいったことで僕の第2の人生がスタートした。
僕は常日頃から過去10年の自分が今の自分をつくっていると思っている。
そうちょうど10年前の26歳の時のネパールの旅がきっかけとなって今の僕があると思う。
そして、現在36歳。
10年後の僕がインドを旅しているなんてその時の自分には想像もつかなかったけど、旅はいくつになっても新しい自分を発見できる。今まで閉じていた感覚を開かせてくれる。人によっては「若い頃はよく旅したよ」なんて人もいるけど、いくつになっても毎回毎回絶対新しい発見がある。それは別にどこか遠くの国への旅じゃなくても、国内だって日常の中でだって、旅は出来て、掘り下げれば様々な発見があると思う。
今、こうして慣れ浸しんだ日常からわざわざ離れ、バックパック一つで苦労しながら旅をするのは普段当たり前と思っていること、もの、人の大切さや深みを改めて知ることにもなるからだ。
さて今回の旅はどんな旅になるかなぁ…
これまでの軌跡とまだ見ぬ未来をちょっとだけ想像しながら僕はインドの地に足を踏み入れた。行き当たりばったりの旅は何が起こるのか、どんなものに出会うかわからないのが醍醐味だと思っている。が、初日の夜から値段交渉の戦いは面倒だったのと、今回はインドの旅の始まりにあることをしてスタートしようと考えていたので、一泊目だけは事前にホテルを予約していった。ホテルへは定額料金のタクシーで向かったのだが、さっそくエクストラマネーを要求してくるドライバー。優しい日本人なら払ってしまうのだろうけど、この先の旅いちいちこれに対応していたらキリがない。
ある国では、安い順にローカルプライス→外国人プライス→日本人プライスってのがあるくらい日本人は世界中どこへいっても一番払わされてしまう。
それは英語力や物価の違いよりも、真面目さ、気の小ささ、何よりも島国で信用信頼が当たり前の世界で生きているから、ついつい信用して騙されてしまうのだと思う。
その反面、途上国は生きるために必死だから、旅行者からは少しでもとれるものはとろうと考えている。ちょっとやそっとの交渉力ではなかなか敵わない。大した額ではないのでケチるつもりはないが、自分の意思をはっきり伝えることが外国で生活してく上では大事だと思ったので、「このタクシーは定額料金なんだからNO」とはっきり言って断ることにした。不満そうなドライバーではあったがすぐに切り替えその場を去っていった。良くも悪くもだが、こういった気持ちの切り替えの早さはある意味学びたいものだ。
この先、都市ではない場所に行けば否が応でも好みではない宿に泊まらなくてはならない。一泊目だけはそこそこのホテルで宿泊することにした。翌日からの生活のために必要なものがあったので、それらが売っている場所をホテルのレセプションに確認すると、髭面のやたら陽気なおじさんが「あーそれなら俺の知っている店にあると思うから今確認してあげますよ!」と、自らの携帯を取り出しどこかへ電話をすると、何やら聞き覚えのない言葉で話はじめた。インドでは英語も使うが主にはヒンディー語を話すので、都合によって使い分けられちゃう訳で、ヒンディー語がわからない旅行者にとっては何をいっているかさっぱりわからない。
しばらくするとその髭面のおじさんが「おーあったぞ、間違いなくこの店にあるので今すぐいってくれ」。そうして待機していたタクシーに半ば無理やりのせられ、言われた住所まで連れていかれた。到着した店で商品の値段を聞くと思っていたよりかなり高い。通常こういった場所では最初は高めにいって徐々に値引きに応対するものなんだけど、いくらディスカウント頼んでも無表情で全くひく気もない。最初は何度も粘ったが一切ディスカウントには応じない頑固たる態度だ。なんだか怪しさを感じながらも、翌朝は買い物しいている時間もなかったので仕方なく提示された値段で購入してしまった。タクシーに戻ると運転手から「いくらで買ったんだ?」と聞かれたので値段を言うと、「それは相当高いよ! きっとホテルのやつとグルじゃないか?」と言ってきた。泊まっていたホテルが決して安いホテルではなかったのでまさかとは思ったがあの頑固たる店主の態度とそれを見守る若いスタッフの不安そうな顔を思い浮かべるとやはり運転手のいう通りなんだろう。
あの手この手でやってくるので見知らぬ国では自国の常識などは忘れた方がいいと思うのはこういうところにもある。そしてホテルにつくと、その陽気なおじさんがさらに陽気な顔して「おーどうだったか?良かっただろう?」と近寄ってきたので、「めちゃくちゃ高かったよ!」と言うだけ言ってやった。一瞬焦った顔を見せながらも、「グッドクオリティ!グッドクオリティ!」とごまかそうとする。長旅で疲れていたし、もう購入してしまったからこれ以上つきあっても仕方ない。その場はそれくらいでかわし、寝ることにした。
翌朝、少し早く目が覚め窓の外を眺めるとガスった空に朝日が差し込んでいて、少し幻想的なムンバイの街があった。
さぁ今日から10日間、俗世から離れるぞ…
今回のインドの旅は基本行き当たりばったりの旅ではあるが、一つだけヴィパッサナーというゴーダマ・ブッダーが生涯において教え続けた瞑想を習ってから旅をはじめようとだけは決めていた。
インドで瞑想?
怪しくない?
病んでるの?
芸能界にいた僕のようなものがインドで瞑想なんてキーワードを、ましてやこの公の場所でつかうものなら、頭がおかしくなったか、怪しい新興宗教にでもはまったのだと思われるかもしれないが、あえて今回は書いてみたいと思う。
以前一度だけタイでうけたことがあるだが、10日間に渡り、携帯やPCなどあらゆる気になるものを預け、話すことも読み書きも禁止される。途中休憩はあるものの毎朝4時に起きて21時半までひたすら瞑想をする。瞑想と聞くと無になると思っていただけど、全くの真逆で、普段忘れている身体中の感覚に気づき、ひたすら観察しなくてはならない。
その際にいかなる反応、それが不快感や痛みであれ、心地のよい恍惚感であれ、それらに執着や嫌悪せずに平静な心でじっとそれらが消え去るまでただただ観察する。
すると奥底につまっていた心の汚れというものがでていくという。誰にでもできる実践法であって、マントラをとらえたり、何かを崇拝したり宗教じみた作業は一切ない。もちろん終わったあとにどこかに勧誘されるようなことなどは全くない。
実際、ブッダ自身も様々な宗教を学びあらゆる瞑想法も学んだのだが、そのどれも真理にたどりはつけないと悟り、真理は自分の内にこそあると自分自身の思考で身体中を観察し、ついには悟りをひらき、生涯に渡ってだれでもできるこの実践法を教え続けた人物。決して宗教を説いた人ではないという。
ブッダの死後、しばらくはこの実践法が伝えられてはいたのだが、人々はそれらを神格化し、様々な宗教を作り出し、次第に人々は信仰するのみになり、この実践法を忘れていったという。
その実践法を唯一守ってきたのがミャンマーのある一族で、それが近年になってゴエンカという人によってインドに再び持ち込まれた。そして世界中に広まっていったという。
あらゆる宗教の人も参加できるし、施設は寝床や食事まで用意されているのにも関わらず、一切の営利目的はなく全て寄付制で行われている。最後に自分の想いの範囲で他の誰かのために金銭をおさめる(つまり1円でもいい)。先生やアシスタントスタッフもみんなボランティアで行われている。それなのに世界中に素晴らしい施設がどんどんでき、まさにペイフォワードのようにそれを体験した人が他の誰かにもこの体験をしてほしいと願い、寄付をしていく。
残念ながら似たようで全く本質が異なった方法を用いている瞑想が世の中にあふれている。
日本では一部のカルト教団のイメージで瞑想を怪しく思ってしまう人もいるかもしれないが、かのスティーブ・ジョブスをはじめ、シリコンバレーなどのビジネスマンの間ではかなり前向きに瞑想を取り入れられているは周知の事実だ。僕があえてこの場で書くのは、実際に体験して素晴らしいものだと思ったし本質的だと感じたからで、そして自分の閉じていた感覚に気づく手段の一つだと感じたからだ。
とはいえ、10日間の修行は本当につらい…さあどうなることやら..
次回はそのヴィパッサナーのさわりだけでも書いてみたいと思う。
●小橋賢児(こはしけんじ)
俳優、映画監督、イベントプロデューサー。1979年8月19日生まれ、1988年、芸能界デビュー。以後、岩井俊二監督の映画『スワロウテイルバタフライ』や NHK朝の連続小説『ちゅらさん』、三谷幸喜演出のミュージカル『オケピ!』など数々の映画やドラマ、舞台に出演し人気を博し役者として幅広く活躍する。しかし、2007年 自らの可能性を広げたいと俳優活動を休業し渡米。その後、世界中を旅し続けながら映像制作を始め。2012年、旅人で作家の高橋歩氏の旅に同行し制作したドキュメンタリー映画「DON’T STOP!」が全国ロードショーされ長編映画監督デビュー。同映画がSKIPシティ国際Dシネマ映画祭にてSKIPシティ アワードとSKIPシティDシネマプロジェクトをW受賞。また、世界中で出会った体験からインスパイアされイベント制作会社を設立、ファッションブランドをはじめとする様々な企業イベントの企画、演出をしている。9万人が熱狂し大きな話題となった「ULTRA JAPAN」のクリエイティブディレクターも勤めたりとマルチな活動をしている。