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[朝鮮日報 「韓国の大企業、もはや「韓国企業」ではない] 

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 これも随分前の記事ですが知らない人のために掲載しました。
 
 
 
サムスンは日本企業!? 
韓国企業はすごいというステマ

”Samsung is grate " it is stealth marketing.
Major stock-holders are japanes and americans.

サムスン本

 テレビの報道、ネットの書き込みに至るまで、韓国企業の勢いがすごいとか、サムスンはすごいとか、そんな論調ばかりである。もう、日本企業はダメダメのような印象がバラまかれている。少し経済に詳しい人なら知っている。サムスン株の70%以上は韓国以外の外資が保有し、筆頭株主は日本の伊藤忠商事である。サムスンが利益を上げれば上げるほど、儲けが外国資本や日本企業に流れる仕組みになっているのだ。(現在の株主構成はヘッジファンドが1位?)

 
サムスン

韓国は破綻国家
South Korea economic meltdown

わかせ
1997年と2008年のウォン暴落(対ドル)

 1997年にはじまったアジア通貨危機で韓国は起亜自動車の倒産を皮切りに経済状態が悪化。韓国株式市場は1日で7%暴落し、国家デフォルト寸前にまで追い込まれた。韓国はIMFに援助を要請し、それに対しIMFは現代グループなどに対して財閥解体を行うとともに、韓国企業株式の外国人保有枠制限の撤廃などを受け入れさせた。
 韓国企業は国籍的にはとうの昔に死んでいるのである。

img_ownership_graph_03_02.gif
サムスンの株主構成(優先株)
img_ownership_graph_02_02.gif
サムスンの株主構成(普通株)
出典:
http://www.samsung.com/us/aboutsamsung/ir/corporategovernance/ownershipstructure/IR_OwnershipStructure.html

韓国人のものではない韓国企業
Korean companies are foreigner's companies.

 以来、国際金融資本は為替を意図的にウォン安に誘導し、サムスンなど輸出企業の競争力を高めた。結果、ウォン安を背景にサムスンやLGなどの企業は急速に海外シェアを伸ばした。
 しかし、韓国企業はもはや韓国企業ではないのである。利潤は株式配当として、日本や国際金融資本に流れているのである。国際金融資本にしてみれば、投資した企業の本社の所在地や従業員の国籍はどうでもいい。売り上げさえ、伸びればいいのだ。日本が負けようが、韓国が勝とうが、資本家にはどうでもいいのである。グローバルに見て、儲かる企業の株式を保有すればいいだけだ。

ギャラクシー

利益は国際金融資本へ
Foreigners get profit of Samusng.

 国際金融資本に国境はない。製造メーカーが国境を越えて工場を建設している以上に、銀行や欧米メジャー、日本の商社は国境を越えて資本を投下している。
 アジア通貨危機の経緯や国際資本関係を無視して、韓国企業がすごいすごいという幼稚なステルス・マーケティングは、現実を隠蔽した悪意あるプロパガンダである。

鳩山

2010年民主党政権は経済産業省に「韓国室」を新設した。以来、ソニーやパナソニック、シャープなど、日本の有力輸出企業は急速に世界シェアを失っていった。・・・・・・偶然だろうか?

 Democratic Party of Japan took power in 2010、Political opposition in Japan and japanese. They are doing politics in favor of Korea, made ​​a Korean room to the office of the government.Since then, companies such as Sony, Panasonic, Sharp will continue to decline.
 Politicians betrayal of one's own country are governing Jpan still now.


[朝鮮日報 「韓国の大企業、もはや「韓国企業」ではない]  外資比率と外資元 +サムスン電子の主要株主上位10社

207 :名無しさん@13周年 [sage] :2014/02/15(土) 17:29:46.23 ID:1T6pzIyM0 [PC]
【朝鮮日報】韓国の大企業、もはや「韓国企業」ではない
http://www.chosunonline.com/news/20100808000014
http://www.chosunonline.com/news/20100808000015

各企業が公表してる最新のIRでは、
サムスン – 外資比率60%
ポスコ – 58%
現代自動車 – 49%
LG – 50%
SKテレコム – 55%

さらに韓国の主要銀行はウリ銀行以外はすべて外資。
韓国の銀行は最大規模でも300億ドル前後と、日米英に比べて資金力が欠如しているために、外資比率がドンドン高まっている。
日本と比較しても、銀行の資金力は5~10倍程度差がある(英米と比較すると20倍程度の開き)
ポスコは新日鉄との提携強化を進めた結果、ボスコの筆頭株主は新日鉄に。

第一銀行 外資比率: 0.1%→100.0% 主要株主:スタンダード・チャータード(100%)
韓美銀行 外資比率:29.4%→99.90% 主要株主:シティグループ(99.91%)
KB金融 外資比率:41.2%→85.68% 主要株主:Bank of New York(15.21%)
韓国外韓銀行 外資比率: 2.7%→74.16% 主要株主:ローンスター(50.53%)
ハナ銀行 外資比率:21.3%→72.27% 主要株主:ゴールドマンサックス(9.34%)
新韓銀行 外資比率:23.4%→57.05% 主要株主:新韓フィナンシャルグループ(100%)
ウリ銀行 外資比率: 8.6%→11.10% 主要株主:ウリィフィナンシャルグループ(韓国預金保険公社)(77.97%)

ttp://www.scbri.jp/PDFgeppou/2006/2006-10.pdf


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351 :マスゴミ [qqpb2xg9] :2014/02/15(土) 18:09:03.56 ID:AtgyYneP0 (4/4) [PC]
●サムスン電子の主要株主上位10社
 investors.morningstar.com/ownership/shareholders-major.html?t=SSNLF
 American Funds EuroPacific Gr A:(米国資本ヘッジファンド)
 Vanguard Total Intl Stock Index Inv:(米国資本ヘッジファンド)
 American Funds Capital World G/I A:(米国資本ヘッジファンド)
 Thornburg International Value A:(米国資本ヘッジファンド)
 Vanguard Emerging Mkts Stock Idx:(米国資本ヘッジファンド)
 Lazard Emerging Markets Equity Instl:(米国資本ヘッジファンド)
 BlackRock Global Allocation Inv B:(米国資本ヘッジファンド)
 CREF Stock:(米国資本ヘッジファンド)
 American Funds Invmt Co of Amer A:(米国資本ヘッジファンド)
 American Funds Growth Fund of Amer A:(米国資本ヘッジファンド)
 米国ユダヤ系投資企業ばかりでしょ。これが韓国の財閥から利益を吸い取る。

日本が「旧満州国」で米を大増産した! 戦後の発展も日本人のおかげ・・・中国メディアが異例の称賛

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本当のことを伝えてくれてありがとう。
日本政府は自己PRが下手だから支那人からそういうことを広めてほしい。
共産党の妨害がないことを祈る。
 
 

日本が「旧満州国」で米を大増産した! 戦後の発展も日本人のおかげ・・・中国メディアが異例の称賛

2015-05-05 10:29

 浙江省寧波(ニンポー)市地元紙の「新僑報」は4月24日付で、「日本の米の食べ心地は、いつから世界第1位になったのか?」と題する記事を掲載した。同記事は旧満州における日本による米の大増産を高く評価した。特定の分野に限定していても、旧満州国における日本の貢献を中国メディアが手放しで称賛するのは異例だ。  記事はまず、日本の米が極めて美味しいことは、日本に行った中国人が例外なく認めると紹介。美味しさの理由としては、消費者ニーズに応じるために農業関係者が懸命に取り組んだ品種改良を挙げた。  さらに、種まき・田植えから収穫までの栽培時期と、収穫後の貯蔵や脱穀、さらにレベルの高い炊飯器の利用など、日本では消費者の口に入るまでのあらゆる段階において、米の味の維持について神経が使われているからと指摘した。  文章は続けて、中国でも「おいしい米の産地」とされる東北地方(黒龍江、吉林、遼寧の中国東北三省)について、「日本とどんな関係があるのか?」と問いかけた。  答えとしてまず、1930年代から(中国)東北地方には大量の日本人が移民したと紹介。続けて、「東北地方における米作りは日本人が主導することになった」、「日本は水利施設の建設や適した品種の導入を行行った。東北地方の米生産力は極めて大きく向上した」と説明した。  中国ではたとえ特定の分野に限ったとしてもメディアが旧満州における日本の「行状」を手放しで称賛することは珍しい。また「新僑報」掲載の記事は、中国で旧満州を指す時に決まって使う「偽満洲国」の語を用いなかった。  中華民国も、その後に成立した中華人民共和国も満州国を承認しておらず、「偽満洲国」の語には「正式な国家ではない」との政治的意味が込められている。同記事は「日本が占領した」とは表現したが、政治的色彩を持ち込むことを避けた可能性が高い。  記事は続けて、戦後の東北地方における日本人の貢献も紹介した。水稲栽培を専門とする日本人篤農家の藤原長作氏(1912-1998年)が黒龍江省・方正県で稲作の視察を行い、地理環境、気象条件、農業用水の状況から北海道における稲作が応用できると判断し、指導を始めたという(故郷の岩手県における米づくりのノウハウを応用したとの説もある)。  当時の方正県では栽培技術の遅れから、単位面積あたりの米の収穫量が極めて少なかった。藤原氏は収穫量を最終的には2.5倍にすると保障して、無償で指導を続けたという。  記事は、「方正県は実際に藤原長作先生の技術で、水稲栽培大県になった。『方正米』は現在では、有名ブランドだ。『北の大荒野』は『北の大穀倉』になった。重要な要因は藤原氏の伝えた栽培技術だ」と藤原氏の功績を高く評価した。(編集担当:如月隼人)(イメージ写真提供:123RF)
 
【中国ブログ】日本人の満州統治時代は「治安が最良だった時代」
2014-10-16 12:02
 中国人の多くは歴史問題などを理由に日本に対して複雑な感情を抱いているとされる。中国人ブロガーの梁宝民さんも自らのブログで「日本人に接触した経験はない」としながらも、中国人であればすべての人が日本人に対して「骨の髄まで」刻まれた「感情」があると綴っている。
 
 筆者は、明治維新以降に起きた日中間の争いの数々を挙げたうえで、「日本は恨むべき国であり、日本人は凶悪かつ残忍」という印象は大多数の中国人に共通するものとの見方を示した。
 一方で、60代の男性と見られる筆者は「父親の世代から聞いた話」として、日本人が満州国で軍事や警察を含む行政の多くの部分を担当していた時代では「中国社会の治安が歴史上でもっとも良かった時代」と主張。中国では抗日ドラマや伝承の影響で、「バカ野郎」という日本語が「罵る言葉」であることを知っている中国人は多いが、筆者は「日本の統治時代ではバカ野郎という言葉は別に中国人だけを罵る言葉ではなかった」と紹介、子どもたちも普通に使っていた言葉だったらしいと紹介した。
 また、当時の学校は日本人の子どもも中国人の子どもも分け隔てなく教育を受けていたとし、日本人の子どもと中国人の子どもが喧嘩をしても抗日などといった政治問題に発展することもなかったらしいと紹介した。
 さらに筆者の父親は当時、満州で学校に通っていたと紹介する一方で、「日本人の教師たちは真面目で辛抱強く人に教えるという、まさに“教師の鏡”と言える人びとだったらしい」と綴った。
 続けて筆者は、中国で改革開放が行われるとさまざまな理由で日本を訪れる中国人が増えたとしながらも、「日本人と接触した中国人のうち、日本に対して悪い印象を持ったという人はほとんどいない」と指摘し、日本人を含め、世界の大多数の人びとは「善良な存在なのではないか」と主張。
 日本人に対して「骨の髄まで」刻まれた複雑な感情があると主張し、日本人とは直接の接触はないと綴った筆者だが、日本人に対しての複雑な感情が変化しつつある様子が伺えた。(編集担当:畠山栄)(イメージ写真提供:123RF)
 

抗日ドラマに中国でも批判炸裂・・・まさかのセリフ「オレのじいさんは、9歳にして日本人に殺された」

2015-03-28 21:01

 中国でネットユーザーが自国で放送されてきた「抗日テレビドラマ」の中でも選り抜きの「トンデモ・シーン」の画像を発表した。真っ先に“槍玉”に上げられたのは「オレのじいさんは、9歳にして日本人に殺された」とのセリフだ。(写真は中国の大手ポータルサイト「新浪網」における“問題シーン”紹介頁のキャプチャー)
中国で数多く制作され、放送している「抗日テレビドラマ」。以前から「史実とことなる」、「ありえない設定」との批判があった。最近になり、ネットユーザーが選り抜きの「トンデモ・シーン」の画像を発表。同投稿はたちまち広がった。真っ先に“槍玉”に上げられたのは「オレのじいさんは、9歳にして日本人に殺された」とのセリフだ。  登場人物の男性は暗い表情をしている。後ろから若い女性が抱きついている。2人の感情を示すのだろうか。男性は「オレのじいさんは、9歳にして日本人に残虐に殺された。オレは日本兵を恨む」とつぶやいた。  「祖父は幼少時に殺された」の“迷文句”に、「アンタのジイさんは強すぎる。生物学の先生が見たら、血を吐くぞ」との突っ込みが寄せられた。  その他、共産党軍部隊が集結し、指揮官らしき人物が「同志たちよ。8年間の抗日戦が始まるぞ!」と発言する場面も紹介。同様のものとしては、指揮官が部下に向って「同志たちよ。抗日戦も7年目に入った。最後の1年だ。あきらめるな!」と諭すシーンも発表された。  中国では1937年の盧溝橋事件から日本の敗戦にいたる日中の戦争を「(中日)抗日戦争」または「八年抗戦」と呼ぶことが多い。歴史の授業でも「みっちり」と学ぶことが求められる。8年間の戦いで勝利したとの「国民的常識」にもとづき、脚本を書いてしまった。  さらに、指揮官らしき人物が「800里から撃てば、鬼子(日本兵のこと)の機関銃射撃手をやっつけられる」と話すシーンもある。現代の中国で「里」は0.5キロメートルを意味する。投稿者は同シーンには地図を添えて、北京から内モンゴル自治区のフフホトまでの距離が約435キロメートルと紹介した。  投稿者は、共産軍の上官が「各人が爆薬150キログラムを携行せよ」と指示しているシーンなども紹介した。  抗日ドラマがあまりにも「粗製」として、中国のネット民から「犬のクソだ」などのコメントが寄せられた。「爆薬150キログラム」については、中国では当時の共産党軍が「食べ物も満足になく、暖を取ることもできない苦しい状況で戦い抜いた」と宣伝されていることから、「どれだけ強いんだ」との“ツッコミ”も寄せられた。  「抗日ドラマはあまりにも当てにならないが、少なくとも某国の歴史の教科書よりましだね。(抗日ドラマは)笑ってすますことができる。(教科書で)子どもにウソを学ばせないでほしい」とのコメントもある。  「某国」とぼかしたが、台湾で出版された近現代史の書物が中国大陸部で発行された際に、国民党の抗日ゲリラ部隊が活躍する部分が削除されたとの指摘もある。「某国」は自国を指す可能性が高い。 ********** ◆解説◆  中国でも脚本家が締め切りに追われる「ぎりぎりの状態」で仕事をしていることは、容易に想像ができる。「祖父が9歳にして日本人に殺された」とうっかり書いてしまうことも、理解できないわけではない。しかし、それをだれもチェックせず、撮影・放送にまで進んでしまうとは、なんとも不可解だ。  上記のような「考えられない」内容以外にも、抗日ドラマは「史実と異なる」と指摘されることが珍しくない。多くの場合、ドラマを盛り上げようとするあまりの誇張だ。通常のドラマなら「事実とは関係のないフィクションです」と断ることもできるが、抗日ドラマの場合には建前上、「フィクション」とは言えない事情もあるようだ。(編集担当:如月隼人)(写真は中国の大手ポータルサイト「新浪網」における“問題シーン”紹介頁のキャプチャー)
 

「抗日ドラマは大嫌いだ」と中国軍元兵士・・・日本軍と戦った証言者!=中国メディア

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前ブログの続きです。
 

「抗日ドラマは大嫌いだ」と中国軍元兵士・・・日本軍と戦った証言者!=中国メディア

2015-04-08 16:59

浙江省の有力紙「今日早報」は7日、「抗日戦の老兵を取材。最も嫌いなのは抗日“神劇”」と題する記事を掲載した。抗日戦を戦った89-93歳の元兵士の証言として、当時の戦いがいかに苦しかったかを紹介し、彼らは安直に作られる「抗日ドラマ」に強い反感を持っていると伝えた。(写真は7日付「今日早報」の同論説掲載面から)  【続きを読む】
 
浙江省の有力紙「今日早報」は7日、「抗日戦の老兵を取材。最も嫌いなのは抗日“神劇”」と題する記事を掲載した。抗日戦を戦った89-93歳の元兵士の証言として、当時の戦いがいかに苦しかったかを紹介し、彼らは安直に作られる「抗日ドラマ」に強い反感を持っていると伝えた。  取材を受けたのは、共産党系で旧満州などで日本軍や満洲軍と戦った東北抗日聯軍の元兵士の黄開仁さん(93歳)、国民党兵士として四川省方面で戦った川軍元兵士の盧彩文さん(90歳)、国民党が英軍支援にためにビルマに派遣した中国遠征軍元兵士の李文仲さん(90歳)、共産党軍である八路軍元兵士の張殿国さん(89歳)らだ。  元兵士らは、日本軍を急襲して「鮮やかに勝利」したこともあったが、戦いは全体として極めて苦しかったと証言。まず中国軍の装備は日本軍よりも劣っていた。八路軍の装備はさらに劣っていた「多くの兵は銃も持っていなかった。日本軍から奪うしかなかった。奪った銃が使えないこともあった。弾丸が手に入らなかったからだ」という状況だったという。  食べ物にも困った。特に冬だ。東北抗日聯軍に参加した黄さんによると、ゆでても硬いトウモロコシや、雑穀を皮ごと食べたりした。木の枝の下で寝るしかなく、10人のうち8、9人が凍傷を患った。けがや病気で死んだ将兵の方が、戦死した者より多かったという。  中国のテレビ局は、いわゆる「抗日ドラマ」を放送しつづけている。抗日ドラマには「国民に苦しい歴史を思い出させ、共産党を中心とする結束を固める」との目的が明確だった。  しかしテレビ局は次第に「広告収入獲得のため、視聴率重視」の傾向を強めた。「抗日ドラマ」でも、思想的背景や歴史的事実への忠実さよりも「視聴率が取れなければ、よい番組ではない」との考えが強まった。その結果、史実や現実性を無視しても「中国人が日本兵を痛快にやっつける」といった娯楽性本位のドラマが増えた。「愛国抗日」でありさえすれば、かなり荒唐無稽な内容でも当局が「待った」をかけにくいとの局側の“読み”もあったとされる。中国ではこの種のドラマがしばしば「抗日神劇」と呼ばれている。  記事によると、元兵士らは「最も嫌いなのは抗日“神劇”」と述べたという。 ********** ◆解説◆  上記記事には不自然な面もある。元兵士による「過酷な従軍生活」についての証言は発言者名を明記しているのに、「最も嫌いなのは抗日“神劇”」との発言には明確な主語がないことだ。  “神劇”批判は見出しにもあり、同論説の主要な主張と考えられる。「真実の戦争体験」を持つ元兵士が、安直に制作される「抗日神劇」を毛嫌いすることは不自然ではないが、上記論説は「結論ありきの取材記事」だった可能性がある。  ただしその場合、上記論説は「抗日神劇」に批判的である、当局上層部の意向を反映したものと、読み取ることができる。(編集担当:如月隼人)(写真は7日付「今日早報」の同論説掲載面から)

中国人は日本人が嫌いなのに、なぜ日本に旅行にくるの?

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最近のサーチナは支那と日本の架橋を目指しているような記事多い。
 
 

中国人は日本人が嫌いなのに、なぜ日本に旅行にくるの?

2015-05-02 11:32

 最近中国人旅行者の増加が話題になっています。中には「あれほど反日を叫び、日本人は嫌いなはずなのに、どうして日本に来るのだろう?」と思う方もいるかもしれません。今日はそんな彼らの心理を少し紹介したいと思います。ただ、あくまでも「福建省福州付近では」という前提ですのでご了承下さい。 ■そもそも本当に日本嫌い?  何事もそうですが、まずは原点に立ち返ってみるべきでしょう。中国人は本当に日本人嫌いなのでしょうか?  私が中国に住んで丸3年、個人の経験から言うと全くそんなことはありません。むしろ日本に対する尊敬や憧れの気持ちが強いように感じます。  特にここ福建は昔から出稼ぎで日本に行く人などで接点が多かったこともあり、皆日本に対して好意的です。私が日本人だとわかると「日本は環境が綺麗なんでしょう?」とか「日本人はこんなにゴミをポイポイ捨てないんだよね」とか言ってくれます。少なくとも私のいる場所では「日本嫌い」という雰囲気は全くありません。 ■日本に対する印象は?  そのようなわけで、彼らは日本に対して「マナーがある」、「親切で優しい」、「文化的な国」などなどとてもよいイメージを持っています。機会があれば(むしろ機会を作って)是非行きたい、と思っています。そんな彼らが観光で、買い物で、出稼ぎで、日本にやって来るのは自然な流れなのです。 ■なぜ「中国人は日本嫌い」のイメージが?  これは私見ですが、メディアによる影響が大きいのではないかと思います。  何か問題が起こるとそれが大きく取り上げられ、やがて実は一部にしか過ぎないその問題が、あたかもそれが全てであるかのように一人歩きを始めます。  両国間に問題が山積しているのは事実ですし、色々言う人たちがいるのも事実です。でも実際知り合ってみるとどの人も本当にいい人たちで、知り合うほどに好きになります。  巷に氾濫する情報に惑わされず、まずは自分の目で見て、触れてみて下さい。大半の中国の人は、きちんと物を見、人の良いところをきちんと見分けることのできる人たちです。だからこそ彼らは一番身近な隣国・日本へやってくるのです。(執筆者:高山 翔 提供:中国ビジネスヘッドライン)

号令なしには食事もできない日本人? 怪談・京都の中国人への反論に答えて

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これも興味深かったので転載しました。
 
 
 
号令なしには食事もできない日本人? 怪談・京都の中国人への反論に答えて


副題:「旅の恥をかき捨てさせないノウハウを習得しよう」

 全国二千万中国ビジネスヘッドライン愛読者の皆様、中国語講座「チンプンカンプン」のドラゴンならちゃんです。今日もたのしく、あなたの隣にやってきた中国人の取扱説明書を学んでいきましょう。

前略
 「京都の中国人」というコラムについて。読後、正直イラっとしました。うまく言えないけれど問題をはぐらかされた気分です。私はときどき外国人(おそらく中国人)が道いっぱいにひろがって、お年寄りや車いすが困っているのを何度も目撃しました。

 私たちはマナーの悪い中国人観光客に文句も言えないんですか? 先日もスマホの発売に合わせて買占めとか行列割り込みなどで批判がでてましたね。

 世の中「みんながルールを守って」成り立っているのに、勝手にルール違反ばかりする連中とは少なくとも私はつき合えません! (街中で)こんどそんな場面を見かけたら思い切り文句言ってやるつもりです。観光立国とか「おもてなし」とか言ってることは理解もしますけど、私としては「エチケットもない、ルールを守らない」人たちに自分の国や地域にいてほしくありません。ちなみにわたしはへ○ト・スピーチの人たちには絶対反対の立場です。

PS チンプンカンプンのコラムは喜んで読みに行っているのではなく、勝手にメルマガ仕立てで送られてくるからしょうがなく読んでいるだけですので誤解なきように。ルール無視しちゃだめよダメダメ子 看護師 36歳

 はい、まずはコラムをお読みくださってありがとうございます。ではドラゴンならが「釈明」申し上げます。我々の常識って、世界(TPOが変わる)ではときどき通用しないものだと、ドラゴンならは思っています。というわけでいきなり脱線しますけれどお許しくださいませ。

 むかしむかし、ある団体ツアー(総勢300名ほど)に参加してハワイに行った時のことです。観光バスで名所をまわりながらお昼時分になりました。1000人以上が食事できるツアー客専用のツァンテイーン(食堂)に連れて行かれたと思ってください。

 会場のテーブルの上にはすでにお皿やフォークナイフが並んでいます。そこに「人間が流し込まれるように」着席していくスタイルでした。すでに各国のツアー客が食事をしています。食べ終わった連中はめいめいに立ち上がってショッピングセンターやトイレに向かう、そんな光景が繰り広げられています。

 さて、「わがニッポンの一団」は?

 全員そろって食事が目の前に並んでいるのに誰も食べださないではありませんか!

 そのまま五分くらいたったころ、ツアコンが血相変えて走ってきて「早く食べないとバスが出てしまう!」と叫ぶに至ってみなあわてて食べだしたのでした。

 つまり我が国では家族なり会社なり団体が一堂に会してメシにする場合、家長や幹事なりリーダーなりが「いただきます!」またはカンパイの発声するまでは箸をつけない水も飲まないのがジョーシキ(美徳)です。しかし条件(TOP)によっては例外もある、ということですね。

 話題を戻します。

 中国系インバウンダーの「マナー問題」がときどき物議を醸しています。吾輩も、街中で「あまり感心しない行為」を見かける場合があります。そんなとき、声をかけます。

「にいはお。それ、まずいからやめなさい」

 こんな感じですね。問題がなくても声をかけます。観光客とおぼしき人たちが駅の路線図の前で立ち止まっていたりしたらよほどいそぎの場合でない限り「どこ行くの? なんか手伝いましょか?」とか。

 実は、この「声掛け」→私はあなたに関心を払っていますよ、というメッセージはとても大事なことだと思います。

 ハナシはまたまた脱線します。

 むかしむかし。中国の海南島三亜市でこんな事件がありました。ある日本人が「国家機密略取」容疑で拘束されたのです。すなわち、当地で、ある日本人が蝶を捕獲していたところ国家安全局に拘束されてしまった大事件でした。(雲南省と海南島はこの種の環境破壊は国家事犯扱いになるとのこと。のちに判明したのですが当局しらべで1000匹も証拠物件がホテルの部屋でみつかったそうです。一般に日本人がらみの「犯罪」は買春とか酔って騒いだ程度で、民警に「小遣いわたして」釈放されるのがオチですけれど国家犯罪となるとそうはいかない。)このオッサン結局日本円で三百万円ほど罰金だかワイロだか支払って放逐されたそうですけど

 このとき、当事者が供述したことばが「街中で蝶を捕獲した。警官とも何回も遭遇したが誰にもなにも言われなかった」でした。

「なにも言われなかったから、やった」

 逆に言えば「誰かが声掛けたら、事態は変わる可能性があった」ということかもしれませんね

 我が国は「おもてなし」とか声だかに言う割には、生活する外国の友人たちは「冷たい関係性の薄い」国民だと感じている場合が多いようです。ぜひ、地域の秩序や環境に関心の高いあなたから「自然でタイムリーな声掛け」を始めてみていただきたいと思います

PS「語学ができない」、なんてなにも関係ないハナシです。日本語で十分。あいてはあなたの声色からなにがいいたいか? 十分察知してくれますからご心配なく。以上。(執筆者:楢崎 宣夫)

「どこに行っても観光客だらけ」を皮肉る中国国内のブログ記事。この勢いで我が国も中国人観光客がやってきているのです。
「どこに行っても観光客だらけ」を皮肉る中国国内のブログ記事。この勢いで我が国も中国人観光客がやってきているのです。

中国人「反日」の実相-かれらの「日本観」はいかなるものか

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転載記事です。
 
中国人「反日」の実相-かれらの「日本観」はいかなるものか


日中は関係悪化で双方とも傷を負った


  国際ビジネスにおいて、相手国での「日本」イメージが良いに越したことはありません。残念ながら、日本のビジネスパーソンは過去も現在も中国で、たとえば欧米人たちよりはずっと微妙な心遣いをせざるを得ない状況に置かれています。

  隣国同士というのはそもそもそういうものだという言い方も、ある意味できるでしょう。遠ければ、大体喧嘩にはなりません。

  しかし、日中両国はGDPで世界第二位と第三位の大国でありますから、その影響たるや、たちまち世界規模のものとなります。中国の台頭に呼応し、その成長力を自社の利益に取り込もうと手を打ってきた幾多の日本企業が冷や水を浴びせられました。

  一方、中国も、周辺諸国との緊張関係を増大させ、その後は日本政府の囲い込み外交にも遭い、かなりの外交的失策を犯しました。要するに、二国間関係の悪化で双方倶(とも)に傷を負ったのであります。


「反日デモは”ガス抜き”論」に感じる疑問


  今日は、一つの見方に疑問を呈するところから、始めたいと思います。

  昨年秋、いわゆる「反日デモ」が中国各地-特に激しかったのは西安、蘇州、長沙など-で燃え盛りました。そのころ日本のチャイナ・ウォッチャーの一部に、中国国内にはそもそも収入格差や経済腐敗といった、すぐさま大火事になるほど沸々と煮えたぎった「政府への不満」が溜まっているので、そうした大衆(=無知蒙昧な大衆)の怒りの矛先(ほこさき)を変える、いわば、”ガス抜き”を効果的におこなうために「反日」が利用されたと主張する人々がいました。

  江沢民政権の頃から、たしかに「反日」(=愛国主義運動)は、意図的に唱導されてきました。加えて「大衆動員」というのは、1949年の「建国」以来、ずっと使われ続けた政治手法ですから、為政者側にそのような考え方があっても不思議はありません。ただ、わたしは”ガス抜き”説を聞いた時、何かしらスッキリしない感じを抱いたのです。

  わたしが先に触れた「専門家の見方」に違和感を覚えたのは、「中国の大衆」=「操作される人びと」=「無知蒙昧な人びと」とでもいうべき、相手への「非常に極端な単純化」が其処にあると感じたからでした。

  果たして「中国の大衆」というのは、日本の一部のチャイナ・ウォッチャーや中国の一部エリートが言うように、”いまも変わらず”阿Q的な暗愚の集団であって、何千回も何万回も繰り返し放映されてきた「反日ドラマ」にいまだに洗脳され続けるほど「お目出度い単細胞」なのでしょうか。

  だいたい、口先滑らかに「中国の大衆」の資質を語るそうした人びとは、実際に「中国大衆」と、どれだけ膝を詰めて語り合ったことがあるのでしょうか。


”サムライブルー”に対する好意的関心「称賛」「羨望」


  話を、ガラリと変えます。

  サッカーのコンフェデレーションズカップ(2013)では、白熱したゲームを楽しむことができました。早起きが苦手なわたしも、眠い目をこすり、日本代表の試合だけは欠かさず観ておりました。

  中国が強い球技といえばなんといっても「卓球」ですが、彼らが心底好きなのは圧倒的に「サッカー」です。キオスクに寄れば、常に3~4種類のサッカー専門タブロイド紙が置いてあるほどで、つまりそこまで好きだからこそ、でありましょう。

  このところ低迷を続ける「国足(中国男子サッカーナショナルチーム)」の体たらくを嘆く声が巷に溢れております-先日、タイとの親善試合で1-5の大敗を喫したときには、「今日が国恥日」などという過激な言い方までされておりました-。

  その中国で、実は”藍色武士(サムライブルー=日本男子サッカーナショナルチーム)”に対する好意的関心-あるいは「称賛」「羨望」と言うべきかもしれません-が、実は非常に高いのです。

  ちょっと、例を挙げてみましょう。

  6月20日付で新浪網にUPされた記事に《日本人把意大利人打服了!徳羅西:難以置信他們太強了(日本人、イタリア人を心服させる!デ・ロッシ:信じられないくらい彼らは強かった)》があります。

  結局は負けたわけで、日本人としてはかなりコソバ痒いところもあるのですが、この記事は大きな反響を呼び、翌21日正午までに29万本以上のコメントが寄せられたのでした。

  たとえば江蘇省常州市在住の”Winterfell磊”さん。
「サッカーだけではない。日本は多くの領域で尊敬に値し、学ぶべき対象だ。ネットで日本を罵る愚かな若者たちを前にして、なんともやり切れない気持ちになる。どの面においても自分たちより優れた相手を、いったいどの面(つら)下げて罵るのだ?武力で問題を解決する時代などとうの昔に過ぎた。国民一人ひとりが尊敬を受け、その商品が認められ、敵がわれわれに心服する。これこそが真の強大さの証だ」

  次に、北京市在住の”Liberty-REAL”さん。
「日本という国には、骨の髄まで一種の負けじ魂が宿っている。第二次大戦ではアメリカとさえ戦った。ファシズムの邪悪さはともかく、日本民族は中国人よりも団結心に富んでいる」

  最後は江蘇省徐州市在住の”jsfxlt555″さん。
「日本は好きではない。しかし日本チームは確かに尊敬を受けるに値する!」

  このほかにも、総じて日本人の真面目さ、計画性、あるいは社会制度や教育制度といった諸点について、実に多くの「称賛」が寄せられておりました-中国人が称賛するこうした「美点」が、いまの日本でどれほど健在なのかは、この際、置いておきましょう-。




サッカーで見える”中国人のホンネ” 「反日」でも「侮日」ではない


  中国語で「凡事都有利有弊(あらゆる事象に利と弊が並存する)」、と申します。真面目さが硬直性に陥ることがあるでしょうし、計画性に富むという点は、一旦物事が計画通りに進まなくなった場合の順応性はどうなのかということにも繋がります。(学校秀才だけで戦うチームを作るのは難しく、しかも非常に危険であると、わたしは考えております)

  ただ、いまここで取り上げているのはそういう次元の問題ではなく、もっと表層的なことがらです。表層的なことがらであるだけに、かえって社会の空気や固定観念を醸成し易いという問題について話をしております。

  日本イタリア戦に関する掲示板を読んで、大変面白かったのは、其処で中国のみなさんが挙げていた「日本代表の強さ」であるとか「日本サッカーの良さ」というのが、しばしば中国人が「日本人(ないし日本)」を思い浮かべるときの代表的な「美点」として挙げられるものとほぼ重なっていた、ということでした。

  プレスがどうだ、ディフェンスがどうだ、などという「技術論」、いや、もっと言えば、”サッカーとしてどうか”よりも、”日本人はなぜ優れているのか”、あるいは”日本はどうして(自国より)優れているのか”を慨嘆する風に綴ったものが大変多かったのです。

  ある国の人びとが他国、特に隣国のことを思い浮かべるとき、大抵一定のステレオタイプ(=紋切り型に一つの類型に当て嵌めて対象を観る態度)に依ることが多いと思います。北東アジアの国々は多かれ少なかれ欧米への劣等意識を持っていますから、欧米には負けても、隣国には負けたくないという屈折した心理状態をただでさえ持ちがちです。

  ところが、中国人は、ことサッカーに関しては比較的「ホンネ」をさらけ出します。また、これまた面白いのは、中国人は、日本と同じように(アジアでは)サッカー強国の韓国に対して、わたしの知るかぎり、日本サッカーに対するような「畏敬」とも「畏怖」ともつかぬほど高い「称賛」を与えたことがないのです。

  これは非常に特徴的な現象であって、韓国チームが日本チームを試合で負かした時でさえ、あれは”韓国のやり口が汚かったからである”とか、”実力は日本の方が上であったが”といった評価が大勢を占めるのであります。

  わたしの直観に過ぎないかもしれません。ただ、思い返してみても、これはわが親愛なる中国の友人諸兄との長く深い付き合いからも総括できるのですが、彼らはこれまで「反日」であったとしても、けっして「侮日」ではなかったのであります。(これに比すれば、彼らは「反韓」にまで至らずとも、多分に「侮韓」なのでありましょう)


「日本人」は自分達にないある資質を備えている民族


  中国人は日本人のことをどう思っているのか?この、これまで何百回も訊かれたことに対して、「ビジネス」という側面からの、わたしの回答を申し上げましょう。

  中国人は、「日本人」を、自分たちが大いに欠いている或る資質を備えている民族であるとみています。信じがたいほどの規律、緻密な計画性、愚直なまでの生真面目さと弛まぬ研究心により、大言壮語せず-大言壮語する場合には既に一定の実現計画を持っている-、ヒタヒタと、目標に向かい、学習を積み重ね、一致団結した組織の力で歩みをすすめる恐るべき民族であるとみています。

  同時に、集団、組織としての凝集力が或る方向に結束(ファッショ)されてしまった場合、下手をすれば、嘗てのごとく自他に大きな破滅をもたらすほどの暴力主体が立ち現れるかもしれないと、かれらはいまでも心の何処かで畏れています。

  あらゆることに、プラスとマイナスの両面があります。

  中国人の「日本人観」についても、まったく同様に然り、であります。単純に「中国人は反日であるから」などとビジネスパーソンは間違っても言うべきでありません。そうした言い方は自らの浅薄な世界観を暴露するだけで、思考の幼稚性を告白するようなものでもあるし、第一、中国という大市場を傍らに置く国の人間として、計り知れない機会損失を招来する姿勢に繋がりかねないからです。

  中国人は、日本(日本人)のことを-国際政治や外交はさておき-非常に高く評価しています。認めている、のです。これは、表玄関から入って中国の国有企業や事業機関と付き合ってきたわたしが実体験から確信を持って言える事実です。だからこそ畏れ、しかし”メイド・イン・ジャパン”にはいまでも信頼を置いているのです。

  こうした彼らの実像、ホンネをしっかりと理解してはじめて、中国市場-ローカル企業や消費者-に対し、いかに向き合うべきか、つまり現地法人はどうつくるべきか、人事管理をどうすべきか、営業ユニットはどう組織すべきかといった一つ一つの具体的施策に一本揺るがぬ筋(スジ=判断基準)が入ってくるのです。

  しかも”中国”は決して、”中華人民共和国”だけにとどまるものではありません。世界に広がる華人経済ネットワークを無視し、”中国がダメならその他アジア”などと行く筈がありません。話題性やアジテーションを狙い、本来複雑な相をもつ国際関係や国際ビジネスを故意か無知かで”単純化”するインチキ専門家に惑わされず、どうか世界に真の友人をお求めください。それこそが、政治の荒波に負けぬ巌(いわお)の城を形造ることでしょう。

爆買いの陰でジワリと広がる「外国人お断り」問題を考える

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 中国人お断りするにしても熱烈歓迎するにしても、もっとも威力を発揮する武器(ツール)は中国語である。
 
 
 
 
爆買いの陰でジワリと広がる「外国人お断り」問題を考える

 

副題:チンタオのチーママに学ぶ、「いやな客」断り方

 全国二千万中国ビジネスヘッドライン愛読者の皆様ご機嫌いかがでしょう? 今日も楽しくインバウンダービジネスを学びましょう。

 最近、ある「事件」が銀座の鮨屋(ミシェラン2つ星)で発生した。

差別? 予約拒否された外国人が憤るミシュラン寿司店の対応(日刊ゲンダイ)
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/159356
 在日三十年の中国籍作家の莫邦富(モー・バンフ)氏が自身の名前で当該鮓店に予約を入れたところ、店側は言を左右して結局モー氏の予約を認めなかった。「怒り心頭」のモー氏はその経緯をSNSに露出。やがてモー氏の抗議は夕刊紙に取り上げられ件(くだん)の鮓店は「予約拒否の存念」の取材まで受ける羽目に陥った。つまり炎上したのである。


「外国人お断り」(とくに中国観光客)問題を考える




 本件、賢明なる読者各位にとっても、本音の部分では意見の分かれるところであろう。

 しかし、今回きわめてはっきりした事実がある。この鮓店の対応は極めて「日本的愚かしさ」を演じてしまった、ということだ。おそらくこのブランドイメージの損失回復には年内いっぱいかかってしまうほどである。

 実は最近、同様のご相談が私達観光立国協会に立て続けに、舞い込んで来ているのである。

 いわく
「外国人の客(特に中国人)はゼッタイ来てほしくないんです」
 羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く、というけれどそれだけ外国人(就中、中国人観光客)との想定外トラブルも増えているのだろう。

 みなさん考えてみてください。

 「うちの講座とかセミナー」は中国人観光客を呼び込んで売上三割アップを目指すために開催しているのである。こんな講師のところに「外国人おことわり」について相談しにくる人間の神経が最初は理解できずにいたものだ。

 しかし、それなりに経験を積んだ今は「ほかに相談に行くところがない」ビミョーな問題という認識から門前払いをせずに相談に乗らせていただいている次第である。(註:喜んでやってるわけでないのでご注意いただきたい)

 相談依頼者の趣旨は
(1) 外国人客が、予約したのに来ない。
(2) 飲食の態度が乱暴でお店の雰囲気を壊す。
(3) 言葉が通じないと面倒」
 とほぼ共通している、と感じられる。

 しかし 実際のところ「正面切って」お店がお客を断れるのか?

 さきほどの銀座のミシュラン星の鮨屋も実のところ非常に「むずかしい」問題に発展してしまっていきそうな雲行きだ。

 やがて経営者が謝罪会見をする羽目になるのではないだろうか? そしてその結果、同じような考えの店舗はますます「かたくなになって」本音を言わずに外国人に対して門戸を閉ざし続けるのだろう。その結果我が国はますます外国人観光客には不透明で奥歯に挟まったような不快な対応しかできないお店が増えていくことになるのだろう。

 吾輩は本音の部分「外国人おことわり」の店があっても「OK」と思っているヤツである

 問題はいかにスマートにさりげなくふるまえるか? ではなかろうか?


外国人お断りのケーススタディ


 というわけで今回は「日々、中国人韓国人お断り」問題に直面しているケーススタディをご紹介してみたい。

 場所は中国山東省チンタオ市。当地で営業する日式バー「深海魚(仮称)」をのぞいてみよう。


≪チーママ(左)は三割打者のように日々受け入れていいお客を狙っているのだった≫

 まずはタラ子(これも仮称)チーママに登場いただこう。今年32歳(チーママ歴5年)の彼女は「本件」をどのようにオペレートしているのだろう?

 先にチンタオとこの街の日式バーの活動環境を概観しておこう。

 山東省チンタオ市は人口800万の準一級都市。チンタオビールで有名なこの街は元々ドイツ植民地(日に日本領)として開発された風光明媚な観光先進地域である。日本人居留者は最盛期8000人(当地日本人会資料)を数えたもののこの数年日系企業の退潮が止まらず、たら子チーママの店でも常連客(日本人駐在・出張者)の減少に直面することになった。

 従来は日本人御用達ということで中国人の一見客は追い返せばよかった(すみません、ウチは会員制とか、今予約で満席なの、とか口実を使う⇒初級コース)のだがこの2年ほどはいやでも応でも中国人客を呼び込まざるを得ない、とのこと。

 ここで課題になるのが日本人常連客との「兼ね合い」である。

 以下はたら子チーママ本人に語っていただこう。
「日本のお客さんは基本おとなしくて静かだから。中国人が、隣の席で大声ではしゃぎだしたら気分害して帰っちゃう。そしてもう二度とこの店に来てくれなくなるわ。

フロアーが一階二階と分けられるお店だったら日本人用、中国人用という住わけも可能。でもこの店狭いからこの手は使えないわね。だから、その代わりにワタシがいるのよ。

え? お客をビョーサツ(秒殺)値踏みして、スジの悪そうなのは予約満席です、って追い返す? そんなことしたら儲からないじゃない。おカネはお客がもってくるのよ。そのお客断ってどうすんの? だいたいスジの悪い客ってどんな客の事いってるの?
(1) おさわり目的⇒アタシが割ってはいって女の子を守ればいいじゃない。

(2) シブチン客⇒ビール一本しか頼まないお客さんにはホステス三人くらいつけておねだりさせるのよ。

(3) うるさい客⇒これも私が中にはいって静かな話のムードにリードしていくのよ。
 これでお店のペースは確保できるわけ。こんな仕切り方が気に入らないお客はもう次からここには来ないけど、それはしかたないわね。」

 お店を運営する立場のみなさん参考になっただろうか?

 要はお店のマネジメント力次第なのである。

 売上三割増をめざす中国語講座チンプンカンプンの立場で言えば、たら子チーママ並みの交渉力は、語学力(コミュニケーション能力の裏付けがあって可能になっていることを申し添えたいところである。
≪まとめ≫
1. インバウンダーが街にあふれだして、外国人観光客(実質的に中国人観光客)を受け入れたくないお店がジワリと顕在化してきている。

2. 「正面きって」外国人お断りを言明すればそのお店は確実に社会的糾弾が待っている。そして姑息な釈明をすればするほど店側にはいいことは何もないということを事実として受け入れよう。店側が「お店のテイストや常連客を守りたい」という理屈は外国人お断の理由として対外的に口外するべきはない。

3. しかし「予約満席または会員制」でお断り、はときに発生するケースであり断られた側も受け入れやすい。

4. 「想定外のお客」が来てしまったときにこそ女将・マネジャーの力量が問われる事態であり存在意義をアピール出来る絶好の機会と考えよう。

5. 中国人お断りするにしても熱烈歓迎するにしても、もっとも威力を発揮する武器(ツール)は中国語である。

 以上(執筆者:楢崎 宣夫)

「日本が中国を急襲したら核使用も」…荒唐無稽な想定にあきれ返る日本ネット!

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 支那共産党の偏向反日教育で反日妄想に耽る支那の一部の(そう思いたい)若者たち。この若者は多分解放軍の兵士で強力な反日洗脳教育を受けたのではないか。
 日本のような自由な言論、情報が得られる状況とは全く違う意の中のカワズ状態での妄想。
 妄想で済むうちは良いがいずれ実行しないとも限らない。
非常に困ったものだ。 
 日本の若者とじっくりと対談するとか、もっと日本を知ってほしい。
 
 
 
 
 
 
日本が中国を急襲したら中国はどう抵抗するか。こんな物騒な事態を想定したスレッドがこのほど、中国の掲示板サイトに立った。中国のネットユーザーが反撃に「核使用」も辞さないコメントを寄せたのに対し、日本のネットユーザーは、あまりにも荒唐無稽な想定にあきれ返っている。

 スレ主が「中国軍はまず東北地方、華北地方から全面撤退し、ゲリラ戦で日本軍の進撃を食い止める。中国軍を南へ後退させてから地形を利用して日本軍と戦う。中国の人口、資源をもってすれば、日本に勝てると思う」と主張すると、中国のネットユーザーは

「90年前にその方法を使ったことがあるんですけど」

「スレ主は恥知らずだな。蒋介石がとった戦法そのままじゃないか」
 
「どうやらスレ主は1937年からタイムスリップしてきたようだ」 などと批判。 

 さらに中国政府が「いつ、いかなる状況下にあっても非核保有国あるいは非核地帯に対し核兵器を使用しない」と言明しているにもかかわらず

「中国は40分で日本を消滅させられる。試しにやってみたらいい」 

「10分あれば日本を滅ぼせる」 

「5分間抵抗した後には日本という国が無くなっている」 

「そうだな、2時間と4分は抵抗できるかな。2時間ほど大笑いしてから、4分で日本を石器時代に戻せる」 

「いや、直接東京にミサイルを撃ち込めばいいだろ」 

「スレ主は中国の反撃に日本がどれほど耐えられるかと質問すべき」 

「スレ主の考えには大きな問題がある。現有の軍事力からして撤退などあり得るか?ただ日本を消滅させるだけだよ」 など、核攻撃をも念頭にした強硬論が相次いだ。 

 中には、より明確に「俺としては日本にぜひとも急襲してもらいたい。ひきょうであればあるほどいいね。そうすれば核攻撃の正当な理由ができる」 とも声も。 

これに対し、日本のネットユーザーからは「専守防衛って知ってる?」 

「日本は悪いがそんなことしない」 

「そんなに期待されても急襲する理由がないんで」 

「大丈夫だよ。相手にしてないから」 

「言ってることは荒唐無稽だが、軍事力を誇示したいことはよく分かる。こういう発想が出て来ることが危険といえる」 

「どう思ってるかよく分かりました。無知無能さも」 

「習さん大丈夫ですか?情報統制し過ぎで国民がこんなのになっちゃってますよ…」 

「核は抑止力にはなるかもしれないが、使用したら今のご時世で生き残れないと思うけど」 といった書き込みが集まった。 



5: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
>>1
まあ、やりゃいいんじゃない?
先制攻撃を。
で、その後、どこから金出して戦争すんだー?
誰が貸すの?戦費を?

 
38: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
>>1
で、日本が核武装したらどうすんの?

 
2: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
だからお前たちはダメなんだよ

 
4: ロンメル銭湯兵 ◆yGUjZiryVQvU @\(^o^)/
どうやら中国人のみなさんは核兵器以外の通常兵器に関して自信がないようですね。

 
6: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
「そんなに期待されても急襲する理由がないんで」

日本人の総意だな、誰が好き好んで貧乏くじ引きに行くんだよw

 
25: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
>>11
そもそも現代の監視体制が行き届いた状態で軍隊が”組織的”に強襲をするのは難しいって。

 
31: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
>>25
そうかなー?

城官が人民解放軍すら襲ってるって、
興味無いと知らねーと思うけどなぁ。

 
10: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
ほんと日本に対して核兵器を使用するって時点で中国は
使用後の国際社会の立場を失うことを理解してないよね
それでも国連安保理の常任理事国だから、正しいなんて言えないよ

国際社会の安全を保障できない国

 
14: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
日本は今の領土・領海で十分です。

沖縄はあげないからね<(`^´)>

 
17: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
中国もアメリカの核攻撃受けるよ。
どちらもいいこと一つもないよ。 馬鹿だね。

 
18: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
は?w
攻撃しといて日本が攻撃してきた
とか平気で嘘つく国が何言ってんの?w

 
19: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
その核ミサイル本当にちゃんと目標めがけて飛ぶと思ってんの?

 
20: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
むしろ日本は核武装した方がいいと、日本をよく知ってる外国人が発言するレベルだから
日本人はもっと危機感持った方がいい。

 
22: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
オレも戦争なったら中国は核撃つと思うよ
撃ったら中国も終わりだとか言うやつもいうけど
もう追い詰められたら、勝敗とかどうでもよくなって
とにかくばかすか核撃ちまくって日本の国土むちゃくちゃにするよ、あいつらは

 
29: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
>>22
支那は戦後でも戦争をしまくってるけど核など使用した事が無いよ。
更に支那を追い詰める国も無ければ追い詰める気も無い。

 
27: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
三峡ダムに届くミサイルを日本は持ってないって言うけどさ、火薬もなんも積んでないH2ロケットそのまんまぶっつければ普通に決壊しそうなんだが
あのダムハッキリ言って核ミサイルより甚大な被害与えるだろ
それこそ中国全土のインフラが完全ストップするぐらいに

まぁ日本海もエライことになると思うが…

 
28: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
戦争してまで中国から欲しいものなんて無い
中国人は日本人が中国の何が欲しくて侵略すると思ってるのか?
だいたい日本が中国に軍隊を派遣してたのは治安維持が目的
中華民国に統治能力があれば必要無かった

 
32: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
馬鹿がピストル乱射すれば、四方八方の廻りから銃弾が飛んできて
射殺される理屈も理解出来んらしいな支那ぢんはw

それが十八億人なら、地球レベルの食糧問題の解決にすらなる

www

 
34: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
支那軍て絶対弱いよな

 
39: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
>>34
下級兵士が上官の不正に対してデモ起こしたりしてるし。
支那の新聞には一面で載ってんのに、
日本の新聞には掲載されねーんだよね。

 
35: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
情報統制されてる国の人民はいとあはれ

 
40: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
なんで東北部から全面撤退するかわからんw

 
41: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
Aが無くてもBCなら報復はさほど難しくはないだろ…
いざとなったら世界を道連れにする覚悟がないと核は使用できないよ

 
44: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
日本が欲しがるようなモノが今の中国に有るとは思えない

 
47: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
>>44
汚物ばっかりやんなーw

 
61: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
>>44
奴らの念頭には尖閣があんだよ
あそこを自分たちのもんだと言い出してんだしね

 
48: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
今後核を使った国は次に他国との紛争の時
核の先制攻撃を受けることになる。

 
49: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
抑止力とか知らないんだろうな
何の為の核の傘だと思ってんだ

 
51: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
台湾政府が大陸側の行政も担うと宣言すればいいだけ。
大陸の民衆の多くは中国共産党から離れる。

 
55: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
いつから中国の敵は日本だけだと錯覚していたんだ?

 
57: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
中国人は頭大丈夫ですか?
そもそも、日本が中国を軍事的に攻撃して何のメリットが有るのか?
一銭の得にもならないよ

 
58: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
日中関係が一気に悪化した2012年に
中国の田舎では日本軍の空襲を恐れて避難騒ぎとかあったからね
みんな中国人の知識レベルをもうちょっと考えてあげてね

 
60: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
ロシア戦じゃねえのか

 
64: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
イスラム国みたいなのが核を手にしたとき
壮大な自爆テロで世界は終わるんだろうな。
死んで天国に行くと思ってる奴らに核は抑止力にはならないだろうから

 
65: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
そもそも何で中国を襲うんだ?
あんな汚れた土地なんかいらないだろ

 
69: ココ電球 _/ o-ν ◆tIS/.aX84. @\(^o^)/
あほか なんで陸戦で歩兵戦やる想定なんだ

 
75: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
敵前逃亡がデフォな根性無しのくせにwww

 
77: ココ電球 _/ o-ν ◆tIS/.aX84. @\(^o^)/
まず海上封鎖 そして石油施設の爆撃
あとは海上封鎖を続けて 中国人が飢えるのを待ってから攻撃

今でも中国のライフラインは脆弱なのに 戦争やったらあっという間に飢えるね
水無しで何日もつかな?

 
79: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
むしろ暴動や反乱起こした自国民に対して核を使うケースのがありそうなんだが

 
81: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
中国の防衛網を突破するなど
日本の軍事力では無理だ。
渡洋作戦には不可欠な、航空母艦はないし
揚陸艦の数も圧倒的に不足している

アメリカなら不可能ではないが
ただ、そのアメリカも中国本土での泥沼の戦いとなれば
兵站の維持は難しいでしょう。

 
86: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
>>81
何故陸戦あり気なんだ?
んなもん海上からミサイル撃ち捲って主要施設破壊した後空爆すれば終了だろ。
仮に陸軍投入するとすれば、戦況が確定して治安維持の為の投入とかだ。

 
88: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
>>81
核保有国同士の戦争は相互破壊が前提になる。確実に全面核戦争に至るよ
核戦争を避ける為に核保有国同士の戦争は徹底的に回避する
ようになる
核兵器が無かったと仮定しても米軍単独で中国を降伏に追い
込むことは不可能だと思う

 
82: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
中国が一発でも核を使ったら西側の神の杖が
在庫処分で落ちてくるw

 
83: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/
というか、その核反撃の可能性があるから攻撃は無理


売国タッグ、村山富市元首相と、河野洋平元衆院議長・・早く消えてくれ。

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村山富市元首相と、河野洋平元衆院議長・・このボケ老人2人は早く老衰で死んでもらったほうが日本のためだ。
 
村山富市氏「人も住んでない尖閣でバチバチやるか?」 
河野洋平氏「談話出してスムーズに日韓の理解進んだのに…」 
W妄言に中韓メディア大喜び

 村山富市元首相と、河野洋平元衆院議長が9日、日本記者クラブ(東京・内幸町)で実施した対談形式の記者会見は、国内外から300人以上の報道陣が詰めかける盛況ぶりだった。両氏は「中韓目線」で安倍晋三首相を批判し、中韓メディアの格好のネタとなった。

 村山氏は、日本の「植民地支配と侵略」を謝罪した「村山談話」(平成7年)、河野氏は、証拠資料も信頼に足る証言もないまま慰安婦募集の強制性を認めた「河野談話」(5年)を在任中に発表した。

 対談は冒頭から、談話に込めた思いなどを中心に進んだ。しかし、司会者に現在の対中・対韓関係を問われると、慰安婦問題など安倍首相の歴史認識に対する批判がヒートアップした。

 村山氏は、こんな“中韓目線”の自説を展開した。

 「安倍さんが河野談話を見直すなんてことを言わなければ、そんなこと(中韓の関係悪化)もなくて済んだんじゃないかという気がしますよ」

 「私は一昨年、中国に招かれて訪問し、何人かの指導者にお会いした。私は率直に言ったんですよ。『人も住んでいない尖閣諸島の問題で、第2の経済大国と第3の経済大国がバチバチやりますか?』と。そうしたら(中国側は)『そんなことは全然考えていません。中国は覇権を求めません。平和を求めます』と言うたんです。だから(中国は)戦争なんてことは全然考えていません」

http://www.sankei.com/premium/news/150616/prm1506160008-n1.html
2名前:中年'sリフト(九州地方)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 08:29:37.53 ID:Ti8diqayO.net
お花畑の筆頭
12名前:かかと落とし(大分県)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 08:32:16.86 ID:8nd7XXYE0.net
売国有罪
15名前:パロスペシャル(神奈川県)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 08:32:57.49 ID:dNAaozAF0.net
お花畑だな。
18名前:サソリ固め(茸)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 08:34:19.84 ID:lYEQ0ctF0.net
私は泥棒ですなんて言う泥棒いるか
39名前:ハーフネルソンスープレックス(庭)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 08:37:25.25 ID:dT43g7OQ0.net
こいつの眉毛は何のためにあるんだ
43名前:バックドロップホールド(熊本県)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 08:39:01.94 ID:MLNfxn9g0.net
とんちゃんは庭弄りしてろって・・・
50名前:逆落とし(dion軍)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 08:40:59.70 ID:Jmfo366A0.net
村山と河野 悪夢のタッグマッチ
52名前:エクスプロイダー(WiMAX)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 08:45:21.62 ID:/j0i0E4T0.net
敵は国内にあり
65名前:河津掛け(SB-iPhone)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 08:56:31.47 ID:spheR+jo0.net
決定的に政治家に向いていない。
77名前:フォーク攻撃(愛媛県)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 09:01:51.96 ID:LLfHgvve0.net
中国「中国は覇権を求めません。平和を求めます」
村山「ですよねー」

安部「日本は覇権を求めません。平和を求めます」
村山
「嘘だ!」


79名前:超竜ボム(東京都)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 09:02:46.91 ID:H/h5Tujz0.net
やるって言う分けねえだろ・・・・・・
すごいお花畑だな
84名前:フロントネックロック(宮城県)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 09:04:16.87 ID:AMz0/XC/0.net
( ^ω^ )…これがお花畑か
91名前:パロスペシャル(北海道)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 09:07:23.62 ID:RWlTj6ap0.net
人がいないからやりやすいんじゃねーの?
あれなんか違うか?
106名前:サッカーボールキック(大分県)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 09:12:19.05 ID:zCb44YIP0.net
この人、悪意のない素朴な人だよ。
山奥の村長くらいならうまく勤まったと思う。
131名前:閃光妖術(家)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 09:26:04.13 ID:Qs8vne070.net
>>106
これ
総理は無理
152名前:エメラルドフロウジョン(東日本)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 09:48:36.31 ID:cYfykoN70.net
泥棒に「盗む?」って聞いて「盗みます」と答えるはずねーだろw
161名前:キャプチュード(大阪府)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 09:59:11.68 ID:TtsgHNXP0.net
とっとと中国へ帰れよ
214名前:16文キック(茸)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 10:44:22.84 ID:4Tx+LQUQ0.net
中国に埋め立てやめてって言ってこい
244名前:メンマ(空)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 11:12:25.62 ID:+cZa50OC0.net
やるなら先制核でしょ
266名前:河津落とし(東京都)@\(^o^)/:2015/06/16(火) 11:50:11.90 ID:vBbCiYL30.net
村山「戦争考えてる?」
日本政府「いいえ」
村山「嘘だ!」

なぜなのか

ソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残虐をきわめた。夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は17になる娘を父親からひったくるように連行。娘は明け方になり無残な姿で、朝鮮人の男女が数十人の団体でおしかけ、

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部落ごとの朝鮮保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。靴の底や、女性の髪の中から金を探しだすのはふつう。
一糸まとわぬ姿にされ、取り調べられた女性もいた。
朝鮮人の男女が数十人の団体でおしかけ、干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取られてさく掠奪され、挙句は婦人の提供を要求されたという”

上記に記載したものはごく一部の例である。

 
この本を政府は漫画にして日本語、英語、中国語、ハングル、その他主要言語に翻訳して世界に訴える方が
色々言うより韓国のイメージダウン効果あるだろう。
これは今まで韓国の数々の日本のイメージダウン行為に対するささやかな抵抗である。
 
 
竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記
 
 
母と子供たちの壮絶な半島脱出, 2013/7/12
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水子の譜と並んで、引き上げ時にいかに朝鮮人によって残虐非道が行われたかを記した本で、子供たちにも読みやすいよう平易でソフトな表現になっています。
この本の焦点は、日本人婦女子が朝鮮ソ連の不逞外人によって心身に多大な傷を負わされたという厳然たる事実だと思います。
それを少女の視点から描きだしたものであって、別に嫌韓はありません。むしろ助けてくれた朝鮮人の話なども入れているのにも関わらず、2006年に朝鮮人を残忍に描いていると騒ぎ始め、アメリカの副読本から外すためヨーコさんを記者会見にまで引っ張り出し謝罪要求しました。(当時ヨーコさん73歳)
真実なんてどうでもよく、自らを嘘で塗り固めてそれでよしとする気質が見事に表れています。
多感な時期の少年少女がほぼ満洲に近いところから釜山港まで本当に大変な苦労をされたなと思います。大陸と半島から引き揚げて来られた方の心中を垣間見ることができました。

こういった史実は被害に遭われた方がお話しする性格のものではありませんから、余計にこういった本の重要性がでてきます。ただ、本書の最初のほうに書かれた会話の中の記述あたりが副読本にするさいに、アメリカに利用されているのではないかと考えたりもします。すなわち「戦争を仕掛けた日本が悪い」をアメリカの子供たちに刷り込ませる一助にしているのではないかという心配です。アメリカが日本の戦いを肯定した本を副読本にすることは決してありませんし、当時のありのままの会話内容を「日本人が書いているのだから」とアメリカ肯定のプロパガンダに使われているのじゃないかと考えてしまいます。
とにかくもこのような史実こそ日本人に知らされなければならないことで、その点において重要な一冊です。
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投稿日: 2014/08/11 3:30:35:JST
ゾンゾン太郎さんのコメント:
>ヨーコさんを記者会見にまで引っ張り出し謝罪要求しました。

これはどこかに書いてありますか?

前の投稿への返答(返答日時: 2014/08/17 19:52:41:JST )
池田小吉さんのコメント:
コメントいただいてありがとうございます。
上記の文は、高山正之氏の著書「サダム・フセインは偉かった」の中のp155にあります
[見捨てられたヨーコ]の一文です。さらに詳しいのは、「歴史通2013年11月号狂韓 国」
中の高山さんのコラムがあります。
その中にこうあります。
~中略~
「この地球上にまだこんなところがあったこと自体、人類の恥」とグレブスト(悲劇の朝鮮 )は書く。黄文雄も「近現代史集中講座」で残酷さで世界を畏怖させたモンゴル人が朝鮮人 の残忍さに驚愕したことを伝えている。
ヨーコ物語はまさにそうした「おぞましい人類の恥部」、民族の素顔を垣間見せる意義深い 作品だが、韓国人の母はグレブストもイザベラバードも黄文雄も何も読んではいなかった。
それで「この副読本は嘘ばかり並べ、韓国人を貶めている。副読本から外せ」と2006年 9月に学校当局に抗議し、そこが韓国人らしいところだが、「言う通りにしないなら子供を 登校させない」という挙に出た。

まともなコミュニティなら周りがいさめるところだが、そこはニュージャージー州だった。
ニューヨークとハドソン川を挟んだ対岸のこの州は、韓国人がうようよしている。
一人が米市民権を持てば一族郎党200人がそれをつてに米国に入り込むといわれる。
おかげで同州パリセーズパーク市は市民の2万人の過半が韓国系になってしまい、それで例 の慰安婦像もすんなり建てられた。
~中略~
そういう民(銃乱射などどこでも暴力沙汰をおこすような)が蝟集していた。
だから一家庭の不登校宣言では治まらなかった。韓国人コミュニティが騒ぎ、韓国領事も出 てきて米教育当局にヨーコ排斥を言い立てた。
騒ぎは北のマサチューセッツ州にも飛び火した。あんな騒々しい連中を相手にするよりはと 同州ドーバーシェルボーン教育委員会は2007年1月にヨーコ物語を副読本から外す決定 をした。
そうしたら学校教師がおかしいだろうと抗議し、白人コミュニティもヒスパニックや黒人コ ミュニティもなんで韓国人の横暴を許すのかと苦言を呈し、教育委員会は改めてヨーコ物語 を副読本に戻した。

これに韓国系が激怒する。ついには執筆した在米日本人ヨーコ・カワシマ・ワトキンズを呼 び出し、彼らによる人民裁判が開かれた。以下はボストングローブ紙の報道による。

会場に引き出された当時73歳のヨーコ女史は彼らの吊し上げに対し、他意のないこと、見 たまま、記憶のまま戦争の悲惨さ、無意味さを訴えたかっただけと答えたが、それで治まる 連中ではなかった。
「だいたい朝鮮に竹はない。タイトルからしてインチキだ」という抗議も出た。
「それは母が竹藪に囲まれた青森の実家を懐かしんで移植してもらった何本かの竹のことを 言い、我が家ほどの意味です」と釈明したが彼らに理は通じない。
「ヨーコが謝罪するまで怒号は続いた」と同紙は伝え、その「会場には韓国紙特派員が山と 詰めかけ、韓国領事館から3人の外交官も交じって怒号を張り上げていた」と結んである。
因みに朝鮮半島に竹はある。たけのこを意味するチュクスンという単語もあり、宮廷料理の お品書きにも載る。ほかに「咎人が血まみれになって気絶する」とグレブストが書いている 笞刑のムチも竹だ。彼らは平気で嘘を言う。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
まだまだありますが、大変詳しく書いてありますので私自身大変勉強になりました。
ご参考になれば幸いです。
ルパンIVさんのコメント:
*ボストン・グローブ紙は、『彼女の正しさは証明されているにも拘らず、日本のマスコミ と政府が彼女を見捨てた』 と強く非難しています。 全く情けない日本政府とマスコミです。朝日の様な媚中のマスコミは勿論であるが、自民党 や民主の過去の政府の罪は余りに大きい。

外務省の調査では、2万7000人の日本兵が、ロシアから北朝鮮に送られ、殆どが虐待を 受けた上、餓死したと伝えている。僅かな生還者の証言も取れているのです。

*それを朝日新聞は、「ソ連から逃げた日本兵が寒さと飢えで餓死した」と、然もロシアだ けが悪いかの様に書いているそうです。又ここでも朝日新聞なのです。
 
 
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私は20歳の学生です。
学生一個人の感想としてお読みください。
本作品は真実の実話であり、事実史の一つです。

【この本を読むにあたって】

2000年に日本教文社から発売された「台湾人と日本精神」という本にはこう書かれています。
台湾人と日本精神(リップンチェンシン)―日本人よ胸を張りなさい
“昭和20年8月15日、終戦の詔勅くだる。我々はなにが起こったのかさっぱりつかめない。配線の事実が我々台湾出身性にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持ちでいっぱいになり、とめどなくこみ上げる涙で頬を濡らしたことはいつまでも鮮明に覚えている。それは台湾出身生徒も同じ心境だった。

他方、朝鮮(旧朝鮮)出身の生徒達は、その日の食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。日本人を殴って「戦勝国になったんだ」と威張りちらす者もいれば、「独立だ!」と気勢を上げる輩もいる。 ”

これが後の朝鮮進駐軍の存在と重なる。
朝鮮進駐軍とは3万人の朝鮮人からなる犯罪組織「朝鮮進駐軍」が、戦後の日本本土における混乱期に強姦、殺人、公的機関への襲撃、不動産の不法占拠などの犯罪を起こし、GHQの資料にあるだけでも日本人を4千人以上も殺害している犯罪集団。wikipediaより。
つまり、これが朝鮮民族の民度なのだ。

2005年11月号『正論』-引揚民間人を襲った略奪・暴力・殺戮の嵐- には少し柔らかい表現でこう書かれている。
正論 2005年11月号

“北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年ごろの娘二人を連れ、辛苦の末やっと38度線近くの鉄原にたどり着いた。そこで見たものは、日本人の娘たちが次々にまずソ連兵に犯され、ついでに朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景があった。

吉州や端川の海岸線にでた人達に対するソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残虐をきわめた。夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は17になる娘を父親からひったくるように連行。娘は明け方になり無残な姿で、涙も枯れ果てて幽鬼のごとく帰ってきたという。みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。

部落ごとの朝鮮保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。靴の底や、女性の髪の中から金を探しだすのはふつう。
一糸まとわぬ姿にされ、取り調べられた女性もいた。
朝鮮人の男女が数十人の団体でおしかけ、干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取られてさく掠奪され、挙句は婦人の提供を要求されたという”

上記に記載したものはごく一部の例である。

そして、ここで出てくるのが『二日市保養所』である。

二日市保養所とは終戦直後より在満・在朝日本人は塗炭の苦しみを味わうことになった。追放や財産の略奪に止まらず、強制連行や虐殺などで、祖国の地を踏むことなく無念のうちに斃れた者も少なくなかった。これに加えて女性は、朝鮮人やソ連兵、中国人等による度重なる強姦を受けた末、心ならずも妊娠したり、性病に罹ったりしたにもかかわらず、何ら医療的治療が施されずにいた。そして強姦により妊娠・性病罹患した女性の中には、これを苦にして自殺する者が少なからず出た。wikipediaより。

『二日市保養所』は当時禁止されていた堕胎を、引揚者女性の為に行った施設である。

“「二日市保養所」の産婦人科部長だった橘爪医師の証言が、『水子の譜』に収録されいる。昭和21年6月10日付で救療部に提出した報告書によれば、強姦の加害者は朝鮮人がもっとも多く、次いでソ連人、中国人、アメリカ人...etc...。
中絶された胎児は、黄色人種もあれば白人の子もいた。”

そして私にとって、ずっと忘れられない戦後について綴った言葉がある。

 『二十二名の私たちが自分の手で命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑と深くお詫び申し上げます。私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらぴます。たとい命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の土に止り、日本が再びこの地に還って来る日、御案内致します。その意味からも、私どものなきがらは土葬にして、この満州の土にしてください。』
『この性病がどんなに恐ろしいものか十二分に知っています。暴行の結果うつされたこの性病を私はソ連軍の一人でも多くうつしてやるつもりです。今は歩行も困難なくらいですが、それでも頑張って一人でも多くのお客をとることにしています。これが敗戦国のせめてもの復讐です』

これはかの、青葉慈蔵尊由来記に書かれている【従軍看護婦の集団自殺】の言葉である。
目を通した当時、私は高校生だった。私にとってこの言葉は衝撃的でした。

詳しくは 青葉慈蔵尊由来記 で検索してください。

是非とも、このコメントを読んで本作品を事実史の一つとして記憶していただきたい。
決して、内容を鵜呑みにしましょうという訳ではありません。
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1,655 人中、1,614人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0日本人の歴史観を変えるパンドラの箱, 2013/7/11
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スカーレット (日本) - レビューをすべて見る
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レビュー対象商品: 竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記 (ハードカバー)
あらすじは、本の紹介に書かれているとおり、太平洋戦争の敗戦が濃厚となった朝鮮半島から、11歳の少女とその家族が逃げ出す際に体験した壮絶な体験を綴った物語です。
衝撃的な体験と、息もつかせないような緊迫感、そして最後は感動するサバイバルストーリーは、是非実際の本を読んでもらいたい内容です。

ここでは、本書が持つ2つの歴史的な意味を指摘しておきたいと思います。

◎ 歴史的な出来事を世に広くしらしめる書
第二次世界大戦の悲惨な出来事を、世間に広く知らしめるのに大きく貢献した書物がある。
その代表的なものは、ナチスのユダヤ人狩りを少女の眼を通して綴った『
アンネの日記』であり、広島の原爆の被曝体験をマンガで描いた『はだしのゲン』であり、戦後混乱を生き抜く兄妹を描きジブリによってアニメ映画化された『火垂るの墓』である。
朝鮮半島からの日本人引揚者が味わった苦難の体験は、歴史に詳しい人にはよく知られている事実でした。本書が発行されたことによって、一般の人にも広く知られた歴史的な出来事となるでしょう。
そういう意味で、本書も上にあげたような書物の仲間に入るだろうと考えています。実際、30年近く前に発行されたアメリカにおいては、多くの学校で教材として採用されています。
これだけでも、本書が発刊されたことは、歴史的に大きな意味を持つことになります。

◎ 日本人の歴史観の転換点となる書
2つ目の歴史的な意味は、1つ目のものよりも、さら重要な意味を持っています。

戦後から今に至るまでの長い間、多くの日本人は、日中戦争から太平洋戦までの戦争において、日本は加害者で、アジア諸国は被害者という枠組みで歴史を認識してきました。
日本に対する従軍慰安婦や南京虐殺についての非難への反論が行われたとしても、それは程度の問題で、日本がアジア諸国に悪いことをした事実は変わらないと、多くの人が受け止めてきました。
韓国では極右政治家と呼ばれていた小泉首相ですら「痛切なる反省と心からのおわび」を表明し、元慰安婦には肉筆のサイン入りの謝罪文を送っているほどです。
こうした歴史の見方と異なる見方をする人がいたのも事実です。しかし、彼らは日本では右翼と呼ばれ、海外では歴史修正主義者と非難されてきました。
最近では、ネット右翼やネトウヨと呼ばれ、蔑まれています。

本書は、こうした日本人が戦後長い間持ち続けてきた歴史に対する見方を変えるでしょう。
本書には、朝鮮半島からの日本人引揚者に対して行われた、ロシア軍や朝鮮人による酷い仕打ちの数々が描かれています。
著者のヨーコ・カワシマ・ワトキンズさんは、インタビューの中で、これでも子供が読めるようにかなり抑えた表現にしていると語っています。
当時の朝鮮半島が、本書に書かれている状況よりももっと悲惨な状況であったことは容易に想像することができます。

戦場でもない地域において、一般の民間人に対して行われたこのような残酷な行為を、どんな国際法的な観点からも、人道的な観点からも正当化することなどできません。
日本人引揚者に対する行為は、良い朝鮮人も悪いも朝鮮人もいたといった、個人のレベルの問題ではありません。
日本人が被害者で、朝鮮人が加害者である、動かしがたい歴史的な出来事です。
本書が広く読まれることによって、従来の日本人が加害者で朝鮮人が被害者という、一方的な歴史観は崩れるでしょう。

アメリカの多くの学校で教材に採用されていることはすでに述べました。
そのアメリカで、在米韓国人が中心となって、学校教育現場から本書を追放する運動が精力的に行われています。
日帝は36年の過酷な植民地支配を行い、20万人の朝鮮人女性を強制的に性奴隷にし、そのうち15万人を殺した。これがアメリカで行われている韓国の主張です。
修正主義を通り抜けて、歴史妄想主義とも言えるこの主張が受け入れられるためには、日本人は永遠に加害者で、朝鮮人は永遠に被害者でなくてはならいのです。
その障害となる本書は排除しなければならいと、彼らは考えているのです。

日本でも、歴史的事実には目を向けず、日本人は加害者で、朝鮮人は被害者でなくてはならいと考えている人が、少なからずというより、かなりの数います。
アメリカでは数々の賞を受賞し、学校で教材としても採用されている本書が、30年近くも日本では出版されてこなかった事実が、それを物語っています。。
30年近く経ち、今年ようやくマイナーなハート出版によって出版されましたが、出版されるまでに妨害があったという話も聞きます。
今後も、本書を目障りに思う人によって様々な妨害が行われるでしょう。
しかし、もう手遅れです。バンドラの箱と同じです。1度開かれたものは元には戻せないのです。
本書は日本人の歴史に対する認識を大きく変えていくでしょう。

最後に、念のため書いておきますが、本書は決して朝鮮人を非難する内容ではありませんし、著者のヨーコ・カワシマ・ワトキンズさんにもそのような意図がないことは明白です。
本書には、日本人を助けた朝鮮人も、日本人に酷いことする日本人も描かれています。
ただ、主にロシア人や朝鮮人によって行われた、朝鮮半島からの日本人引揚者に対する残酷な行為の事実を描いているに過ぎません。
本書は今後論争の的になると考えられますが、この点は誤解しないようにしてほしいと思います。

通州事件/歴史の暗部・・支那の残虐行為

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再度通州事件を取り上げます。
桜乃宮アリスさんが詳しく調べてブログに載せていましたので転載しました。
 
本当に胸糞悪くなる支那の残虐行為、根本的に日本兵の殺人行為とは違うのが分かる。
 支那共産党から侵略を受けるとこうなる。
支那は南シナ海支配と同時に日本へは手始めに沖縄を独立させることと尖閣を乗っ取ることに全神経を注いでいる。
 そのための準備に数千億の金を軍事費や沖縄サヨクへの援助に使っている。(支那共産党のシンボル色は赤とオレンジ、基地反対をはじめとするサヨクの看板や基地のフェンスに貼られるポスターは大体がその赤とオレンジが使われている。) 
 支那は決して無駄金ドブに捨てるようなことをしない。
その回収はきっちり取りに来る。 
沖縄独立運動といってもまだピンと来ない人が多いが。
その沖縄独立運動は水面下で着実に進んでいる。
 先の総選挙で沖縄の自民党は全滅すべてがサヨクの息がかかった議員になってしまった。 
 それも沖縄のマスコミや日教組の学校での洗脳、労組をはじめとしたサヨクの沖縄と日米離反工作の結果だ。
サヨクの常套手段は沖縄戦で日本軍は島民にひどいことをした、それも事実(しかし大部分の下士官以下の兵は真剣に沖縄県民を守ろうとしたのも事実だ。)だし米軍も同様に沖縄戦から終戦後も土地強制収容はじめやはりひどいことした。 そういうマイナス面ばかり強調し、戦後米軍の軍事的保護と日本政府の特別な交付金支援のもとに
沖縄が経済発展し人口も戦前の30万から140万と激増した。
 そんなプラス面は決して口には出さない。
こんなこと言うと札束で沖縄人の頬をたたくようなことをするとすぐに言い返す。
 
沖縄人よ目を覚まして欲しい。今何が重要か、支那共産党の本性は旧日本兵やアメリカ兵とは全然違うということを。
 
 
 

通州事件/歴史の暗部2



排日抗日活動や赤化防止の為に『華北分離政策』を行い、親日派の殷汝耕を首班に『冀東防共自治政府』が樹立されたのですが、この評価は現在において、あまりよくありません。冀東政府に属する保安隊が通州事件を起こした結果、『華北分離政策』は『大失敗』だったと一部では評価されています。

今の私にはこの政策が失敗だったのかどうか明確な評価はまだ出来ません。結果だけを見れば、失敗とも言えるのですが。

この政策は土肥原賢二陸軍大将(在満州特務機関長/A級戦犯)が担当職務だったのですが、『謀略はテクニックではなく、それはすべて"誠"の心で事にあたるべきである。小手先で相手を牛耳り、圧迫するのではなく、誠をもって赤心を人の腹中に置けば、我が意は相手の心底に響き、通じるものである』と話しています。


日本人が美徳とする"謙遜"は、狡猾でしたたかな大陸の人間相手には、甘過ぎて逆に裏目に出たのでしょう。ただ土肥原大将の『心』は同じ日本人として誇らしいものです。またシナ事変全体を見ると、当時の近衛首相や広田外相(A級戦犯)は、蒋介石の腹の内を読み間違えたのか、対蒋介石強硬策を打ち出し、シナ事変を拡大(いわゆる一般的に言われている日中戦争)する原因になったとも言われています。


当時の日本は、背後に潜む中共とスターリンの謀略に気づかず、知らぬ間にその謀略に『ハマっていった』のですね。日本の『華北分離政策』によって作られた親日派の『冀東防共自治政府』に属する『保安隊』の中に、国民党や中共の"反日分子"が紛れ込んでいたのを全く気付かずに。

通州事件は、突発的に冀東保安隊が反乱を起こし日本人居留民を襲撃したのではなく、計画的凶行でした。

事件2日前、シナ部隊を掃討するために日本軍が出動した際、誤って冀東保安隊の訓練所を爆撃し、数名が死亡するという不幸が起きました。そのことから『報復』の為に通州の日本人居留民を惨殺したと言う説もありますが、これは違います。

誤爆を聞いた通州の特務機関長は、すぐさま首班の殷汝耕に陳謝すると共に、遺族を弔問していました。
また、冀東保安隊には誤爆について釈明し、慰撫に努めていました。

通州事件の原因は、

●冀東保安隊第一総隊長『張慶餘』と『張硯田』の反日派2人が、国民党の第29軍隊長で冀察政務委員会の『宋哲元』と盧溝橋事件以前から接触し、冀東政府壊滅と抗日の"密約"を交わしたからです。これは中国で出版された『盧溝橋事変風雲編』に書かれている史実です。宋哲元は事前に通州の日本人居留民の人数や住所、家族構成まですべて調査していました。つまりこれによって計画的凶行の裏付けが出来ます。


先述でも触れましたが、中共の反日分子までも保安隊の中に紛れ込ませていたのです。後は日本軍が通州を空ける時を待つのみ。通州事件前後、北平周辺にある中国軍を掃討する為、日本兵守備隊100人余りを残して日本軍は通州を留守にしていました。たった100人程度の守備しか残さなかったのは、冀東政府とそれに属する保安隊を信じていたからです。

また当時シナでは、南京の怪放送、北平シナ新聞の虚報が有名でした。

「日本軍は敗走した。29軍は大挙して冀東を攻撃する。通州の敵を屠り、"殷汝耕首班を血祭りにあげよ"」

張慶餘はこの怪放送をいいことに、日本軍守備が手薄になった機を逃さず、通州の日本人居留民を襲撃したのです。
この事例は情報心理戦において、シナが卓越した能力を発揮した場面であったと言えますが、これはシナに対する賞賛ではなく、そこまでして日本人居留民を虐殺したかったのか、日本軍に勝利する目的の策であればまだしも…確かにこれが大陸の戦争文化なのですが、理解に苦しみます。

29日午前3時、突如冀東保安隊3000人が通州の日本人居留民を襲撃。
逃走出来ないように通州城の門を閉め、『日本人を殺せ、朝鮮人を逃がすな!』と、わめきながら城内くまなく家一軒一軒探し求めて、片っ端から残虐の極みを尽くしました。不意をつかれた日本兵は防戦したものの多勢に無勢、次々と虐殺され、その戦闘の最中、保安隊は冀東政府首班の殷汝耕を拘束。

シナ人による惨殺は次の日の夕方まで繰り広げられたのです。惨状の報告を受けた日本軍の第二連隊は、あまりの惨たらしい大量の惨殺死体に驚愕、唖然としました。


手榴弾で吹き飛んだ少女、蜂の巣状態の死体。銃剣で刺され、目をエグりとられた死体。
付近の日本食堂では、子供が壁に打ち付けられ頭蓋骨陥没で即死。店員の女性全員は強姦後射殺。

食堂『旭軒』の女性店員8人も強姦のあと裸体にされ、陰部に銃剣が刺し込まれていたり、箸や棒を突き刺したまま放置。また、口の中に砂を詰められたり、腹をかち割られ内臓が飛び出し、ハエがたかっていたものもありました。外にも女性の無惨な全裸死体が放置され、死体すべての乳房や陰部がエグリとられていました。

中でも一番酷かったのは、通州の高級割烹旅館『近水楼』の惨殺です。八方の屋根の上から機関銃、小銃を撃ち込み、物凄い喚声を上げて内部に乱入し、手当たり次第虐殺。


女性に至っては屋根の上に引きずりあげ、または畑の中に引きずり込んで言語に絶する暴行を加えたり、手や足を縛られ、鼻や喉を針金で突き通し、ひきづり回して二ヶ所にまとめて射殺。宿泊客11人は数珠繋ぎにされひきづられた後ひとまとめに射殺。女中4人は射殺後に凌辱。惨たらしい死体は家の中や外に散乱し、池は赤く染まり、一家数珠繋ぎにされた死体が浮かんでいました。

また虐殺だけではありません。

シナ人は日本居留民の金品から家財道具、食料の略奪を行い、家は軒並みに2回、3回と財産の略奪を受け、政府の茶碗に至るまでも略奪され、一物も残らず空家同然という有り様。銀行からは現金6万元をはじめ、目ぼしい金品は尽く略奪されました。

この惨劇から逃れられたのは約400人近い居留民の中で120人程しかいませんでした。シナ人による日本人虐殺は通州事件だけではありません。

事件の詳細は書きませんが、読みやすいように以下の順に沿って書きます。
�事件名/発生年月・場所
�加害者/被害者数
�殺害方法(暴行・略奪等含む)

「尼港事件」

�1920年(大正9)3月から5月。尼港は、間宮海峡(タタール海峡)をはさんで、樺太と向い合った大陸の、アムール川河口にある最果ての小市街で、人口は約1万5千いました。そこに日本居留民は約700人、他にもロシア人、中国人、朝鮮人、英国人が住んでいました。
�ロシアのトリャピーチン率いる露中共産パルチザン(ロシア人、シナ人、朝鮮人)からなる約4千人の共産党ゲリラによる無差別大量虐殺。日本人犠牲者は約700人。(死者半数は民間人。そのうち140人は監獄に収容、虐殺される。)日本人以外の市民も5000人以上殺害。
�犠牲者たちは、両目を抉り取られる、5本の指をバラバラに切り落とされて刺殺される、金歯があるものはあごから顔面を裂かれて抜き取られる、女子供は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られるなどの方法で殺されました。そのうえ町を焼き払いました。

獄舎の壁には血痕、毛のついた皮膚などがこびりついており、鉛筆書きで「大正9年5月24日午後12時を忘れるな」と書かれていました。

通州事件は「第二の尼港事件」と言われています。


「南京事件」

�1927年3月24日、南京。
�反帝国主義約2百人のシナ人兵士と、一般のシナ人暴徒。日本人1人、英2人、米1人、伊1人、仏1人の死者が出ました。
�日本人は死者1名で、被害は小さいと思われるかも知れませんが、この事件は「暴行、略奪、破壊」の被害が大きかったのです。一般市民の暴徒には「シナ人女性から子供」までもが、各国の領事館や居留地で、略奪や破壊行為をしました。

「済 南 事 件」

�1928年(昭和3年)、中国山東省の済南。済南は主要な商業都市であり、日本人を中心として多くの外国人が居住していました。
�日本の権益確保と日本人居留民保護のため派遣された日本軍とシナ軍との間に起きた武力衝突。日本人居留民12名が虐殺されました。(掠奪被害戸数136、被害人員約400)
�「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿込みたるもの、顔面 、上部を切落したるもの、右耳を切落された左頬より右後頭部に貫通突傷 あり、全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切落したるもの」(昭和3年5月9日田中外相宛西田領事報告より引用)


シナ人による、民間人虐殺、陵辱、略奪、破壊の事件を3例あげましたが、�に注目してください。これらはすべて「通州事件」の残虐行為や略奪・破壊行為に酷似していませんか?

沖縄戦で余りにも日本軍が強く善戦したのでアメリカは日本を恐れ戦後徹底的に洗脳弱体化=サヨク思想の普及で日本を骨抜きにしようとした。

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 沖縄戦それは終戦ごのGHQの日本人骨抜き政策の大きな原因となった。
沖縄戦に入る前米軍は短期間でそんなに苦労することなく沖縄戦を片付け日本本土攻撃の基地として利用できると考えていた。
 理由として制空権は握っているし何よりもアメリカ軍にくらべ貧弱な武器装備、圧倒する兵力の数等々である。
ところが日本軍の抵抗は予想外の強さでアメリカ軍史上後にも先にもこの沖縄戦が最も苦戦した戦いとされるに至った。
 一番アメリカ政府がショックだったのは沖縄戦の連合軍(イギリス軍も合流)総司令官バックナー中将の戦死だった。(この後アメリカ軍は住民への無差別攻撃をより激しくするようになった。)
 ヨーロッパでのドイツ軍との抵抗などはこの沖縄の日本軍の抵抗に比べれば軽いと言われている。
沖縄戦で余りにも日本軍が強く善戦したのでアメリカは日本人を非常に恐れ戦後徹底的に洗脳弱体化=サヨク思想の普及で日本を骨抜きにしようとした。それに利用されたのが東大をはじめとするサヨクの教授たち(日本の大学の先生は基本的に軍部を嫌っていてサヨク的だった。今も同じ)が左翼教育の先導をとっていった。
 かのフランシスコザビエル(日本に来た目的は日本を植民地にしようとするのが重要目的、布教はその手段であった。)も日本の武士はあまりに強くとても戦って勝てる相手ではない、この国の野蛮民族(白人以外は人ではないというのが彼らの当時の考え)は地球上から抹殺されるべきものとまで本国に伝えているほどだ。
 事実アメリカもあまりに強い日本を永遠に弱体化したままでおこうと当時は真剣に考えていた。
 皮肉にも日本軍が強すぎたため自虐史観とサヨク洗脳が徹底的に行われるようになったのだ。
 
以下はウィキペディアからの抜粋です。
 
 
 
連合軍の戦略[編集]
十・十空襲に遭う那覇市街
連合軍は、沖縄本島の存在について、有力な航空基地と泊地を設置可能で日本本土と中国大陸のいずれに侵攻する際の作戦拠点にもできる島と考えていた[16]。また、沖縄諸島の基地化により、日本の南西方面の海上航路・航空路を遮断することもできると見ていた[16]。他方、連合軍がフィリピンへ侵攻した場合には、日本軍の反撃拠点となりうる島であるとも警戒していた。
19448月時点での連合軍の戦略では、沖縄本島よりも先に台湾を攻略することが計画されていた[17]。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄県のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦についてはコーズウェイ作戦 (Operation Causeway) の名の下に具体的な検討が進められ、すでに上陸部隊の司令官にはアメリカ陸軍サイモン・B・バックナー・ジュニア中将が決まっていた[18]
ところが、9月中旬になってレイテ島上陸の予定繰上げが決まり、フィリピンでの泊地確保もより早く行える可能性が出てくると、アメリカ海軍チェスター・ニミッツ提督らは台湾攻略以外の選択肢について再検討を始めた[19]。アメリカ陸軍も、ルソン島さえ占領すれば台湾は無力化できると考えて、台湾攻略中止に同調した[19]。そして、新たな日本本土空襲の拠点を求めていたアメリカ陸軍航空軍が、台湾の代わりに沖縄本島を攻略することを提案し[19]、検討の結果、105日に沖縄攻略作戦の実施が決定された[18]。計画では1020日のレイテ島上陸、1220日のルソン島上陸、翌1945120日の硫黄島占領に続いて、31日に沖縄諸島へと上陸することとなった[20]。バックナー中将は、台湾上陸部隊の司令官から、そのまま沖縄上陸部隊の司令官へと任務が変更された[21]
さっそくレイテ島への侵攻作戦に着手した連合軍は、事前に日本軍の反撃戦力を削る航空撃滅戦として沖縄県周辺や台湾などを攻撃した。19441010日、アメリカ軍機動部隊が南西諸島一帯に対して大規模な空襲を行い、所在の日本軍航空機や艦船は大きな打撃を受けた(十・十空襲)。偵察活動も進められたが、194412月末に偵察任務で沖縄へ向かった潜水艦「ソードフィッシュ」が未帰還となった[22]ペリリュー島の戦いで行われた偵察上陸では半数の人員が未帰還と言う大被害を出していることも踏まえて、偵察要員の事前上陸は見送られた[23]
19453月、連合軍は、予定よりは遅れながらもルソン島攻略硫黄島攻略をほぼ完了した。このときまでには、日本本土上陸作戦であるダウンフォール作戦の立案もされており、沖縄本島は、九州上陸を支援する拠点として利用されることに決まっていた。ルソン島攻略の遅れによる輸送船不足と3月の悪天候により沖縄侵攻は2度にわたって繰り下げられ、当初計画よりはちょうど1ヶ月遅れで、沖縄攻略を目的とした「アイスバーグ作戦」が発動されることとなった[24]。投入される陸上戦力はアメリカ陸軍第10の陸軍5個師団・4個戦車大隊ほかとアメリカ海兵隊3個師団で、強力な航空部隊と艦隊が支援にあてられている[25]。第10軍自体は新編成の組織であるが、主力の第24軍団と第3水陸両用軍団に属する師団はいずれも実戦経験を積んだ部隊であった[26]
 

沖縄本島南部の戦い[編集]

第32軍の方針は前述の通り「軍主力は沖縄本島南半部を徹して国頭郡山岳地区に転位して戦略持久を策する」[63]との首里城に置かれた司令部を中心とした沖縄本島南部での持久戦術であり、沖縄戦の殆どの期間が南部攻略に費やされた。その為、南部での戦いを前・中・後期に分け記述する。

沖縄本島南部の戦い前期 嘉数高地陥落まで[編集]

南部のアメリカ軍の進撃は順調で、当初は予定通りのスケジュールで前進していた。
海軍上陸軍司令官リッチモンド・K・ターナー中将が太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ大将に「私の頭がおかしくなったのかもしれないが、当地における日本軍は戦闘を行う意思がない模様である」と報告し、ニミッツから窘められている[64]
嘉数高地で撃破されたM4中戦車
その中で独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)は孤軍奮闘、圧倒的なアメリカ軍相手に4月2日〜4日まで野嵩及び新垣のラインでアメリカ軍の進撃をよく阻止し、十分に役割を果たし撤収している[65]
アメリカ軍は日本軍の抵抗を排除しながら首里(現那覇市の一部)の司令部を目指して南進するが、途中には守備軍が丘陵地形と陣地で待ち構えていた。そして、4月5日にはその前哨基地であるピナクル(日本軍呼称「161.8高地」)に達したが、同高地を防衛する独立歩兵第147大隊第一中隊(長谷川中隊)を主力とするわずか150名の日本軍は、圧倒的な米軍を相手に構築した地下陣地を活用し7〜8回米軍の攻撃を撃退したが、アメリカ軍は地下陣地に爆薬から黄燐手榴弾までを使用して攻撃、長谷川中隊の生存者はわずか30名となった為撤退し、6日にはピナクルはアメリカ軍の手に墜ちた(ピナクルの戦い英語版[66]
アメリカ軍はその後全線に渡って進撃を開始したが、4月7日には各所で日本軍の頑強な陣地に阻まれ、進撃は停止した。第7歩兵師団はレッドヒル(日本軍呼称「北上原陣地」)を攻撃したが、歩兵と援護の戦車10両と装甲車5両のアメリカ軍部隊に対し、日本軍は対戦車地雷と梱包爆弾により戦車3両をたちまち撃破、アメリカ軍歩兵を砲撃と機銃掃射で後退させ戦車を孤立させて、戦車を肉弾攻撃し撃退している[67]。この歩兵と戦車を分離させて撃破する戦術は、沖縄戦では他の戦闘でも多用されることとなった[68]
伊江城山の日本軍陣地、各砲座や銃座は地下坑道や壕で結ばれ、山全体が要塞化されている状況が記載されている。この様な要塞が至る所に構築された。
沖縄戦のアメリカ軍には、太平洋戦域の各戦場を戦い抜いてきた歴戦の兵士も多かったが、沖縄の日本軍地下陣地が、今までの戦場で見てきた日本軍陣地における巧妙や複雑さなどの利点を全て兼ね備えていると痛感させられた。陣地は網の目の様な地下坑道で連結され、地下可動性が高く補給や兵員の補充も容易で、防御から攻撃への切り替えもできた。また、出入り口は巧妙に擬装されており、攻撃しているアメリカ軍の後方に不意に出現し、背後から攻撃する事も可能であった[69]
日本軍の陣地構築に際しては、コンクリートなどの資材は不足していたが、沖縄の南部地域は珊瑚隆起の固い地面も多く、その強度はコンクリート並みであった為に、その固い地層を活用して地下陣地が構築され、アメリカ軍の砲爆撃でも容易には破壊されなかった。また、多数存在した天然の洞穴や、沖縄独特の墓である亀甲墓がその堅牢な構造からトーチカ代わりに使われ陣地の一部となった[70]
アメリカ陸軍は沖縄の頑強な日本軍陣地を「常軌を逸して防衛された陣地」と評している[71]。また、海兵隊員のある士官は「土に埋まった戦艦のようだった」とも評した[72]
その沖縄の日本軍の陣地の中で、第96師団が攻撃した嘉数高地が、地形要因にも恵まれもっとも強固な陣地となり、第96師団を初めとしてアメリカ軍は多大な出血を強いられる事になった(嘉数の戦い)。日本側はその強固な陣地を最大限活用し、賀谷支隊をはじめ、主陣地を守備した第62師団、第2線陣地を守備した第24師団が激しい抵抗をしている。特に4月8日〜12日に嘉数高地を攻撃した米陸軍第96師団と、同時に和宇慶高地を攻撃した同第7師団は日本軍の巧みな防衛を前に合計2,880名の死傷者を出したが、日本軍の防衛線はビクともしなかった[64][注 9]
ここまで大本営陸軍部は、第32軍の意図する「出血持久作戦」をよく理解していたはずであった。しかし、4月3日の戦況上奏の際に、昭和天皇(大元帥)が梅津陸軍参謀総長に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と下問した。その下問を受けて梅津は「第32軍に適切な作戦指導を行わなければならぬ」と考え[73]、大本営陸軍部は第32軍に対しアメリカ軍に奪われた北・中飛行場の奪回を要望する電令を発した[74]。さらに沖縄戦を最後の決戦と位置づける連合艦隊からも、北・中飛行場を奪還する要望が第32軍に打電されている[75]。これらの督促を受けて、長第32軍参謀長は攻勢を主張、八原高級参謀は反対するも、牛島軍司令官は北・中飛行場方面への出撃を決定した。4月8日と12日に日本軍は夜襲を行ったが、第62師団の2個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった[76]
夜襲失敗の状況などを考え、13日には第32軍の方針は一旦は八原高級参謀主張の持久方針に固まった[77]
日本軍の夜襲後も、アメリカ軍は激しい攻撃を繰り返した。特に4月19日に第96・第7・第27師団の3個師団で行われた総攻撃は、日本軍の激しい抵抗により第27師団の、30両のM4中戦車内22両を撃破され、第24軍団全体でも720名の死傷者を出す大損害を被って撃退されている[78][72]
その後膠着状態が続き、アメリカ軍の攻撃は完全に行き詰った様に見えたが、アメリカ軍は日本軍に艦砲射撃を含む砲爆撃を徹底的に浴びせ[注 10]、多数の戦車を伴い、防衛線全線に渡って攻撃を継続した。特に、ペリリュー島の戦い以降、日本軍陣地の攻撃手段として行ってきた「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」での陣地攻撃により、陣地に籠る日本兵の死傷者も激増していた。これは日本軍が「馬乗り戦法」と名付け恐れた戦術であり、まずは日本軍陣地の出入り口を見つけると、戦車の支援と激しい集中射撃で日本軍を陣地の中に追い込み、歩兵が通気口を見つけそこからガソリンやナパームジェルを流し込み、火災で日本兵を殲滅し、最後に大量の爆薬で陣地ごと吹き飛ばすといった、圧倒的物量を誇る米軍ならではの戦法であった[80]。善戦していた日本の第62師団も大きな損害を被っており、第32軍は4月23日に戦線整理として、一部の部隊に撤収と陣地変換を命じている。19日〜23日までの激戦で第32軍も戦死2,490名負傷2,665名の損害を被っていた[81]。これによりアメリカ軍はようやく首里防衛ラインの外郭を突破し、対する日本側第32軍は予備兵力の第24師団独立混成第44旅団主力も投入し、後退した第62師団と合わせて防衛線を再構築した。
嘉数高地で陸軍が苦戦している間、アメリカ海軍の将兵は日本軍の激しい特攻に曝されており、4月1日〜4月23日の間に60隻の艦船が撃沈破されて、人的損失も1,100名戦死、2,000名以上負傷に達していた。
太平洋艦隊チェスター・ニミッツ司令長官は、陸軍の進撃速度のあまりの遅さに、バックナーは陸軍の損害を軽減させるために、海軍を犠牲にしてわざと慎重な手法を使っていると疑っており、現場の指揮には口を挟まないという方針を崩して、バックナーの作戦指導に介入する為に4月22日にアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官を連れて、自ら沖縄に出向いている[82]。バックナーは慎重な作戦を好んだが、海軍や海兵隊よりは積極性に欠けるとの評価で不満が燻っており、普段温厚なニミッツも、会談中にあまりにも慎重なバックナーの姿勢に激高し「他の誰かを軍司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば海軍はいまいましいカミカゼから解放される」と詰め寄っている[72]
この際にニミッツとヴァンデグリフトが提案したのは、頑強な日本軍防衛線の背後に、サイパンで待機中の第2海兵師団の残存部隊を上陸させて、防衛線の背後をつくというものであり、レイテ島の戦いのオルモック上陸作戦での成功を再現できると海兵隊も乗り気であった[83]
しかし、バックナーは補給の問題[注 11]と、「そんなことをしたらアンツィオ上陸作戦より酷い事になる」という懸念より、その提案を取り上げなかった。後にヴァンデグリフトは「バックナーは(上陸作戦に)あまり関心を示さなかった」とこの時のやり取りを振り返っている[85]
バックナーは、父親も南北戦争で南軍の将軍として従事した軍人家系の家に生まれたが、その厳格な性格はウェストポイント陸軍士官学校校長時代から定評があり、圧倒的物量により正面突破する戦術を好んだ[86]
1943年には司令官として、アリューシャン列島攻略作戦を正攻法で成功させた為、沖縄戦についても、正攻法を貫き通す意向であった。ニミッツらの提案以外でも、同じ陸軍の第77師団アンドリュー・D・ブルース少将からも、自らのレイテ島オルモックでの成功体験より同様な提案あっていたが、きっぱりと撥ね除けている[85]。バックナーは様々な作戦の提案を取り上げることなく、日本軍防衛線正面からの正攻法を採り、結局ニミッツも陸海軍の対立を懸念し、バックナーの正攻法を受け入れた[83]。しかし、この判断は後に米軍に多大な出血を強いることとなり、マスコミを初めとした強いバッシングを受け[83]、バックナー自身の運命をも左右させる事となった。
日本軍は海上においても、4月9日船舶工兵第26連隊の決死隊50人が神山島に潜入し、野戦重砲陣地の破壊を報じた。これに合同して海上挺進第26戦隊のマルレ40隻が出撃し、フレッチャー級駆逐艦「チャールズ・J・バジャー」を大破させた[87]。その後も、4月中に延べ60隻以上のマルレが出撃し、駆逐艦「ハッチンス」を擱座させ(後に廃艦)、数隻の歩兵揚陸艦や哨戒艇を撃沈している。

沖縄戦の続きです。

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 地獄の死闘をする日本軍と米軍。我々は先人の歴史をもっと知らねばならない。
特に現代日本に大きな禍根を与えた明治以降から大東亜戦争の検証が必要だ。その前の歴史全般、戦国時代などは本当は二の次だ。
 南部の戦いで天皇が現地の状況を何も知らぬのに「現地軍は何故攻勢に出ぬか」と下問した」とあるがそれによって多くの将兵が無駄に死ぬこととなった。
 
 
沖縄本島南部の戦い[編集]
32軍の方針は前述の通り「軍主力は沖縄本島南半部を徹して国頭郡山岳地区に転位して戦略持久を策する」[63]との首里城に置かれた司令部を中心とした沖縄本島南部での持久戦術であり、沖縄戦の殆どの期間が南部攻略に費やされた。その為、南部での戦いを前・中・後期に分け記述する。
沖縄本島南部の戦い前期 嘉数高地陥落まで[編集]
嘉数高地における戦闘の詳細については「嘉数の戦い」を参照
南部のアメリカ軍の進撃は順調で、当初は予定通りのスケジュールで前進していた。
海軍上陸軍司令官リッチモンド・K・ターナー中将が太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ大将に「私の頭がおかしくなったのかもしれないが、当地における日本軍は戦闘を行う意思がない模様である」と報告し、ニミッツから窘められている[64]
嘉数高地で撃破されたM4中戦車
その中で独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)は孤軍奮闘、圧倒的なアメリカ軍相手に42日〜4日まで野嵩及び新垣のラインでアメリカ軍の進撃をよく阻止し、十分に役割を果たし撤収している[65]
アメリカ軍は日本軍の抵抗を排除しながら首里(現那覇市の一部)の司令部を目指して南進するが、途中には守備軍が丘陵地形と陣地で待ち構えていた。そして、45日にはその前哨基地であるピナクル(日本軍呼称「161.8高地」)に達したが、同高地を防衛する独立歩兵第147大隊第一中隊(長谷川中隊)を主力とするわずか150名の日本軍は、圧倒的な米軍を相手に構築した地下陣地を活用し78回米軍の攻撃を撃退したが、アメリカ軍は地下陣地に爆薬から黄燐手榴弾までを使用して攻撃、長谷川中隊の生存者はわずか30名となった為撤退し、6日にはピナクルはアメリカ軍の手に墜ちた(ピナクルの戦い英語版[66]
 
アメリカ軍はその後全線に渡って進撃を開始したが、47日には各所で日本軍の頑強な陣地に阻まれ、進撃は停止した。第7歩兵師団はレッドヒル(日本軍呼称「北上原陣地」)を攻撃したが、歩兵と援護の戦車10両と装甲車5両のアメリカ軍部隊に対し、日本軍は対戦車地雷と梱包爆弾により戦車3両をたちまち撃破、アメリカ軍歩兵を砲撃と機銃掃射で後退させ戦車を孤立させて、戦車を肉弾攻撃し撃退している[67]。この歩兵と戦車を分離させて撃破する戦術は、沖縄戦では他の戦闘でも多用されることとなった[68]
伊江城山の日本軍陣地、各砲座や銃座は地下坑道や壕で結ばれ、山全体が要塞化されている状況が記載されている。この様な要塞が至る所に構築された。
沖縄戦のアメリカ軍には、太平洋戦域の各戦場を戦い抜いてきた歴戦の兵士も多かったが、沖縄の日本軍地下陣地が、今までの戦場で見てきた日本軍陣地における巧妙や複雑さなどの利点を全て兼ね備えていると痛感させられた。陣地は網の目の様な地下坑道で連結され、地下可動性が高く補給や兵員の補充も容易で、防御から攻撃への切り替えもできた。また、出入り口は巧妙に擬装されており、攻撃しているアメリカ軍の後方に不意に出現し、背後から攻撃する事も可能であった[69]
 
日本軍の陣地構築に際しては、コンクリートなどの資材は不足していたが、沖縄の南部地域は珊瑚隆起の固い地面も多く、その強度はコンクリート並みであった為に、その固い地層を活用して地下陣地が構築され、アメリカ軍の砲爆撃でも容易には破壊されなかった。また、多数存在した天然の洞穴や、沖縄独特の墓である亀甲墓がその堅牢な構造からトーチカ代わりに使われ陣地の一部となった[70]
アメリカ陸軍は沖縄の頑強な日本軍陣地を「常軌を逸して防衛された陣地」と評している[71]。また、海兵隊員のある士官は「土に埋まった戦艦のようだった」とも評した[72]
その沖縄の日本軍の陣地の中で、第96師団が攻撃した嘉数高地が、地形要因にも恵まれもっとも強固な陣地となり、第96師団を初めとしてアメリカ軍は多大な出血を強いられる事になった(嘉数の戦い)。日本側はその強固な陣地を最大限活用し、賀谷支隊をはじめ、主陣地を守備した第62師団、第2線陣地を守備した第24師団が激しい抵抗をしている。特に48日〜12日に嘉数高地を攻撃した米陸軍第96師団と、同時に和宇慶高地を攻撃した同第7師団は日本軍の巧みな防衛を前に合計2,880名の死傷者を出したが、日本軍の防衛線はビクともしなかった[64][注 9]
 
ここまで大本営陸軍部は、第32軍の意図する「出血持久作戦」をよく理解していたはずであった。しかし、43日の戦況上奏の際に、昭和天皇(大元帥)が梅津陸軍参謀総長に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と下問した。
 その下問を受けて梅津は「第32軍に適切な作戦指導を行わなければならぬ」と考え[73]、大本営陸軍部は第32軍に対しアメリカ軍に奪われた北・中飛行場の奪回を要望する電令を発した[74]。さらに沖縄戦を最後の決戦と位置づける連合艦隊からも、北・中飛行場を奪還する要望が第32軍に打電されている[75]。これらの督促を受けて、長第32軍参謀長は攻勢を主張、八原高級参謀は反対するも、牛島軍司令官は北・中飛行場方面への出撃を決定した。48日と12日に日本軍は夜襲を行ったが、第62師団の2個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった[76]
 
夜襲失敗の状況などを考え、13日には第32軍の方針は一旦は八原高級参謀主張の持久方針に固まった[77]
日本軍の夜襲後も、アメリカ軍は激しい攻撃を繰り返した。特に419日に第96・第7・第27師団の3個師団で行われた総攻撃は、日本軍の激しい抵抗により第27師団の、30両のM4中戦車22両を撃破され、第24軍団全体でも720名の死傷者を出す大損害を被って撃退されている[78][72]
その後膠着状態が続き、アメリカ軍の攻撃は完全に行き詰った様に見えたが、アメリカ軍は日本軍に艦砲射撃を含む砲爆撃を徹底的に浴びせ[注 10]、多数の戦車を伴い、防衛線全線に渡って攻撃を継続した。特に、ペリリュー島の戦い以降、日本軍陣地の攻撃手段として行ってきた「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」での陣地攻撃により、陣地に籠る日本兵の死傷者も激増していた。
 
これは日本軍が「馬乗り戦法」と名付け恐れた戦術であり、まずは日本軍陣地の出入り口を見つけると、戦車の支援と激しい集中射撃で日本軍を陣地の中に追い込み、歩兵が通気口を見つけそこからガソリンやナパームジェルを流し込み、火災で日本兵を殲滅し、最後に大量の爆薬で陣地ごと吹き飛ばすといった、圧倒的物量を誇る米軍ならではの戦法であった[80]。善戦していた日本の第62師団も大きな損害を被っており、第32軍は423日に戦線整理として、一部の部隊に撤収と陣地変換を命じている。19日〜23日までの激戦で第32軍も戦死2,490名負傷2,665名の損害を被っていた[81]。これによりアメリカ軍はようやく首里防衛ラインの外郭を突破し、対する日本側第32軍は予備兵力の第24師団独立混成第44旅団主力も投入し、後退した第62師団と合わせて防衛線を再構築した。
嘉数高地で陸軍が苦戦している間、アメリカ海軍の将兵は日本軍の激しい特攻に曝されており、41日〜423日の間に60隻の艦船が撃沈破されて、人的損失も1,100名戦死、2,000名以上負傷に達していた。
太平洋艦隊チェスター・ニミッツ司令長官は、陸軍の進撃速度のあまりの遅さに、バックナーは陸軍の損害を軽減させるために、海軍を犠牲にしてわざと慎重な手法を使っていると疑っており、現場の指揮には口を挟まないという方針を崩して、バックナーの作戦指導に介入する為に422日にアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官を連れて、自ら沖縄に出向いている[82]。バックナーは慎重な作戦を好んだが、海軍や海兵隊よりは積極性に欠けるとの評価で不満が燻っており、普段温厚なニミッツも、会談中にあまりにも慎重なバックナーの姿勢に激高し「他の誰かを軍司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば海軍はいまいましいカミカゼから解放される」と詰め寄っている[72]
 
この際にニミッツとヴァンデグリフトが提案したのは、頑強な日本軍防衛線の背後に、サイパンで待機中の第2海兵師団の残存部隊を上陸させて、防衛線の背後をつくというものであり、レイテ島の戦いのオルモック上陸作戦での成功を再現できると海兵隊も乗り気であった[83]
しかし、バックナーは補給の問題[注 11]と、「そんなことをしたらアンツィオ上陸作戦より酷い事になる」という懸念より、その提案を取り上げなかった。後にヴァンデグリフトは「バックナーは(上陸作戦に)あまり関心を示さなかった」とこの時のやり取りを振り返っている[85]
バックナーは、父親も南北戦争で南軍の将軍として従事した軍人家系の家に生まれたが、その厳格な性格はウェストポイント陸軍士官学校校長時代から定評があり、圧倒的物量により正面突破する戦術を好んだ[86]
1943年には司令官として、アリューシャン列島攻略作戦を正攻法で成功させた為、沖縄戦についても、正攻法を貫き通す意向であった。ニミッツらの提案以外でも、同じ陸軍の第77師団アンドリュー・D・ブルース少将からも、自らのレイテ島オルモックでの成功体験より同様な提案あっていたが、きっぱりと撥ね除けている[85]。バックナーは様々な作戦の提案を取り上げることなく、日本軍防衛線正面からの正攻法を採り、結局ニミッツも陸海軍の対立を懸念し、バックナーの正攻法を受け入れた[83]。しかし、この判断は後に米軍に多大な出血を強いることとなり、マスコミを初めとした強いバッシングを受け[83]、バックナー自身の運命をも左右させる事となった。
日本軍は海上においても、49日船舶工兵第26連隊の決死隊50人が神山島に潜入し、野戦重砲陣地の破壊を報じた。これに合同して海上挺進第26戦隊のマルレ40隻が出撃し、フレッチャー級駆逐艦「チャールズ・J・バジャー」を大破させた[87]。その後も、4月中に延べ60隻以上のマルレが出撃し、駆逐艦「ハッチンス」を擱座させ(後に廃艦)、数隻の歩兵揚陸艦や哨戒艇を撃沈している。
 
 
沖縄本島南部の戦い中期 日本軍総攻撃の失敗 首里防衛線崩壊まで[編集]
(日本軍総攻撃)[編集]
32軍は夜襲失敗以降は、八原博通高級参謀の持久戦術により、米軍に多大な損害を与えて進撃を遅滞させてきたが、損害は増大し主陣地も逐次圧迫され、第32軍首脳部は今後の戦況の推移に憂慮していた。
429日に長勇参謀長は八原ら参謀を集め「今後の戦況の見通しと軍の攻勢」について幕僚会議を開いた。その席で長は「現状をもって推移すれば、軍の戦力は蝋燭のごとく消磨し、軍の運命が尽きることは明白、攻撃戦力を保有している時期に攻勢を採り、運命の打開をすべき」と反転攻勢を主張した[88]
八原は「攻勢をとれば全滅の運命は必至という状況を冷静に受け入れ、今までの戦略持久を堅持すべきである」こと、「防御陣地を捨てて攻勢に転じても圧倒的火力優勢な米軍を撃退することは不可能であり、失敗すれば戦略持久すら不可能となり、本土攻撃までの持久日数が短小となる」と強く主張し反対したが[89]、他の参謀らは長を熱烈に支持した。牛島満32軍司令官も、かねてよりの中央からの督戦も気に病んでおり、長らの攻勢の意見を取り上げ同日に総攻撃を決定した。51日には最後まで反対していた八原を呼び「既に軍は全運命を賭けて攻勢に決したのだから、よろしく気分一新し、全軍の気勢を殺がぬよう注意せよ」と温厚な牛島にしては異例の叱責を行っている[90]
日本軍の夜襲に対して砲撃するアメリカ軍重砲
作戦会議決定により54日・5日に、日本軍は反転攻勢に転じた。第32軍は、温存していた砲兵隊に砲撃を開始させ、第24師団と戦車第27連隊などを繰り出して普天間付近までの戦線回復を図った。日本軍は一晩に5,000発のかつてない規模での砲撃を加え、船舶工兵第2326連隊と海上挺進第26-29戦隊は、舟艇で海上を迂回しての逆上陸を試みた。また第32軍の要請により、大本営は空からの援護として菊水五号作戦と第六次航空総攻撃を実施した。
 
日本軍の猛烈な砲撃にアメリカ軍は一時混乱に陥ったが、あらゆる火砲や火器を集中して総攻撃してきた日本軍を攻撃し、日本兵は得意の白兵戦に持ち込む事もできずバタバタと斃された[91]。また日本軍の発砲地点を観測機により発見して効果的に反撃し、対砲兵戦により59門を破壊したと記録している[92]。また、日本の戦車第27連隊は95式軽戦車の殆どが撃破され[93]、残存戦車6両となり連隊はほぼ壊滅するなど、日本軍の総攻撃は大失敗に終わった。日本軍の遺棄死体は6,237名にも及び、殆ど無傷の予備兵力であった第24師団も大打撃をうけ、隷下歩兵第32連隊などは戦力が30%以下となった[94]。アメリカ軍の損害は、日本軍の攻勢正面で死傷者714人を生じている。この損害は、日本軍の攻勢正面から外れた地域で侵攻中だった第1海兵師団が54日だけで352人の死傷者を出したのと比べると相対的に軽い[95]
この結果よりアメリカ陸軍は、この総攻撃の提案者の長に対し、「54日から5日にかけての日本軍の反撃は、長より八原の戦術の方が優れている事を示した。長が自信過剰になって思い付き、不適切に実行した攻撃は、途方もない大失態だった」と厳しい評価をしている[96]。総攻撃の失敗により、沖縄戦は二週間以上短縮されたと分析されているが、この失敗に懲りた牛島は、八原に目に涙を浮かべながら謝罪し、今後は八原の助言を重んじると告げている[97]
一方で総攻撃への空からの援護であった特攻は、相応の戦果を挙げており、駆逐艦「モリソン」「ルース」、中型揚陸艦LSM(R)-190およびLSM(R)-194が撃沈され、護衛空母「サンガモン」、軽巡洋艦「バーミンガム」が大破するなど17隻が撃沈破され682名の死傷者を出した[98]。この内「バーミンガム」への特攻の瞬間は、地上で戦っていた海兵第一師団からも目撃できたという[99]
 
32軍の総攻撃失敗から数日後の58日にナチスドイツが無条件降伏したが、沖縄のアメリカ兵たちは誰も大して関心を払わなかった。ナチスドイツが降伏しようが、総攻撃失敗で大損害を被ろうが日本軍は今までの様に沖縄でも全滅するまで戦うだろうと確信しており、元海兵隊員で戦後に生物学者となったユージーン・スレッジは当時「ナチスドイツなど月より遠い話だ」と考えたと回想している[100]。海兵隊員らの予想通り、この後日本軍は八原の作戦指揮の下、無謀な攻撃はせず、徹底した持久戦術をとった為、米軍の損害が増大していった。
(シュガーローフの死闘)[編集]
詳細は「シュガーローフの戦い」を参照
シュガーローフ・ヒル(安里52高地)
バックナー中将は、日本軍が予備隊を使い果たした状況であるのを踏まえ、5月中が首里へ向けて総攻撃を行う好機と判断した[101]。第6海兵師団を中心とする第3水陸両用軍団は、島北部の掃討任務を第27歩兵師団と交代して511日までに南へ転進した。これによりアメリカ軍は、西から順に第6海兵・第1海兵・第77・第96師団を並べ、第7師団を予備隊に控えた態勢で総攻撃を開始した[102]
バックナーは日本軍は精鋭部隊の殆どを総攻撃失敗で失ってしまった、という前提の上で「今度の攻勢では、特に変わった戦闘はない。新鋭師団も十分だから、1個師団は常に休養が取れる」と考え、幕僚らも「新鋭の海兵師団をもってすれば、迅速に日本軍陣地を突破できる」と楽観的な見通しを持っていた[103]
しかし、日本軍は牛島中将が、総攻撃の失敗の教訓として「首里を包含し、両翼を東西海岸に委託する現陣地に拠り、米軍の出血を強要しつつ、あくまでも持久し」[104]と徹底した持久作戦を指示、八原高級参謀も「我々はひたすら陣地内に潜み、可能な限り沢山の米兵を殺すべし」[105]と徹底しており、バックナーらの見通し通りとはならず、戦いはこれまでを遙かに上回る激戦となった
 
バックナーの作戦は、首里防衛線の右翼を第3水陸両用軍団の 第1海兵師団第6海兵師団、左翼を第24軍団の陸軍第96師団と第77師団が突破し、中央の首里城にある第32軍の司令部を包囲しようというものであった[106]。中でも、前半戦は北部戦線にいた第6海兵師団は他師団と比較すると損害は少なく、また精鋭師団との自負もあり、師団長のレミュエル・C・シェファード少将は第三水陸両用軍団司令官のロイ・ガイガー中将に対し「海岸沿いを迅速に進撃し、首里城を回り込んで、沖縄の南端まで達してみせる」と豪語し、第一海兵師団と一体化して進撃するという作戦を変更させている[107]
5月11日に第6海兵師団は日本軍の激しい抵抗を受けながらも安謝川を渡河し、首里西方の安里付近に進出したが、そこの三つの高地(シュガーローフ、ハーフムーン、ホースショア)の日本軍陣地に進撃を止められた。この三つの丘はシュガーローフを頂点、他の二つが底辺とする三角形を構成し侵攻軍に矛先を向け、三つの丘は相互に相補って強固な防衛線を構築していた[108]。12日にシュガーローフを最初に攻撃した第22海兵連隊のG中隊は7名の将校と236名の兵士で構成され、戦車11両を先頭に進撃してきたが、集中砲撃を浴びたちまち戦車3両が炎上、退却中に日本軍の猛攻により、夜までには総兵力は75名となり壊滅した[109]
日本軍の構築した反斜面陣地
この後も、シュガーローフは一帯は海兵隊史上最大の激戦となり、反斜面陣地を軸とした強固な陣地を守る日本軍の独立混成第44旅団配下の部隊と激しい攻防戦を繰り広げた(シュガーローフの戦い)。反斜面陣地とは、敵と相対する斜面ではなく反対斜面に構築された陣地であり、反対斜面にあるのでアメリカ軍の砲撃では中々破壊されず、アメリカ軍が山頂に達すると、反対斜面の陣地で砲爆撃をやりすごした日本軍が、迫撃砲や擲弾筒や手榴弾投擲で山頂のアメリカ軍を攻撃したり、網の目のように張り巡らされた地下坑道を伝ってきた日本軍が背後から攻撃してくるといったもので、今までのアメリカ軍が経験したことがない戦法であった[110]。巧みな日本軍の陣地構築で「死傷者が続出しているのに日本兵の姿は全く見えない」「丘(シュガーローフ)から弾は飛んでくるが日本兵は全く見えないので、丘を相手に戦ってる気分だった」という状況であった[111]
 
特にアメリカ軍に多大な出血を強いたのは、日本軍の多数の火砲であった。シュガーローフを防衛していた独立混成第44旅団は8門の10cm野砲と4門の山砲を装備し、他にも多数の迫撃砲や擲弾筒などの火砲も併せて、進撃してくるアメリカ軍に激しい砲撃を加えている。砲撃は正確であり、海兵隊員は「やつら(日本軍)は牛乳瓶の中にでも弾を撃ち込むことができた」とその正確性に驚愕し、後に編纂された海兵第6師団の戦史では「日本軍の砲撃はこれまで出会った事が無いほど、優れた統制と正確さの下で実施された」と纏められている[112]。ある時には観測地点で敵情観察中の海兵隊将校らのど真ん中に砲撃を命中させ、大隊長と戦車隊将校ら5名を戦死させ、中隊長3名に重傷を負わせている[113]
 
5月12日以降も断続的にシュガーローフへの攻撃は続けられていたが、いずれも日本軍に撃退された。16日、第6海兵師団は、2個連隊をつぎ込んでシュガーローフに対する最大規模の攻撃を仕掛けた[114]。第29海兵連隊がハーフムーンを攻略して、シュガーローフへの側面からの砲撃を遮断し、その後に第22海兵連隊がシュガーローフを攻略するという作戦であった[115]
 
しかし激しい砲撃や射撃の中で、
海兵隊はシュガーローフやハーフムーンに中々近づく事ができず、支援の戦車も次々に撃破された。シュガーローフの戦いでは主に対戦車地雷と一式機動四十七粍速射砲によって多数のM4中戦車が撃破された。日本軍は速射砲を巧みに擬装して米軍戦車を一旦やりすごした後に装甲の薄い後方から攻撃し、貫通した砲弾と装甲板が車内を跳ね回り乗員を殺傷した。アメリカ軍はその対策として、最後尾の戦車は砲塔を後ろ向きにして警戒していた

沖縄戦の続きです。

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この頃に台湾の第10方面軍より、傍受したアメリカのラジオ・ニュースの内容が知らされたが「天久台での海兵隊の損害は甚大で、250名の中隊が炊事兵まで繰り出して戦い、ついには8名になった」と言うもので、第32軍は予想以上にアメリカ軍を苦戦させていることが判り狂喜した。しかし八原は「あのバカげた総攻撃さえなければ、今こそ米軍に甚大な損害を与え撃退できたのに」と悔やんだ[121]
海兵隊の損害も甚大であったが、日本軍の損害も大きく、日に日に日本軍の抵抗は弱まっていき、ついに5月19日の11回目の攻撃で陥落した。しかしアメリカ軍の払った代償は大きく、死傷者は2,622名にも及び、他1,289名の神経症患者も出すこととなった[122]。特に将校の死傷率が高く3名の大隊長が戦死、11名の中隊長が死傷するなど死傷率は70%にも及んだ[123]。圧倒的なアメリカ軍を相手に、シュガーローフで10日間も足止めした日本軍の戦術は、戦後に米海兵第6師団の教本で「教科書通りの陣地防御戦術」と称賛された[124]
(首里防衛線の崩壊)[編集]
日本軍の潜む洞窟を火炎放射器で攻撃するアメリカ兵
海兵第4師団の隣を進撃していた海兵第1師団も進撃の行く手には、安羽茶地区、沢岻高地、沢岻村、大名高地、大名村があったが、これらは全て堅く陣地化され、互いに支援しあえる様に緻密に設計された縦深防御の精巧な防衛システムが構築されていた[125]。第一海兵師団は5月6日に安羽茶地区のナン高地(日本軍呼称:50米閉鎖曲線高地)に達したが、日本軍は陣地に立て籠もり抵抗、一式機動四十七粍速射砲により3両の戦車が撃破されるなどで2回撃退されたが、9日にはアメリカ軍は得意の「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で陣地ごと爆破し、ナン高地を制圧した[126]
次いで沢岻高地、沢岻村も、攻撃してきた米海兵第七連隊に対して、日本軍2個大隊が激しく抵抗したが12日にアメリカ軍が占領した[127]
14日に海兵第1師団は大名高地に達した。大名高地とそれに隣接する高地は首里直前に位置し、首里防衛線の中核を成しており、その堅牢さはそれまでとは比較にならなかった[128]。12両の戦車を先頭に第5海兵連隊が攻撃したが、日本軍の速射砲の攻撃で戦車2両が撃破され、迫撃砲の集中射撃で多数の死傷者が出たため、第7海兵連隊は戦艦「コロラド」の艦砲射撃の支援を要請し、40.6cm砲の砲撃で日本軍の速射砲陣地を撃破し、漸く前進できた[129]
大名高地付近に進出できた第1海兵師団は、17日より大名高地に対して攻撃を開始した。アメリカ軍は艦砲や爆撃から野砲・迫撃砲・戦車による火炎放射に至るまであらゆる火器を集中し大名高地の日本軍陣地を攻撃したが、日本軍よりの応射も凄まじかった。第1海兵師団はペリリューの戦いの激戦も潜り抜けてきたが、大名の戦いはペリリューとは別次元の激しさだったと海兵隊員らは感じたという[130]
20日は第一海兵師団は2個大隊により二手から大名高地を攻撃、その内の第三大隊は一つ一つ陣地を「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で撃破しながら進撃、ナパームで高地を焼き払い、日本兵を炙り出して掃討しつつ一日でようやく60m進んだが、その後丘陵部を25m前進すると、日本軍の猛烈な反撃でまた元の陣地に押し換えされた[131]
21日深夜、一部奪われた大名高地を奪還すべく、日本軍独立歩兵第22大隊が反対側の険しい崖をロープや十字鍬でよじ登り夜襲をかけたが、迫撃砲の集中射撃と大量の手榴弾投擲により140名の戦死者を出して撃退された[132]
豪雨によりできた水たまりに水没するM4中戦車
その後6月21日より、沖縄には10日間に渡って雨が降った。地面はぬかるみ、アメリカ軍の車両の運用が困難となった為に、大名高地を含みアメリカ軍の攻撃は一時停滞した[133]
縦深防御システムは陸軍各師団の進撃路にも構築されており、陸軍も海兵隊と同様にもがき苦しんだ。第77師団は首里へ続く曲がりくねった道を前進したが、数メートルおきに日本軍の陣地があり、同師団の第305歩兵連隊は損害に構わず押し進んだ結果、5月11日〜15日の間に戦力が1/4まで落ち込んでしまった[134]
米軍は通常、午前中に進撃して、午後から陣地を構築して、夜間は陣地に籠り日本軍の夜襲を警戒するというスケジュールであったが、第77師団は少しでも前進速度を上げる為に夜間攻撃を強行し、日本軍と激しい白兵戦を演じている[135]。第307歩兵連隊は日本軍の重要拠点石嶺丘陵の陣地に夜襲をかけ、頂上から日本軍の洞窟陣地を攻撃し、就寝していた日本兵多数を殺傷したが、その後日本軍の激しい反撃を浴び、3日間山頂に孤立し、救出された時には夜間攻撃に参加した204名の内156名が死傷していた[136]
石嶺丘陵の内でもっとも頑強な陣地は、その形状から、皿にもったチョコレートドロップに見える事から、アメリカ兵にチョコ・ドロップという名付けられた小山(日本軍呼称:西部130高地)であったが、チョコ・ドロップを攻撃してきたアメリカ軍第77師団の第306歩兵連隊は、速射砲第二大隊[注 12]の一式機動四十七粍速射砲により次々と戦車を撃破され[137]、激しい砲火で歩兵の死傷も増大し、死傷者は471名にも上ったことから、第307歩兵連隊と交代させられることになった[138]
チョコ・ドロップの日本軍はこの後もアメリカ軍を何度も撃退したが、最後は洞窟を封鎖されて「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で制圧された。
最初に首里戦線の突破口を開いたのは一番端を進んでいた陸軍第96師団であった。第24軍団長ジョン・リード・ホッジ少将は、首里により近い高地を攻撃し、一気に首里に近づく作戦を主張していたが、第96師団師団長ブラッドリー少将が地形を偵察の上で、より高いコニカルヒル(運玉森)の攻略が優先させた方がよいという意見であった[139]
5月10日に第96師団の第383歩兵連隊がコニカルヒルに対して攻撃を開始した。その前にはアメリカ海軍は念入りに膨大な量の艦砲射撃を加えた為、兵士たちはこの山を「100万ドルの山」と呼んだが[140]、第24師団の金山大佐率いる歩兵第89連隊が主力として布陣した日本軍の陣地は、他の戦場と同様に砲爆撃では破壊できなかった。第383歩兵連隊が前進すると日本軍から激しい砲撃を浴び、容易に前進できなかった。しかし大きな損害を被りながらも、同連隊は13日までにはコニカルヒルの頂上を望める点まで進撃してきた。その報告を受けたホッジは「これが成功したら首里の鍵を握ることができる」と喜び、総司令官バックナーも自ら連隊長の元を訪れ激励している[141]
第383歩兵連隊は同じ第96師団の第381・第382歩兵連隊と共同で、最高地点の犬歯山(形状が犬歯のようにギザギザしていることよりアメリカ軍が呼称)を目指して、日本軍の激しい抵抗を排除しながらようやく21日に山頂に到達、最後は日本軍との手榴弾の投げ合いと白兵戦を制し、ついに制圧した。この際に犬歯山頂上で日本軍と白兵戦を行った第三大隊だけで1,100個の手榴弾を一日で使用し、大隊保有の手榴弾を全て使い果たしている[142]
日本軍の陣地攻略に絶大な威力を発揮したM4中戦車火炎放射型(硫黄島で戦闘中の写真)。損害も大きく沖縄戦で一個大隊分の車輌が撃破された。
以上の通り、首里防衛線全線でアメリカ軍は日本軍の防衛線を突破したが損害は甚大であった。首里戦線の二か月弱の戦闘で、第24軍団と第三水陸両用軍団の死傷者は合計で26,044名であったが、他に戦闘ストレス反応による傷病兵も海兵隊6,315名、陸軍7,762名の膨大な数に及んだ[143]。戦車も陸軍だけで(海兵隊のデーターなし)221両が撃破されたが、これは沖縄戦に投入されたアメリカ陸軍戦車の57%にも上り、またその内には貴重で補充ができなかった火炎放射戦車も12両含まれていた[144]
バックナーがとった首里防衛線への正面からの両翼包囲作戦は、そのあまりの損害の大きさにマスコミから「大失敗」とか「パールハーバー以上の軍事上の無能な作戦の悪例」と酷評される事になった[145]

沖縄本島南部の戦い後期 首里陥落 第32軍撤退まで[編集]

第32軍は運玉森方面(アメリカ軍呼称 コニカルヒル)にアメリカ軍が攻勢を強めていることを重く見て、運玉森が攻略されれば、一気に首里防衛線は崩壊すると憂慮していた。その為、5月21日に八原博通高級参謀が軍参謀を召集し、今後の方針として下記の各案の利害得失を協議した[146]
  • 首里陣地に籠り最後の決戦を行う 軍の構想は平素よりこの案が元であり、各陣地もこの案で整備されている。しかし生存の将兵は未だ50,000名はいると推定され、この兵を圧迫された首里陣地内に配置すれば米軍の砲爆撃の好餌となってしまう。
  • 知念半島撤退案 知念半島は四方を海に囲まれ対戦車戦闘に有利である。しかし洞窟の数が少なく残存兵力を収容するのが困難であり、既集積物資も少ない。
  • 喜屋武半島撤退案 海正面は30〜40mの断崖で防御地域として良好であり、自然・人工の洞窟が豊富で残存兵力の収容も可能で、第24師団の軍需品が集積されている。
第62師団長などは首里決戦案を主張したが、各兵団長の意見を聞いた上で、翌22日に牛島満軍司令官は、より長くアメリカ軍を沖縄に足止めすべく、地形堅固な喜屋武半島への撤退による持久作戦継続を決心し、軍主力の後退は29日と予定、その前に軍需品や負傷者の後送をただちに行うよう指示した[147]
アメリカ軍の進撃は、5月末より降り出した豪雨で一時停滞していたが、23日には、第96師団が制圧したコニカルヒルより、第7師団の第184連隊と第32連隊が首里を包囲するため前進した。遭遇した日本軍は敗残部隊が多く、両連隊に幾度となく攻撃をしかけたが、撃退され両連隊の進撃を阻止できなかった[148]。しかし第32連隊が、首里と沖縄南部を結ぶ幹線道路と接する重要な高台地に達すると、日本軍は残存砲兵戦力の総力を挙げての激しい砲撃と、第24師団第89連隊の敢闘により、多数の損害を出させて撃退している[149]。24日には第六海兵師団の偵察部隊が那覇に進出している。既に砲爆撃により廃墟となっていた那覇には日本軍の姿はなく、同日にアメリカ軍の手に落ちた。
焦土と化した那覇市街(1945年5月)
コニカルヒルを完全制圧した第96師団や、シュガローフやハーフムーンを突破した海兵隊が首里に近づき、首里包囲網が完成されつつあった26日に、海軍の偵察機が日本軍の大規模な移動を発見した。その報告を聞いたサイモン・B・バックナー・ジュニア中将は、日本軍の意図を察して、各軍団に「日本軍は側面を脅かすわが軍に対し反撃を加えつつ、新たな陣地に撤退している兆候が見られる。このような敵の行動に対し速やかに全力で圧力を加え、日本軍を不安定な状態にし、敵の意図を妨害すべし。形ばかりの攻撃では再び敵の新たな陣地構築を許すことになる。」と厳命し、移動している日本軍45,000名に艦砲・空爆・砲撃で徹底攻撃を加えたが、全く撤退を予測しておらず追撃ができなかったこと、5月末より降り出した雨が激しくなった事などの要因で、完全に第32軍の撤退を阻止することはできず、30,000名が南部で新たな陣地にまた防衛線を構築することができた。首里を包囲しつつあった第24軍と第3水陸両用軍団の脇をすり抜けての撤退であり、損害は大きかったが奇跡的な陣地移動であった[150]。 牛島司令官ら第32軍首脳は、5月27日、豪雨と夜陰に紛れて徒歩で首里を撤退し南風原町津嘉山の壕へ向かった。さらに30日未明には新しい司令部となる摩文仁に移動した。[151]
しかし、この第32軍の南部撤退は、南部に戦火を逃れてきた多くの沖縄島民を戦争の惨禍に巻き込むことになってしまい、未だに強い批判が向けられる。八原は、当時としては作戦的には最良と判断したが、結果的に作戦優先で住民避難を考慮できず夥しい犠牲を生じさせた事を終生悔やみ「沖縄の人たちにすまない、あわせる顔が無い」と二度と沖縄の土を踏むことが無かった[152]
わずかばかりの守備隊が残った首里城はアメリカ軍の手に落ちたが、難攻不落の要塞だった首里城も、アメリカ軍の艦砲射撃などでいたる所が破壊されており、日本兵の遺体が散乱していた。その光景を見たバックナーは「これからは掃討戦に移ることになる。これは激しい戦闘が起こらないわけではないが、既に日本軍は再び強固な防衛線を築く余力は残っていない」と部下将兵に宣言したが、またもこの見通しは大きく外れ、アメリカ軍は日本軍の組織的な抵抗を完全に制圧するためにあと3週間もの期間を要することとなった[153]
南部への撤退に際しては、混乱もあっている。大田実少将率いる海軍部隊は、26日に真榮平に移動したが、第32軍よりの、軍主力の移動の援護をした後に6月2日以降撤退せよという命令を、命令書の表現が曖昧であった為誤解していた事が判明し、大田少将は28日夜に小祿の旧陣地に復帰したが[154]4日には進撃速度を上げたアメリカ軍が海軍部隊の守る小祿飛行場陣地まで進撃してきた。
海軍部隊である沖縄方面根拠地隊は、主に飛行場設営隊などを陸戦隊に再編成したもので本来の戦闘部隊は少なく、航空機用機銃を陸戦用に改造するなどの努力はしたものの装備は劣悪であった。比較的戦力のある4個大隊を陸軍の指揮下に入れて首里戦線に送った後、本隊は陸軍守備隊と別行動をとり、小禄地区に篭って抗戦しており、接近したアメリカ軍駆逐艦「ロングショー」と掃海艦とタンカーを海岸砲で砲撃して沈めるなどの戦果を挙げていたが[155]、26日の撤退の際に残存の重火器を破却しており、残存の戦闘力は低かった。それでも大田少将は死守を決意し、5日には第32軍司令部に対し「海軍は包囲せられ撤退不能のため、小祿地区にて最後まで戦う」と打電している[156]。牛島中将は大田少将に南部への後退命令を再度発し、自ら懇切な親書を認めたが太田少将の決意は固く翻意は無理であった[157]
大田少将は6月6日に各所に訣別の打電をしているが、中でも海軍次官宛の『…沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』という打電は今日でも有名である。小祿を防衛する海軍部隊はわずか2,000名足らずであったが、航空機より外した機銃などの兵器を活用し、進撃してきた米海兵第六師団に痛撃を与えた。アメリカ軍は小祿での海軍部隊の抵抗を「(装備・訓練が足りず勝利の見込みもないが)アメリカ軍に高い犠牲を払わせるために自陣を死守するという強い意志を持っていた敵軍の物語」と抒情的に表現している[158]
海軍部隊の抵抗は激しく、第六海兵師団は大きな損害を被ったが、11日には二個連隊により海軍部隊の陣地を包囲した。大田中将は11日に牛島司令官宛てに「敵戦車群は我が司令部洞窟を攻撃中なり、根拠地隊は今11日2330玉砕す、従前の厚誼を謝し貴軍の健闘を祈る」と打電した後に13日に部下参謀5名と共に自決した[159]。小祿の防衛戦は10日間も続き、アメリカ軍の死傷者は2,608名にも上った。また、小祿では12日と13日に沖縄戦で初めて159名の日本兵がまとまった集団として投降し捕虜となっている[160]

沖縄戦の続きです。

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沖縄攻略作戦の艦隊指揮官であった第5艦隊司令のレイモンド・スプルーアンス中将は、配下の艦隊のあまりの特攻被害に・・・・ 海軍上層部への切実な戦況報告と意見具申を行っている[161]
スプルーアンスの上官ニミッツもこの頃ワシントンの海軍上層部に「もう持ち堪えられない」という弱気な報告を打電している
>米軍の苦しい胸の内がよくわかる。しかも相手は黄色下等民族なのだからよほど悔しかったに違いない。
(沖縄戦での特別攻撃隊)[編集]
特攻で大破した空母バンカーヒル
アメリカ海軍は4月23日に太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ大将が第10軍の司令官サイモン・B・バックナー・ジュニア中将に特攻対策の為の進撃督戦した以降も、日本軍の特攻に苦しめられていた。
沖縄攻略作戦の艦隊指揮官であった第5艦隊司令のレイモンド・スプルーアンス中将は、配下の艦隊のあまりの特攻被害に、「特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能なあらゆる手段を採用すべきである。第20空軍を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する」 という、海軍上層部への切実な戦況報告と意見具申を行っている[161]
スプルーアンスの上官ニミッツもこの頃ワシントンの海軍上層部に「もう持ち堪えられない」という弱気な報告を打電している[162]
沖縄戦には陸海軍計1,900機の特攻機が投入された。写真は陸軍特別攻撃隊第72振武隊の操縦者達(中央・荒木幸雄伍長)。撮影の翌日、5月27日に隊長・佐藤睦夫中尉以下九九式襲撃機10機の第72振武隊は万世飛行場を出撃、その内2機が金武湾上において米海軍フレッチャー級駆逐艦「ブレイン」に突入し大破の戦果をあげた。
前線での苦戦の報告を受けたアメリカ合衆国海軍省長官ジェームズ・フォレスタルは記者会見で、海軍の死傷者が4,702名に達していることを明かし「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償を伴うものであることをアメリカ国民の皆様に理解して頂きたい」と訴えたが、この会見にはバックナーへの非難の意味もこめられていたと言われている[163]
この後、バックナーは首里防衛線を攻撃する各軍団長へ、苛立ちをもって進撃スピードの加速を指示しているが、このバックナーを見て第10軍の海兵隊副参謀長のオリバー・P・スミス大将は「バックナーには、沖縄近海に展開している海軍が、甚大な損害に耐えている間に進撃を加速させろという大きなプレッシャーが加えられていた。」と語っている[164]
首里戦線の第32軍の危機に、大本営は菊水六号作戦(5月11日〜5月14日)菊水七号作戦(5月23日24日)を発動した。11日には第58任務部隊の旗艦バンカーヒルが2機の特攻を受け大破、396名の戦死者と264名の負傷者を出すという甚大な損傷を受け、戦線離脱を余儀なくされた。バンカーヒルは後にアメリカ本土のピュージェット・サウンド海軍工廠で修理を受けたが、同海軍工廠史上、最悪の損傷レベルであった[165]
翌日には、第53任務部隊の旗艦はエンタープライズに変更されたが、エンタープライズにも富安中尉搭乗の特攻機が命中し大破、2日続けてアメリカ艦隊の旗艦が特攻で大破するという事態に陥った。
義烈空挺隊が使用し米軍占領下の北飛行場(読谷飛行場)に強行着陸した九七式重爆撃機改造輸送機
菊水七号作戦時には、制空権確保のために陸軍のコマンド部隊「義烈空挺隊」を米軍制圧下の飛行場に強行着陸させ破壊活動を行わせる義号作戦も発動。熊本より12機の九七式重爆撃機改造輸送機が出撃し、うち1機が北飛行場(読谷飛行場)に着陸成功、搭乗していた隊員と乗員は戦闘を行い合計33機の戦闘機・爆撃機・輸送機が完全撃破されるか被害を受け、アメリカ兵20名が死傷し、ドラム缶600本70,000ガロン航空燃料も爆破焼失するなど飛行場機能に打撃を与え2日間に渡って飛行場を使用不能としたが[166]、戦況を動かすことはできなかった。
特攻はこの後、本土決戦準備による戦力温存策もあり減衰していったが、アメリカ海軍が沖縄戦で、特攻により受けた損害は甚大であり、アメリカ歴史学者の中でも最高の権威者と言われている サミュエル・モリソンは著書で「艦船90隻が撃沈され、または甚大な損害を受けた。この作戦は、大戦の全期間を通じ、もっとも高価についた海軍作戦となった」と沖縄戦がアメリカ海軍戦史上最大の損害であったと述懐し[167]、アメリカ軍も、公式報告書で「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である。」と総括している[168]

日米両軍司令官の戦死と自決[編集]

共に沖縄戦で使用された野戦重砲兵第1連隊第2大隊第4中隊の九六式十五糎榴弾砲(左)と、独立重砲兵第100大隊の八九式十五糎加農(右)。靖国神社遊就館収蔵
5月26日、陸軍参謀本部は沖縄諸島方面での継戦を断念し、以後は航空作戦を縮小することとした。
しかし、第32軍の抗戦意欲は未だ衰えておらず、サイモン・B・バックナー・ジュニア中将は「牛島は首里戦線撤退にあたって船に乗り遅れた」とか、「もう戦いは終わった、後は掃討戦だ(中略)敵は二度と戦線を確立することはできない」とか、またもや楽観的な意見を述べ、参謀らも日本軍に秩序だった撤退はできないと思っていたが、これは全く根拠がない事が、日本軍が損害を被りながら見事に首里を撤退し、南部に新たな戦線を構築したことで明らかになった[169]
6月5日にアメリカ軍第24軍団が、日本軍南部防衛線全線に渡って攻撃してきた。それを迎え撃つ日本軍は数は30,000名以上いたものの、正規の歩兵戦力はその内の11,000名に過ぎず、残りは火砲を失った砲兵や通信・整備・設営隊等の支援部隊や沖縄現地召集の防衛隊などであった[170]
日本軍は戦力不足ながら、防衛線各所で善戦し、アメリカ軍を何度も撃退した。八重瀬岳を守備する独立混成第44旅団は、6月12日までアメリカ軍2個師団を三日足止めし、13日に総攻撃を受け主力は壊滅したが、周囲の洞穴には多数の残存兵がおり、掃討戦が続けられた。
西側の戦線の国吉戦線では、歩兵第32連隊(北郷格郎大佐)以下1,500名前後の守備隊が、隣接する眞榮里高地を守備する歩兵第22連隊(吉田勝大佐)と共に、海兵師団相手に17日まで同丘陵地域を死守している。丘陵よりの激しい射撃により、海兵隊に死傷者が続出13日には140名が死傷し撃退されている。丘の上では戦車の支援なしには立つこともできないぐらいの激しい日本軍の攻撃だったが、その戦車も速射砲で攻撃され、5日間で21両もの戦車が撃破された。それでも、アメリカ軍は1両の戦車に歩兵6名と弾薬を積み前線に送りこむ一方で、帰路に死傷者を積んで帰ってくるという強行で攻め続け[171]、17日には「馬乗り攻撃」で眞榮里高地の歩兵第22連隊の司令部陣地を爆破、吉田連隊長が戦死、第32連隊第2大隊も残存兵力26名で大隊長以下突撃し全滅、5日間に渡る激戦の末に丘陵は制圧された。この間にアメリカ軍の死傷者は1,050名、その中には、日本軍の狙撃で戦死した海兵第22連隊長のハロルド・ロバーツ大佐も含まれていた[172]
バックナーはこの頃に、牛島に対し同じ士官学校の校長経験という経歴も踏まえ降伏勧告を行っている。「閣下の率いる軍隊は、勇敢に闘い、善戦しました。歩兵の戦略は、閣下の敵であるアメリカ軍から、ひとしく尊敬されるところであります。閣下は本官同様、長年学校と実戦で経験を積まれた立派な歩兵の将軍であります。従って、本官が察するところ閣下もすでにご存じのことと思いますが、全日本軍がこの島で壊滅することは、いまや既に時間の問題であります。」同時にアメリカ軍は日本兵や住民に投降を促すビラを800万枚日本軍勢力圏下にばらまいている。牛島は17日にバックナーの親書を受け取ったが、一笑に付し降伏勧告を撥ね除けている[173]
その翌日の6月18日、バックナーは、牛島からの回答を確かめることもなく、喜屋武半島の最前線視察中に日本陸軍の野戦重砲兵第1連隊第2大隊の九六式十五糎榴弾砲の砲撃を受け戦死した[注 13]。これは2014年現在に至るまで、アメリカ軍史上において最高位の階級で戦死した唯一の事例である。日本側にとって将官クラスの敵軍部隊最高指揮官を死亡させる大戦果であったものの、アメリカ軍有利の状況には変化はなかった。
沖縄戦中から戦後にかけて、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の連載がきっかけとなり、沖縄戦でのバックナーの采配に対する議論が白熱し、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーも論戦に加わり「バックナーは、日本軍が撤退後に南部を攻撃する必要はなかった。牛島中将の残存部隊を沖縄の一部に閉じ込めておいても、沖縄は日本侵攻の基地として十分使用でき、バックナーのゴリ押し戦略よりも損害は少なくて済んだ」とバックナーを非難していたが、バックナーは死によって采配に対する議論から解放される事となった[177]
アメリカ第10軍の指揮は、急遽ロイ・ガイガー少将が司令官代理を務め、同月23日にはジョセフ・スティルウェル大将が後任司令官となった。また、翌日には第96師団副師団長クラウディウス・M・イーズリー准将も日本軍の狙撃により戦死している[178]
日本軍の戦線崩壊は次第に進み、喜屋武地区を守備していた、軍主力の第24師団も、6月17日には師団としての組織的抵抗が不能の状態となった。この頃になると、日本軍では飢餓や病気により一日4,000名の兵士が亡くなっていた。組織崩壊も始まり、今まで殆ど見られなかった集団投降も増えてきた。6月20日に摩文仁岳東端を占領したアメリカ軍第32歩兵連隊は977名もの大量の日本兵を捕虜にした[179]
6月23日午前4時ごろ(6月20日、6月22日との説もある)、日本の沖縄守備軍最高指揮官の第32軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が、摩文仁の軍司令部で自決した。二人は缶詰のパイナップルで最後の食事をし、スコッチウィスキーで訣別の酒杯を部下幕僚と交わした[180]。長勇中将は自決の前に八原大佐に「八原、後学のため予の最後を見よ」と言った。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。24日頃には基幹部隊であった歩兵第22・第89連隊は、軍旗を奉焼し全滅。大本営も、6月22日の菊水十号作戦をもって菊水作戦を終了し、6月25日に沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表した。

その後の戦闘[編集]

1945年9月7日行われた琉球方面の日本軍の降伏式典、戦場には登場しなかったアメリカ軍重戦車M26パーシングが整列している
しかし、この後も残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続いた。この戦闘継続の原因は、牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないもの[注 14]であったことや、指揮系統の崩壊により司令官自決の事実や大本営発表が明確に伝わらなかったためとされる。しかし、摩文仁の司令部ですら混乱状態であり、劣悪な通信状況を考えれば牛島中将の命令が沖縄本島全体に伝わったとは考えにくく、戦闘継続は牛島中将の命令ではなく、個々の判断で行われたのだとする意見もある。いずれにせよ、この指揮系統無き戦闘継続は、民間人を含め死者数を増やすこととなった。
第24師団配下の歩兵第32連隊(連隊長:北郷格郎大佐)、並びに同連隊指揮下の2個大隊などが終戦まで生存している。北郷大佐をはじめとするこれらの部隊の生き残りの将兵たちが米軍に投降したのは、日本政府が8月15日に国民へ停戦を発表してから2週間後の8月29日のことである。第32連隊は同月22日にアメリカ軍の軍使と接触しており、翌23日に軍旗を奉焼している。最終的な沖縄守備軍の降伏調印は9月7日に嘉手納で行われた。沖縄守備軍司令部の中では、高級参謀の八原博通大佐が捕虜になり、また航空参謀の神直道少佐(後に中佐)が大本営報告の命令で本土に脱出して生き残っている[注 15]。一方、長野作戦参謀、薬丸情報参謀、木村後方参謀、三宅通信参謀はそれぞれ遊撃戦指導、大本営報告のため司令部を出て北部への脱出を計ったが成功せず、全員戦死している。轟の壕では、内務省沖縄特高課長佐藤喜一により、避難民に投降が勧告され多くの住民が米軍に収容されている。
主に海軍により、特攻機を含む沖縄県方面への航空攻撃も続けられた。7月28日には九三式中間練習機の体当りで駆逐艦「キャラハン」を沈めているが、これは特攻による最後の撃沈戦果であった[181]。8月12日には戦艦「ペンシルベニア」を雷撃機による通常攻撃で損傷させた[182]。8月15日の玉音放送後にも、菊水作戦の指揮をとった宇垣纏海軍中将が部下を引き連れて沖縄方面へ特攻出撃している。陸軍の第8飛行師団隷下飛行第10戦隊の一〇〇式司偵は、沖縄方面に対する偵察飛行を8月に至るまで継続している[183]

終戦後の状況[編集]

戦後、沖縄守備軍の守備範囲であった沖縄県などはアメリカ軍の占領下に入り、1950年12月まで軍政が続いた。その後も米国の琉球列島米国民政府と、下部機関である琉球政府による統治が行われ、全てが日本に返還されるのは1972年5月15日のことであった。最後の激戦地となった南部地域の村は、いくつもの集落で住民が全滅、多くの沖縄の住民は外国(特に南米)に移住、人口の減少により、自治体としての規模維持のため合併を余儀なくされた(三和村)。

住民犠牲について[編集]

犠牲者数[編集]

「降伏を促すビラを手に降参する地元住民」[184]
避難民の子供
沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明だが、1950年の沖縄県援護課の発表では以下の数値である。C+Dの9万4000人が住民犠牲とされる。
  • 沖縄戦の日本側死亡者:18万8136人
    • A:県外出身日本兵戦死者 6万5908人
    • B:沖縄県出身軍人・軍属(現地召集を受けた正規兵のほか、防衛隊・鉄血勤皇隊など) 2万8228人
    • C:戦闘参加者(戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)との関係で日本軍に協力して死亡した準軍属と認定された人数[注 16]) 5万5246人
    • D:一般住民 3万8754人(推定)
うちDが推定となっているのは援護課が一般住民の犠牲者を直接に調査せず、1945年(昭和20年)と1946年(昭和21年)の沖縄県住民数の差から、援護課で戦闘参加者として認定した数Cを差し引いた数をDとしたためである。終戦直後の1946年統計は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により誤差が大きいと思われ、また、1946年の人口には、沖縄戦の後で生まれた子どもや、戦時中は沖縄県に不在だった本土への疎開者、海外からの引き揚げ者・復員兵が多数含まれるため、計算上の人口減少より実際の戦没者数の方が大きいと推定される。
沖縄県民の犠牲者15万人とする場合もあるが、これは沖縄県出身軍人(上記B)や地上戦域外での餓死者・病死者、疎開船の撃沈による被害なども含めた数値である[5]。なお、沖縄県平和祈念公園に設置された石碑の「平和の礎」には、1931年(昭和6年)の満州事変以降・南西諸島の日本軍の降伏調印1年程度経過の1946年(昭和21年)9月7日頃までに発生した戦争が主因の沖縄県出身者の死者と、1944年(昭和19年)3月22日の第32軍創設から1946年(昭和21年)9月7日頃までのアメリカ軍将兵などを含む県外出身の死者の名が記載されており、2006年(平成18年)6月23日時点で24万383人(うち沖縄県出身者14万9035人)となっている[186]。この「平和の礎」の数値を根拠に、沖縄戦の戦没者数を24万人と主張する者もある[187]

沖縄戦の続きです。

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スパイ容疑などで殺害された沖縄の住民も多数いたのも事実で今のサヨクの恰好の宣伝材料にされている。
 日本軍さえ来なかったら沖縄はこんな地獄を経験せずに済んだものをという気持ちは理解できる。しかしそれは日本全体に言えることで多くの日本人が兵士として死に民間人も空襲、原爆で死んでいった。
 合掌。

米軍上陸前の住民の動き(避難)[編集]

県外疎開[編集]

大本営陸軍部が沖縄の住民疎開について検討を始めたのは、サイパン島にアメリカ軍が来攻した1944年6月のことである。7月1日に、研究要員として後に第32軍参謀長となる長勇少将(1945年3月に中将)が現地入りした。7月7日にサイパン島が陥落すると、東條英機内閣は緊急閣議を開き「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断した。沖縄本島・宮古・石垣・奄美・徳之島の5島から、60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童を本土及び台湾へ疎開させることが決定され、沖縄県に通達された[188]。軍も、住民保護目的ではなく、「県民が軍の懐に入り込むことにより軍の活動を妨害することになる」との作戦上の目的からも県民の疎開を希望していた。また、沖縄県では消費米の2/3を県外からの移入に頼っているため、海上交通が途絶えた場合には守備隊増強で膨れ上がった人口を養うのは困難という事情もあった。
その後の通達で疎開目標は本土へ8万人と台湾疎開へ2万人の計10万人と決定された。対象者は、60歳以上と15歳未満の者、その看護者である婦女のみが許可され、警察署長の渡航証明書を受けることとされた。根こそぎ動員により、「鉄血勤皇隊」の14歳からときには70歳の者までが防衛召集・動員されており[189]、彼らは疎開することを禁止された。また、食料生産などのために動員された婦女も、許可されなかった。
輸送は陸海軍艦船などを投入して全額国庫負担で行うことになり、大蔵省第2予備金から1500万円を拠出する予算措置が取られた[188]。一般住民の疎開は法的には強制力が無く、県を通じた行政指導による形式であった[190]。県民が疎開に応じるか不安視した県は、短期間で徹底して遂行するにはある種の威令や組織力・機動力が必要と考え、一般疎開を本来の社事兵事を司る内政部ではなく警察部に担当させることに決定した。一方、学校との連絡が欠かせない学童疎開のみは内政部教学課の担当として、その指揮下に各国民学校長が推進することとした。
しかし、県民の疎開機運は一向に盛り上がらなかった。理由としては、本土では、貸し家の「琉球人お断り」など沖縄差別も根強く、一家の大黒柱を欠いた状態で身寄りのない本土や台湾に疎開することの不安や、船舶に頼らざるを得ない県外疎開そのものへの不安があったとされる。1944年6月29日には増援部隊を乗せた輸送船「富山丸」が潜水艦に撃沈され、将兵約3,700人が犠牲になる大惨事が発生していた。軍はこの事件を「軍極秘」として箝口令を敷いていたが、県民の間に口伝で広まり、1944年8月22日の学童疎開船「対馬丸」撃沈事件(約1500人死亡)とともに疎開に対する不安を煽る結果となった[190]。さらには、第32軍司令部の方針が末端部隊まで徹底しなかったことによる末端将兵の放言も、県民に、日本軍が勝つという希望的観測を生じさせていた。なお、沖縄県知事の泉守紀も北部への県内疎開には食糧供給が困難として消極的な立場で、疎開の促進を求める軍としばしば対立した。
荒井退造警察部長を始めとする県の必死の努力により、疎開第1船である「天草丸」は7月21日に警察官、県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出港した。続く7月末の疎開第2船での220人、8月初めの第3船での1566人はほとんどが本土に縁故のある人々であった(本土出身者の引き揚げが多くを占めた[191])ものの、その後8月10日に出航した第4次の約9000人は縁故のない県民が中心となり、ようやく県の努力が実りつつあった。
皮肉なことに県民の疎開を一挙に促進させたのは米軍による1944年10月10日の5次に渡る大空襲(十・十空襲)であった[192]。その後、1945年1月に新たな県知事として赴任した島田叡の下で、最後の努力が行われた[193]
沖縄県の調べでは、県外疎開は1944年7月から海上交通が途絶する翌年3月上旬まで続き、海軍艦艇を含む延べ187隻の疎開船により学童疎開5586人を含む8万人以上が疎開した。内訳は、沖縄本島周辺からは九州へ約6万人と台湾へ2千人、宮古列島八重山列島から台湾へ2万人以上となっている[192]。3月上旬までの県外疎開船延べ187隻のうち犠牲になったのは「対馬丸」(約1500人死亡)一隻のみであるとされているが[192]、6隻(約3000人死亡)とする見解もある[194]。また、先島諸島への集団疎開も実施されたが、食料・衛生器材の不足で多くの病死者をだしている。八重山列島では疎開により、多くの住民がマラリアに感染し、死亡したものも多く、これを戦争マラリアと呼んでいる。県内疎開の正確な犠牲者は不明である。
なお、九州に事前疎開できた沖縄県民については、沖縄県庁の機能停止後、7月に福岡沖縄県事務所が正式発足して支援業務を引き継いでいる。

本島北部への避難(島内避難)[編集]

1944年12月になると、第32軍は、県に対し沖縄本島北部へ10万人の住民避難を要請した。北部避難の対象者は、県外疎開と同様であったが、加えてアメリカ軍上陸直前には食料生産などに動員していた婦女も北部避難させるという計画であった(避難命令は出ないままアメリカ軍上陸となった)。なお、北部にも日本軍の施設や兵員が配置されており、非戦闘地域になっていたわけではなく、住民が戦闘に巻き込まれた。
軍も県当局も北部避難の準備は何もなかった。食料も住居も自弁自給を基本とされた。軍の協力は、避難民の輸送でも避難準備の物資運搬でも得られなかったばかりか、車両は荷馬車まで供出となっていた。そのため老幼の避難民は、持てるだけの食料を背負い徒歩で100Km以上ある泥にぬかるんだ道を避難した。県は、配給米の備蓄に努力したが、2か月分が精一杯であった。北部は山岳地帯で耕作地も限られた。さらにはマラリア発症地帯であって、餓死やマラリアで多くの死者を出すことになった。
いったん避難しても食料を取りに戻る者もあり、北部には食料も何もないという口コミが広がった。艦砲射撃が始まったことで避難する者が増えたものの、北部避難者は約8万人と推定されている[195]

米軍上陸後の住民の動き(避難)[編集]

第32軍司令部は、戦況の切迫を理由に沖縄本島へのアメリカ軍上陸直前の3月31日に北部への避難民の移動を禁止している[196]。その後アメリカ軍が本当に上陸すると、すぐに島は南北に分断されたため、日本側の交通は絶たれ、本島北部山岳地帯への避難は不可能になった。
北部への避難ができなかった住民は、集団自決をした避難壕もあれば、アメリカ軍に集団投降した壕もあった。5月上旬までに13万人の住民(北部避難者等を含む)がアメリカ軍に収容された[197]
本島南部(島尻地域)へは、戦線の南下に従い追い詰められるようにして、最終的に推計10万人以上もの避難民が集まることになった。南部地域でも、第32軍が首里司令部の放棄で撤退した喜屋武半島方面では戦闘に巻き込まれて多くの避難民が犠牲となった一方で、日本軍の流入がなくほとんど戦闘が行われずに「事実上の非戦闘地域」となった知念半島方面では多くの避難民が生き延びている。

本島南部への避難[編集]

アメリカ軍上陸から約1か月経過した4月27日に、沖縄県島田叡知事は住民保護のため、南部地区の市町村長と警察署長を繁田川の地下壕内に移転していた県庁内に召集して会議を開いている。その場で避難民の受け入れ態勢の整備や食糧確策等が話合われたが[198]第32軍も4月29日には島田叡沖縄県知事に、住民を本島南部に避難させるよう指示し、多くの住民が南部に避難していた。
沖縄戦で殉職した島田叡沖縄県知事
しかし、その後に戦況が悪化すると第32軍は南部への転進を決定、決定後の5月22日に島田叡知事に知らされ、軍より首里近辺の非戦闘員の南部島尻地区への撤収が指示された[199]。知事は軍の転進に強く反対するも決定は覆らなかった。
島田知事は25日に女子挺身隊に高嶺村與座方面への移動と住民保護を指示し、県庁も兼城の秋吉に移動した[200]。 その後、南部地区は後退してくる軍と避難民が各所で溢れ混雑を呈した。 島田知事は5日に伊敷の轟の壕に移動し、9日にはもはや組織として体をなしていなかった県庁と警察の解散を命じている[201]
この後、軍や行政の保護も受けられなくなった住民の犠牲は夥しい数に上り、沖縄戦における住民の戦没者全体の6割が、第32軍が南部撤退した6月以降に南部地域において亡くなっている[202]
なお、予想外の日本軍の南部撤退に、アメリカ軍では6月初旬の司令部作戦会議で避難住民保護が検討されたことが明らかになっている。バックナー司令官の側近として司令官の指示内容を記録していたジェームス・バーンズ曹長の陣中日誌には、「一時休戦を申し入れ(南部にいる)住民を保護すべきではないか」などの意見が出たと記されている。しかし、結局そうした施策はなされないまま、アメリカ軍は掃討作戦を開始した[203]
最後まで住民保護に腐心した島田知事も、18日に行動を共にしてきた仲宗根官房主事らを壕から脱出させた後、荒井退造警察部長と壕内で殉職している[204]

知念半島の非戦闘地域化[編集]

5月22日牛島司令官が喜屋武半島方面への撤退を決断したことで、知念半島方面は第32軍の作戦区域外となり「事実上の非戦闘地域」となった。しかし、軍から県庁に「知念方面が非戦闘地域である」と通知されたのは、司令部撤退がほぼ完了した5月29日になってからであった。この頃すでにアメリカ軍は、東海岸を打通し知念半島に進出しており、知念方面へ向かう道はどこもアメリカ軍に制圧されていたため、もはや知念に行くことは困難であった。 29日に突如、第24師団の壕に呼ばれて知らされた島田知事は「なぜにもっと早くに知らせてくれなかったのか」と憤慨したという[205]

集団自決[編集]

サイパンの戦いなどと同様に、沖縄戦においても一般住民までが集団で自殺する集団自決が発生した。読谷村のチビチリガマの事例(83人[206])などが知られ、集団自決者の総数は1000人以上とする研究者もいる[207]
これらの集団自決を軍の命令によるものとする主張がある一方で、「集団自決は沖縄住民による戦傷病者戦没者遺族等援護法の給付を目的とした嘘である」との証言も一部に存在する[208]

集団投降[編集]

日本軍がいなかった避難壕では、集団投降した例も多い。アメリカ軍が上陸後すぐに進攻した中城村では日本軍が4月2日には撤退してしまい住民だけが残されたが、島袋地区では4月3日に1500人が集団投降して地区住民のほとんどが生き延びた。日本軍の主陣地が構築された宜野湾村では、村南部のように日本軍とともに「軍民雑居」となった地域では、住民は投降を許されず、日本軍の指示で本島南部に逃げることとなり多くの犠牲者を出している。嘉数地区や佐間下地区などにいた住民の犠牲者率は48%に上る。一方で早々に日本軍が撤退した村中北部は、フトゥキーアブ壕で4月4日に500人など集団投降した例が多く、新城地区や喜友名地区などの住民の犠牲者率は13%と低めである[209]。なお、集団投降した避難壕では、移民帰りの人がいるなどして「鬼畜米帝」との洗脳にとらわれていなかった例も多い。「鬼畜米帝」を信じてアメリカ軍の投降勧告に応じなかった壕では、容赦のない攻撃を受け全滅したりしている。上述のフトゥキーアブ壕でも、数人の少女が「米軍に捕まったら、何をされるかわからない」と壕から出ることを拒否して、手榴弾を投げ込まれ犠牲になっている。(その後の難民収容所では、米兵による強姦被害が多発しており、「鬼畜米帝」が誤謬であるとも言い切れない)

日本軍による住民殺害[編集]

アメリカ軍の攻撃及び住民による自決以外に、日本軍による直接的な住民殺害があった。具体的な事例として、久米島守備隊住民虐殺事件(22人死亡)、渡野喜屋事件(35人死亡・15人負傷)、名護市照屋忠英学校長殺害[210]などが挙げられる。日本軍により殺害された住民の総数は明らかではないが、安仁屋政昭は1000人と推定する見解を採り[211]、元沖縄県知事(元社民党参議院議員)の大田昌秀は、スパイ容疑での直接殺害だけで数百人から1000人以上と推定している[212]。援護法との関係で戦闘参加者と認定された民間人のうち、14人は日本軍による射殺が理由となっているが、大田はこれも実数は数倍に上ると見ている[185]
住民殺害の動機は、スパイ容疑での処刑が中心で、そのほか物資や壕を巡る日本兵と住民の争いで殺害された事例や、地下壕の探知を避けるために泣き声の止まない子供を殺害した事例などもある[213]。このような事態に至った原因について、極限状態で不可避というだけの問題ではないとの見方もある。一因として、日本兵が住民に対し、愛国心や武を尊ぶ精神に欠けると見て不信感を抱いていたことや、軍民一体化と防諜のため、沖縄語の使用が禁止され、その使用者を処分する方針であったこともある[214]。また、スパイ容疑での処刑については、アメリカ軍収容下に入った住民が食糧集めに駆り出されているのを、アメリカ兵を日本兵の隠れ家へ誘導しているものと戦場の混乱の中で誤解したことが一因ではないかと推定されている[215]
こういった事例が強調されていることに対し、沖縄戦に参加した日本軍兵士からの反論もある。嘉数の戦いに参加した兵士の一人(独立歩兵第13大隊所属)は、「戦後、日本軍は沖縄県民に犠牲を強いた悪い兵隊だと宣伝された。しかし私の知るほとんどの下級兵士は自分の命など眼中になく、洞窟に潜んで助けを求める県民のため身を挺して戦った。」[216]と述べている。
また、《泣き声で米軍に見つからないよう、「日本軍により幼児が殺された」とする教科書記述にも異説がある。匿名を条件に取材に応じたある地方議員は「老人会でのひそひそ話に耳を疑ったことがある。子供が軍命令で殺されたとして遺族年金をもらっている人について『あの人、本当は自分で殺したんだよね』と話し合っていた」と語る[217]

連合軍による住民の扱い[編集]

連合軍による住民殺害[編集]

既述のように沖縄地上戦での住民犠牲は約9万4千人とされているところ、集団自決者や日本軍により殺害された者はそれぞれ1000人程度と推定されており、残りの約9万2千人は連合軍の攻撃により殺害されたことになる。
長周新聞によると、「沖縄本島に上陸した米軍は宜野湾市の嘉数で激しく抵抗された。ここは丘陵が重なり天然の防塁だったため毒ガスを使用。壕に潜む非戦闘員まで殺害した。嘉数では住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺した。前田丘陵四日間の戦斗は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものだった。国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。ここは米軍司令官バックナーが戦死した報復として猛攻撃を加えた。国吉で捕虜になった住民のうち男子は全員銃殺された。南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼった。」[218]
住民がスパイ容疑で処刑されることもあった。ある事例では、「民間人3人は、軍政府内の住民用尋問室で日系人通訳に暴力を振るわれながら尋問された後、身柄を2人の中尉に引き渡された。文書では「1人は敵兵(日本兵)である疑いがあった」と記述している。中尉は民間人3人のうち2人を約180メートル先にある墓穴のような穴を掘った場所に連行した後、そのうちの1人を上官の命令で銃殺した。殺害時、周囲には25-45人の米兵が取り囲んでいた。」という[219]。バックナー中将の戦死時には、住民が日本軍を手引きしたと疑われ、数十人の住民が銃殺された[220]

民間人収容所[編集]

沖縄における収容所
アメリカ軍の占領地域となった場所では、民間人収容所が捕虜収容所とは別に設けられ、地域住民や近在の避難民が収容された。アメリカ軍は占領段階に応じたA-Dの4種の軍政要員を用意して、住民の管理・収容を進めた。本島に11か所、周辺島嶼に5か所の計16か所が設置されたが、作戦上の都合などにより合併や閉鎖が適宜行われた。本島では基地建設のために5月から7月にかけて中南部の無人化政策がとられ、北部東岸の収容所への強制移住が実施された。そのため、宜野座地区収容所には、生存島民の2/3にあたる20万人以上が押し込められた過密な状態だった[221]
多くの場合、収容所は集落単位で管理され、それぞれ憲兵が配置されて監視していた。境界が有刺鉄線で区分されている例もあった。収容所の間での移動は禁じられ、違反すれば「カナアミ」と称する有刺鉄線で囲んだ仮拘置所に留置された。収容所の内部的管理については自治体風の形式を採り、収容所ごとに「メイヤー」(市長)や民警察 (CP) といった役職を任命して、物資配給や労務者の供出などの実務を行わせた[221]
アメリカ軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という。一例として、浦添村(現浦添市)の場合、全犠牲者の1割以上にあたる312人は、収容所での生活中に死亡している[222]
なお、前述の日本兵による住民殺害事件にも、渡野喜屋事件のように米軍管理下の民間人が殺傷された例がある。

連合軍兵士による性的暴行などの虐待[編集]

収容所および米軍の占領地域では、米軍兵士による住民への暴行や強盗行為が多発した。無抵抗の住民を背後より射殺するなどの蛮行が報告されており、住民女性への拉致・暴行・強姦も多数証言されている[218]。戦争の終結後も暴行は続き、たとえば、「南部戦線の戦闘が終結してからはとくに米兵たちは横暴になり、昼夜を分かたず強姦事件が頻発していた。収容所では米兵がおそってくると、酸素ボンベの鐘をたたいて女性たちを避難させるさわぎが続いた。」とも[223]、「戦時中も戦局が追い詰められた状態になると、アメリカの軍隊そのものが集団で村の女性たちを襲ったといいます。なかには夫の目の前で犯された女性もいます。」ともいわれる[224]。米軍兵士により強姦された女性数を10000人と推定する見解もある[225]ニューヨーク・タイムズの記事によれば、強姦はあまりに多発したため、65歳以上(2000年時点)の沖縄の住民は誰しもこの連合軍による強姦について知っているか、あるいは聞いたことがあるという[226]
沖縄戦時中に米兵が沖縄の住民女性を強姦し、軍法会議で有罪となりながら、戦後米海軍省で判決が破棄されていた。軍法会議で禁錮9年、不名誉除隊の判決が出たが、海軍法務総監が10月に有罪判決を破棄するよう勧告。11月に海軍長官が判決を破棄し、被告を釈放して軍務に復帰させるよう命じた。勧告文では、レイプ犯罪を「女性が能力の限りを尽くして抵抗したとみられるものでなければならない」と定義。「すごくおびえて叫ぶことができなかった」と証言した被害女性に対し、最大限の抵抗をしなかった、叫び声を上げなかった-などを理由に被告を無罪とした[227]

沖縄戦についてのアメリカ軍による評価[編集]

戦車を使って後送される前線での米軍負傷者
圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、洞窟陣地を利用した粘り強い防御戦闘と反斜面陣地などの巧みな陣地形成で苦戦を強いられたアメリカ軍は、この日本軍の防御戦闘を「歩兵戦闘の極み」と評した。これについて八原参謀の作戦計画は、反対斜面陣地と野戦重砲兵の支援砲撃を前提として挑んだ『寝技戦法』とも呼ばれた。この作戦は、強力なボクサーを相手に柔道家が寝技に持ち込み、相手のパンチを防いで得意の接近戦で敵の戦意を挫こうとするものであった。それには、まずアメリカ軍の大部隊を、展開が困難でかつ航空支援や援護砲撃が不可能な日本軍陣地の100-200m程度の直前まで誘導する。そして日本軍は重機関銃軽機関銃小銃擲弾筒で掃射して戦車部隊と歩兵部隊を分離させる。急速前進を余儀なくされた敵戦車は対戦車砲速射砲)、山砲野砲地雷、歩兵の肉弾戦によって撃破する。そして駆けつけてきた敵の増援部隊を、精密測量した地域に釘付けにして重榴弾砲加農といった味方野戦重砲・重砲の砲撃により叩くことが基本戦術であった。唯一の有効兵器は満州から転出してきた野戦重砲という状況において、八原の戦術的判断は的を射ている。
また、八原戦術を理解し、その実行を委ねた牛島満中将は、自身の出生地である薩摩に伝承される捨て奸を意識していたといわれる。
米陸軍省戦史局編集の公式報告書「OKINAWA: THE LAST BATTLE」での総括は「沖縄で支払った代償は高価なものであった。米軍の死傷者の最終的な対価は、日本軍に対するどの方面作戦で経験したものよりも高かった」「勝利の高い代償は、予想以上の強力な戦力を持って巧みに先導された日本陸軍と戦ったこと、厳重かつ巧妙に要塞化された難しい地形を越えたこと、故国を何千kmも離れて戦った事実によるものだった」「作戦は予想していたより遙かに長引いた」など、苦しい戦いであった事を指摘した上で「だが、米軍は、希望するどんな土地も最後には日本軍から奪うことができることを沖縄で示した」と激戦を勝ち抜いた自信も示している[228]
またアメリカ海兵隊の公式活動報告書でも「(日本兵は)よく訓練され、統制もとれた陸軍兵士で、特に士気の高さと、身体能力の高さは特筆すべきである」とか「日本軍の兵士は常に頑強で機知にとんだ戦法で戦い、絶対に降伏しなかった」等、その能力を高く評価している[229]
前線のアメリカ軍兵士も、当初は人種差別と憎しみから「日本兵は、がに股で飛び跳ねながら猿のように金切り声を上げたり、豚のように鳴いたりする奴らと思っていた」という偏見を持つ兵士も多かったが、シュガーローフなどの激戦を経て「日本兵は極めて統率のとれた集団だ」とか「日本兵は実際に見ると落ち着き払っており、米軍海兵隊員と同じ顔つきだった」という印象に変わっていき、更に日本兵への畏敬の念が行き過ぎて「日本兵を大したことがない、なんて抜かす奴がいたら俺が撃ち殺してやる」と新兵を怒鳴り散らす小隊長もいたという[230]
米海軍は特別攻撃隊に沖縄戦中終始苦しめられ、米海軍史上最悪の損害を被ることになったが、太平洋艦隊司令のニミッツ大将は、「沖縄作戦は攻撃側にとってもまことに高価なものだった。約13,000名の米兵が戦死したが、その内3,400名が海兵隊で4,000名が海軍だった。艦隊における死傷者の大部分は日本機、主として特攻機により生じたものである」と回顧している[231]
沖縄戦が終わると、大英帝国首相ウィンストン・チャーチルハリー・S・トルーマン米大統領に向けて「この戦いは、軍事史の中で最も苛烈で名高いものであります。我々は貴方の全ての部隊とその指揮官に敬意を表します」と慰労と称賛の言葉を送っている[232]
ピューリッツアー賞も受賞した、アメリカの軍事評論家の第一人者、ハンソン・W・ボールドウィンは沖縄戦を振り返って「その規模、その広がり、その苛烈さにおいて バトル・オブ・ブリテンすら影の薄いものとした。飛行機と飛行機、水上部隊と航空部隊の間で、これほど凄惨な、独特の死闘が行われた事は、後にも先にもない」と著書に書いている[233]
 

中国共産党に忠誠を誓った政治家は「尖閣諸島は中国固有の領土」と平然と口にする

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売国奴天国日本の実態。
外国ではありえない非常識国家。
外務省に巣食う売国奴達。
今強烈に安保法制に反対している政治家は支那から買収された売国奴かも。
 この国はいつかしまえるだろう。
 
 
中国共産党に忠誠を誓った政治家は「尖閣諸島は中国固有の領土」と平然と口にする

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集団的自衛権と安保法制に反対する政治家の動きが活発である。

ところがその顔ぶれを見ると、全員が親中国派であり中国共産党お気に入りの政治家ばかりなのである。


外務省の中国グループ

日本国内で集団的自衛権に反対し、中国を支援しようという政治家の動きが活発化している。

この人たちの素性を一人ずつ暴いていこうと思う。

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外務省には驚くべき事に、中国の為に日本で破壊活動を行う者を養成する専門課程が存在していた。

最初は断絶状態だった中国との外交を円滑に行う為に創設されたが、全員が中国のスパイに取り込まれた。

中国に気に入られなければ仕事が出来ず出世もできない、入国を断られ口も効いてもらえず「帝国主義者を処罰しろ」と名指して批判され更迭されるからである。

外務省では新卒が入省すると担当する国別に振り分けて、語学や専門知識を学習させている。

この中で中国を担当したり配属された人達を総称して「チャイナ・スクール」と読んでいる。


その後大きな問題を次々に引き起こし、中国の工作機関化したため現在この制度は廃止されている。

「チャイナ・スクール」と同じようにアメリカ、ドイツ、ロシア等各国それぞれに専門家を養成しようとした。

外務省の役人が派遣された国にやたらと迎合して「アメリカかぶれ」や「中国かぶれ」「欧州かぶれ」になって日本を非難するのはこの制度に一因がある。

先ほど書いたように相手国のお気に入りにならなければ入国許可すら下りないし、面会もできないので100%相手の主張を受け入れるしかない。

日本以外の外交官が自国の立場を主張して相手を批判するのに対し、日本の外交官は相手国の代弁者として日本を批判する。

悪い事に「チャイナスクール」の連中が中国に派遣されたのは文化大革命の頃で、近代中国史でも最悪の弾圧と対外工作を行っていた。

チャイナスクールのメンバーは毛沢東に忠誠を誓わなければ一生出世の道を閉ざされる事になった。

以来彼らは中国と毛沢東に忠誠を近い、日本国内で破壊工作を続けて、仲間を増やしながら勢力を拡大してきた。

彼らが日中関係を主導し、大物政治家にも強い影響を与え、新たな中国支持者を増やした。

田中角栄元首相は「外務省には気をつけろ。総理の許可無く勝手にスケジュールを決めている。」と言い残している。

どうやら田中首相の日中国交回復も、チャイナスクールの連中が勝手に決めた事のようなのである。



外務省が増やした親中国派

親中国派の代表的な人物は尖閣騒動で「尖閣問題は日本が悪い」と発言して外務省をクビになった丹羽宇一郎大使が居る。

駐中国特命全権大使をしていたときに、次々と問題発言を繰り返し「日本は世界の笑いものだ」「尖閣を中国に返せ」など中国のスパイとして活躍した。

尖閣騒動以前は外務省の駐中国大使の人事を中国共産党が決めていたのは公然の事実で、相手が認めなければ入国もできないので日本は言いなりになった。

丹羽宇一郎は「中国にとって有益で、日本を攻撃する好人物」と見做されて中国から就任を「許された」のである。


自民党の大物政治家、加藤紘一は外務省出身者で香港副領事、アジア局中国課事務官を勤めた。

日中問題では悉く中国を支持し日本に反対する人物で、尖閣問題では「中国の領土」だと断言した事も有り、集団的自衛権に反対している。

頻繁に中国を訪問して要人と面会し、忠誠心を表明している。

河野洋平については書くまでも無いので省略するが、江沢民の忠実な家臣であり、現在も中国に忠誠を尽くしている。

自民党の山崎拓も加藤紘一の盟友として中国を支持している一人で「集団的自衛権が合法化すれば日本が戦争に巻き込まれる」と主張している。


古賀誠、亀井静香、武村正義、その他民主党の大物議員の大半は元自民党出身者だが、最も親中国派が多かったのは意外な事に自民党である。

元総理、福田康夫の親の福田赳夫首相は親中国派でも左派でもなく「タカ派」つまり右翼と呼ばれていたが、息子の康夫はどうした訳か中国に取り込まれた。

総理時代は中国を擁護、弁護に終始し現在も「中国とのパイプ」を生かして日中友好に励んでいる。

福田康夫の言う日中友好とは中国の希望に沿うように、日本が考えを改めることであるらしい。

福田康夫に限らず世襲で議員になった2世、3世議員の多くが中国による取り込み攻勢を受けている。

理由は恐らく「騙しやすい」からなのだろうが、スキャンダルを起こした小渕優子も日中対立の最中に、中国でVIP待遇を受けて帰国している。


中国の態度は「帝国主義者は入国させない。面会しない」「平和主義者は国賓待遇する」というもので誰が中国から信頼されているのかすぐに分かる。

尖閣騒動以降に中国への入国を許可され、要人と面会した日本人は以下の通りとなっている。

田中真紀子、二階俊博、河野洋平、鳩山由紀夫、村山富一、(公明)山口代表、福田康夫、小渕優子、野中広務、古賀誠、仙谷由人、山崎拓

小者は省略するが、訪中後に全員が集団的自衛権に反対したのを見れば、中国から命令され行動しているのは明白である。

中国に招待され訪問された政治家は、例え小者であっても日本で考えられないほどの待遇を受け、たとえ話ではなく感激で涙を流して泣くそうである。

こういう人心掌握と調略術は三国志の頃から中国のお家芸である。
 

米軍関係の刑法犯は現在の日本人平均より犯罪発生率、検挙率はずっと少ない

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10万人当たり日本人の刑法犯発生率約1500人、検挙が約800人からすると米軍は4.5万人いるから日本人の平均からすると米軍の刑法犯発生が650人検挙が340人となる。
しかし実際は年間38人で日本人の平均の10分の1と非常に少ないのが事実だ。
沖縄サヨクのマスゴミがことさら米軍の犯罪を取り上げいかにも多発しているかのような報道をしている。以前は確かに多かったが近年は日本人平均よりずっと少ないのが事実だ。


 
 
 
 
石垣島の八重山日報の編集長が沖縄本島の反基地デモに行ったときの話です。実は石垣島っていうのは尖閣の間近にありまして、中国の工作船が付近を走り回り、島民は不安を覚えて2010年に保守系新人の中山氏が市長の座を左翼系市長から奪取。教科書選定が左系必須であったのを規約の改訂を行い、採択の自由度を高めた結果、領土や領海の記述が明確に記載されている教科書を採用した。このあたりの経緯はこちら


そういう意味では石垣島は左系の人から見ると裏切り者なわけ。八重山日報のサイト見ると沖縄の左系新聞の真逆で面白い。しかし、だ。位置関係を見ると
石垣島は台湾のすぐ横。尖閣も目の前。中国が侵攻してきたら真っ先に蹂躙されちゃうわけですよ。現在でさえ周辺海域は中国の工作船が走り回り、漁民の方はかなりびくびくだそうな。
私は「八重山日報」という社名の入った腕章を着けて反基地派に近づいたのだが、すぐに彼らがジロジロとうさん臭そうな視線を向けてくるのに気づいた。中年の男性が「あなたは八重山から来たのか」と話しかけてきた。「八重山は尖閣問題で大変だな。でも、もともと沖縄は中国なんだよ。福建省の離島なんだ」と言った。八重山から来た人間と見るや、わざわざ「沖縄も尖閣も中国だ」と言いに来る反基地派の神経に、私は唖然となった。男性の表情は真面目で、冗談を言っているようにも、喧嘩を売っているようにも見えない。
あのぅ〜 これ読む限り、座り込みしている人たち、中国の息がかかってるようにしか見えないですよね??というか、モロに工作員ですよね・・・
まあ、それはさておき、先日のエントリーでは沖縄在住の方達からFacebookでいろいろご意見いただいて、とても興味深かったのですが、その中で「沖縄米軍の犯罪率は下がってもいないし、凶悪犯が非常に多い」というのがありました。「在沖縄米軍と犯罪 -高い凶悪犯罪の発生率-」とかで出てくるのを見ますと、非常に古いデータを意図的に加工していて、これが「ねじ曲げ」なんだなぁと思った次第です。で、結局、最初にご意見いただいた沖縄のHさん自身が、「あれっ」と思う公式データを見つけてくれました。
本日はそのデータを元に、ポツポツとグラフ化してみましたよ。沖縄県の公式なデータです。



この資料は沖縄の米軍についてのほぼ全てですが、↑は米軍人、軍属、家族の起こした犯罪の人数を集計したものです。面倒だけどNumbersで折れ線グラフにしたよ。まずは米軍関係者の逮捕者数の推移。


ベトナム戦争が終わったあと、沖縄は荒れに荒れてました。アメリカの初の負け戦。みなさんは暗殺されたケネディって若くて自由の人みたいしなイメージがあるかもしれませんが、好戦的でベトナム戦争を拡大したのは彼です。自国を守る戦いでもないのにベトナムでは6万人のアメリカ兵が死にました。いまでいうPTSDとか蔓延する麻薬など、帰還兵は荒れまくったわけですが、冷戦は続いてました。
でもって抜け目ない中国はこのさなかにベトナムの西砂諸島を武力で奪取してます。
しかしこのあと、沖縄での米軍関係の犯罪率は低下していきます。湾岸戦争は意義ある戦いであったのでそれほどモラルは落ちなかったのですが、イラク戦争ではまたストレスからか犯罪率が上がりました。だって大量破壊兵器なかったもんね。しかし現在では年間400件近くあった米軍関係の犯罪は38(2013)まで減少。1/10になってます。年配の方達が「米軍人はひどい」と考えるのは3040年前の記憶が鮮明だからだと思います。
で、米軍関係の凶悪犯罪はどうかというと


こちらも激減しています。
ピークは1977年の69件。このときは沖縄のみなさんは本当に腹立たしかったと思います。日本全体の犠牲になってしまったというのが当たり前です。しかし2013年には0件・・・2012年も2件でした。
こう書くと、「いやいや逮捕者38人でも多いだろ」という方がいるので、沖縄全体における犯罪検挙者の米軍関係の比率はどうなのかもグラフ化しました。


ものすごく下がってます。
ピーク時は77年の10.3%!!!!
このときは逮捕される犯罪者の10人に1人が米軍関係。これはひどい!!!
しかしここ10年は1%台でありまして、2013年は1.0%
沖縄の人口が142.3万人。米軍関係の数が4.5万ですので、米軍関係の比率は沖縄の人口には含まれていないと思うので合計して比率を出すと
人口比3%!
人口比3%で犯罪検挙率1%台ですので、かなり自主規制で制御されているのではないかと思います。日本人より検挙率はずっと少ない。人口比のままだとすると、年間100人くらいの逮捕者が出る感じだが、38人なんです。人口比だと月9人逮捕されていて普通の感じ。
ちなみに沖縄全体の全刑法犯は、昭和59(1984)がピーク(4312)でいったんかなり減少したものの平成10年あたりかせ上昇に転じ、平成17(2005)あたりに4346件と過去最高を記録。高止まりしているようです。沖縄県警、頑張ってください。朝生やるときはどなたかこのグラフ使ってください。せっかく作ったんで・・www
今日の結論です。何事も
1 信頼できるデータ(情報ソース)を探す
2 可視化できるように加工する
というのが大事ですね
 

NATOの集団的自衛権を学ぼう。

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NATOの集団的自衛権を学ぼう。
 
 
 

北大西洋条約機構/NATO

1949年結成のアメリカを含む西側諸国の集団的軍事機構。東西冷戦期にはソ連東欧圏への抑止力となっていたが、冷戦後はその性格を変化させヨーロッパ=北太平洋地域全体の安全保障機構となっている。
 1949年4月4日にアメリカのワシントンで締結された北大西洋条約(ワシントン条約とも呼ばれることがある)にもとづいて、当初12ヵ国が加盟して結成された軍事同盟。North Atlantic Treaty Organizasion 通称NATO。NATO本部は当初パリに置かれたが、66年にフランスが軍事部門から脱退(95年に部分的に復帰)したため、現在はベルギーのブリュッセルに置かれている。アメリカ合衆国とカナダというヨーロッパ以外の国が加盟していることに十分注意する。
 → 
ヴァンデンバーグ決議  NATOの目的  NATOの加盟国  NATOの変質  NATOの東方拡大
成立までの経緯
 アメリカの「封じ込め政策」が始まり、東西冷戦が深刻化する中、1948年2月、チェコスロヴァキアでクーデタが発生し、共産党政権が成立すると、それに衝撃を受けたイギリス(アトリー)は3月、フランスおよびベネルクス三国と西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)を結び、共同防衛をとることとした。6月にはアメリカ、イギリス、フランスの西側が占領地域である西ドイツの経済統合をめざして通貨改革を実行すると、ソ連はベルリン封鎖を強行し、対立は頂点に達した。1949年1月には東側諸国はCOMECONを結成、ソ連の核開発が進み、またアジアでは国共内戦で共産党の優位が明らかになっていた。そのような情勢の中で、西欧同盟諸国(ブリュッセル条約加盟国)は西側の防衛力強化に迫られ、アメリカに働きかけて、北大西洋でソ連圏を包囲する軍事同盟網を結成する構想が生まれた。1949年4月、西欧同盟諸国にアメリカ合衆国、カナダ、ノルウェー、デンマーク、アイスランド、イタリア、ポルトガルが加わり、12ヵ国によって北大西洋条約を締結し、条約に基づいて北大西洋条約機構(NATO)が発足した。
集団的自衛権の主張
 北大西洋条約第5条に「(条約加盟国の)一国ないし二国以上に対する武装攻撃は全ての(加盟)国に対する攻撃と見なす」と規定しており、それにたいしては国際連合憲章第51条で認められた集団的自衛権を行使すると定めた。その目的は、名指しはされていないがソ連および共産圏(東側)を仮想敵勢力としてその武力侵攻から共同防衛をはかることにあった。その目的に従い、機構加盟国は兵員を拠出して、北大西洋軍(NATO軍)を編制した。
アメリカの孤立主義放棄
 ファシズムから自由と民主主義を守るという名分によって第二次世界大戦に参戦(日本の真珠湾攻撃がその口実を与えた)したアメリカ合衆国は、その使命感から国際連合の設立をリードした。冷戦が深刻になると、共産主義との対決という名目のために、従来のモンロー主義以来のアメリカ外交の原則であった孤立主義を放棄して集団的自衛権をかかげ、1949年の北大西洋条約機構(NATO)をはじめ、50年代には中華人民共和国の成立、朝鮮戦争という情勢に対応してANZUS条約、日米安保条約、SEATO結成など、ソ連包囲網を形成する。この転換を国内的に承認したのが、1948年のヴァンデンバーグ決議だった。
西ドイツの加盟
 アメリカ・イギリス・フランスと西ドイツの西側諸国が締結したパリ協定に基づき、1955年に西ドイツ西ドイツ再軍備を認められて加盟すると、ソ連は強く反発して、NATOに対抗する軍事機構としてワルシャワ条約機構を結成した。こうして冷戦期間中、NATO軍はソ連=ワルシャワ条約機構軍と対峙する抑止力として機能した。
NATOとフランス
 フランスのド=ゴール大統領は、NATOを通してのアメリカ合衆国のヨーロッパへの介入に反発するようになり、1966年に軍事部門から脱退した。北大西洋条約そのものからは離脱しなかったが、NATO軍の足並みが乱れたことは確かであった。フランスはその後、1995年に部分的に復帰し、2009年3月にサルコジ大統領のもとでNATO軍事機構に完全復帰することを表明している。
冷戦終結後のNATO
 1990年の東西ドイツの統一、同年のマルタ会談による冷戦の終結を受け、NATOは大きく変容し、1990年の7月「ロンドン宣言」で「ワルシャワ条約機構」と敵対することを放棄した。そのワルシャワ条約機構は91年3月に消滅した。にもかかわらず、NATOが存続しているのは、統一ドイツの「ひとり歩き」をさせず、NATOの枠組みの中に置いておくことが意図されている。<佐瀬昌盛『NATO』1999 文春新書 p.22>
 現在のNATOは、ヨーロッパ=北大西洋地域全体の安全保障機構に移行し、旧東ヨーロッパ諸国の加盟を進めている。ユーゴスラヴィア内戦では平和維持軍を派遣し、2002年5月にはロシアの準加盟を承認した。 → 
NATOの変質
資料 北大西洋条約
 アメリカのワシントンDCで1949年4月4日に締結された北大西洋条約の主な条文はつぎのような部分である。
前文 この条約の締結国は、国連憲章の諸目的と諸原則に対する自らの信念、そして全民族と全政府とともに平和に暮らそうとする願いを再確認する。彼ら(締約国)は自由、民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配に基づき築かれた、諸国民の共有の遺産及び文明を守る決意をした。彼らは北大西洋地域における安定と安寧の促進を希求する。彼らは集団防衛及び平和と安全保障を維持するため努力の結集を決意する。彼らはそれ故、この北大西洋条約に合意する。
第5条 締約国は欧州または北米の一締約国以上に対する武力攻撃を全調印国への攻撃と見なすことに合意し、そのような武力攻撃の生じた場合、国連憲章51条に認められた個別又は集団的自衛権の行使により、北大西洋地域の安全保障の回復と維持のため、各々が、武力の使用を含む、必要と考える行動を、個別に、そして他の調印国と共同し速やかに執ることによって、攻撃された締約国を援助することに合意する。そのようなあらゆる武力攻撃とその結果としてとられたあらゆる措置は、直ちに安全保障理事会に報告されるべきである。そのような措置は安保理が国際平和と安全保障の回復と維持に必要な措置を講じた時、停止されなければならない。<谷口長世『NATO -変貌する地域安全保障-』2000 岩波新書 p.191->

ヴァンデンバーグ決議

1948年、アメリカ議会でNATO加盟を決め、孤立主義と訣別した決議。
 1948年6月11日、アメリカ合衆国上院外交委員長ヴァンデンバーグが主導して上院で可決したもので、北大西洋条約を締結し、NATOに加盟する前提として、アメリカが孤立主義を捨てて集団防衛条約に参加すること、その際に締約国にはアメリカが攻撃された場合に集団的自衛権を行使する決意を表明することを条件としてあげた。以後、アメリカの相互防衛条約一般の基準とされている。<佐々木隆爾『新安保体制下の日米関係』2007 山川出版社 日本史リブレット67>
 この決議によって、アメリカ合衆国は共産主義との対決という名目のために、北大西洋条約機構に加盟することとなり、従来の
アメリカ外交の原則であったモンロー主義以来の孤立主義を放棄して、集団的自衛権に依存する外交姿勢をとることに転換した。

NATOの目的

当初は東側(ソ連および東欧諸国の共産圏)からの武力侵攻に対する共同防衛をはかる軍事同盟であったが、冷戦終結後も存続しているのはなぜか。
 東欧社会主義圏の崩壊に伴い、1989年に冷戦は終結した。しかし、NATOは存続している。
 北大西洋条約の前文には、「国際連合憲章の目的及び原則に対する信念並びにすべての国民及び政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認」し、「民主主義、個人の自由及び法の支配の諸原則の上に築かれたその国民の自由、共同の遺産及び文明を擁護する」ことを掲げ、「北大西洋地域における安定及び福祉の助長に努力」し、「集団的防衛並びに平和及び安全の維持のためにその努力を結集する決意を有する。」と述べている。
 また第5条には、「ヨーロッパ又は北アメリカにおける一又は二以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすことに同意する。したがって、締約国は、そのような武力攻撃が行われたときは、各締約国が、国際連合憲章第51条の規定によって認められている個別的又は集団的自衛権を行使して、北大西洋地域の安全を回復し及び維持するためにその必要と認める行動(兵力の使用を含む。)を個別的に及び他の締約国と共同して直ちに執ることにより、その攻撃を受けた締約国を援助することに同意する。」とある。
結成時の目的
 あきらかにソ連および東欧圏の武力侵攻に対する西側の共同防衛が目的であったが、すでに存在した西欧同盟に加えてアメリカが加わったのは、西欧諸国としてもアメリカの軍事力に依存せざるを得ず、アメリカをヨーロッパ防衛の盾としてつなぎ止めておく必要があったからである(アメリカ国内には伝統的な孤立主義が上院などに根強く、NATO加盟反対の意見もあったが、トルーマン、アイゼンハウアー政権はいずれもNATOを支持した)。
西ドイツ加盟による目的の変化
 1955年、西ドイツがNATO加盟を条件として再軍備を認められたことは、NATOの目的の中にドイツを西側陣営にひきとめておくという目的が含まれることになった。(そのため冷戦後もNATOは続いたと言える)。1952年からNATO初代事務局長を務めたイギリスのイスメイ卿はNATOの目的を「アメリカ人を引っ張り込み、ロシア人を閉め出し、ドイツ人を押さえ込んでおく(keep the American in,the Russian out and the Germens down)」ことだと喝破した。<佐瀬昌盛『NATO』1999 文春新書 など>

NATOの加盟国

原加盟国は12カ国であったが次第に加盟国が増え、現在は26カ国が加盟している。
原加盟国 1949年4月の北大西洋条約機構(NATO)発足時は、アメリカ合衆国・イギリス・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ・ルクセンブルク・ポルトガル・デンマーク・ノルウェー・アイスランド・カナダの12ヵ国が原加盟国であった。北大西洋に位置し、北極海を挟んでソ連・東欧圏と対峙する位置にある諸国が加盟した。ヨーロッパだけでないことに注意すること。
NATO非加盟国 また、すべてのヨーロッパ諸国が加盟しているわけではない。
スウェーデンオーストリアスイスフィンランドアイルランドは中立外交を標榜しており、軍事機構であるNATOに加盟していない。
西ドイツの加盟 朝鮮戦争後の1952年に
ギリシアトルコが加盟し、地中海東部にも地域が広がる。さらに1955年には西ドイツが再軍備を認められると同時に加盟し、ヨーロッパで東西陣営が直接対峙することとなった。これに反発したソ連は、東側の軍事同盟であるワルシャワ条約機構を発足させる。
フランスの軍事機構脱退 ただし66年には
フランスが軍事部門から脱退した。(フランスは北大西洋条約から脱退したのではない。また95年には国防相会議参加などの形で部分復帰した。2009年3月には完全復帰した。)
東方拡大 その後、85年にスペインが加盟し、16ヵ国体制となった。冷戦終結後には旧東欧圏の加盟が始まり、NATOの東方拡大が進んだ。1999年のポーランド・チェコ・ハンガリー、2004年にルーマニア・ブルガリア・スロヴァキア・スロヴェニア・エストニア・ラトヴィア・リトアニアを加えて現在は26ヵ国となっている。 → 
NATOの東方拡大
Episode ポルトガルはよし、スペインはだめ
 NATO加盟国の中に小国が含まれているが、それぞれ加盟理由がある。デンマークグリーンランドがその領土であり、北極海をはさんでソ連と対峙する位置にあるからであった。デンマークは加盟には踏み切ったが平時での他国軍の駐留は認めていない。カナダ、アイスランドやノルウェーも北極海をはなんでソ連の直接の脅威に対抗するには必要な地域であった。イタリアは北大西洋とは離れているが、将来NATOの東地中海方面への拡大が予定されていたので加盟した。意外なのがポルトガルだが、同じく大西洋に面したスペインは加盟しないにもかかわらず、加盟することとなった。その理由は、ポルトガル領のアゾレス諸島が大西洋上の重要な戦略基地であったからである。スペインは当時、フランコ独裁下にあって、NATOの掲げる「自由と民主主義」の理念に合致しないので除外された。もっともポルトガルも当時はサラザール政権という独裁政治が行われていたが、軍事的な理由を優先して加盟を認めた。当時はポルトガルはNATOの恥部といわれたのである。<佐瀬昌盛『NATO』1999 文春新書 p.51>

NATOの変質

冷戦終結後、対共産圏軍事同盟としての目的は消滅。東欧革命、ソ連の解体、ユーゴスラヴィアの解体に伴い、東欧に加盟国を拡大させ、全ヨーロッパの集団安全保障機構へと性質を転換させた。
 NATO(北大西洋条約機構)は第二次世界大戦後、冷戦期の1948年に創設され、その目的は時期とともに変化しながら、柱は共産圏に対する防衛を目的とする軍事同盟であった。従って冷戦の終了とともに東側のワルシャワ条約機構の解散と同じく消滅してしかるべきであったが、前者が解散されたのに対して、NATOは存続を続け、さらに加盟国を増大させている。その反面、アメリカ軍の占める割合は減少し、米軍主体の核で重装備した軍事同盟という性格は薄らいでいる。その変質をまとめると次のようになる。
冷戦終結後のNATO
 1990年にNATO加盟諸国は「ロンドン宣言」を発表し、ワルシャワ条約機構を敵視することを放棄すると宣言、目的を一変させた。結成当時のNATOの目的は大きく変化したので、現在のものを「ニューNATO]という。東欧民主化によって成立した東欧諸国、ソ連解体に伴って成立したバルト三国などが相次いでNATO加盟を申請するようになると、ロシアはNATOが新たにロシアを敵視するのではないかと反発したが、97年にNATO諸国首脳がロシアのエリツィン大統領との間で「ロシアを敵視しない」という「基本文書」に署名、その結果東欧諸国のNATO加盟が実現した。 → NATOの東方拡大
現在のNATO
 「北大西洋」地域の安全保障にとどまらず、国際連合とOSCE(全欧安全保障協力機構)のもとで、民族紛争や人権抑圧、テロに対して、平和維持に必要な軍事行動を行うこととなった。その最初の行動が1999年のコソヴォ紛争でのNATO空軍のセルビア軍に対する空爆であり、アフガニスタンへの治安出動である。
 2014年の
ウクライナ危機では、NATOは集団安全保障機構から、かつてのソ連に対抗する軍事同盟という性格を復活させ、対ロシアの軍事行動に対する集団的自衛権の行使へと進む気配を見せており、憂慮されている。

NATOの東方拡大

東欧社会主義圏およびソ連の解体に伴い、東欧諸国が次々とNATOに加盟した。
 NATO(北大西洋条約機構)加盟国は、アメリカ、イギリス、フランスなど原加盟国12ヵ国から始まり、1952年にギリシア・トルコ、1955年に西ドイツ、1985年にスペインが加盟して16ヵ国体制となった。冷戦の終了、さらに1991年のワルシャワ条約機構の解散ソ連の解体によってNATOの性格は一変し、より広域の安全保障をになう軍事機構となりった。東欧革命後の東ヨーロッパ諸国と、旧ソ連を構成していた国々、さらにユーゴスラヴィアの解体に伴ってできた国々は、NATOによる安全保障の傘の中に入ることを望むようになった。旧盟主であったロシアは当初NATOの拡大に不快感を表し、難航したが、1999年のポーランド、チェコ、ハンガリーの旧ワルシャワ条約機構加盟国の加盟から始まり、NATOの東方拡大がつづくこととなった。その後、2004年にルーマニア、ブルガリア、スロヴァキア、スロヴェニア、エストニア、ラトヴィア、リトアニアを加えて26ヵ国となっている。
ウクライナの危機
 しかし、旧ソ連構成国でロシアに次ぐ大国であるウクライナのNATO加盟については、直接国境を接することになるロシアは神経をとがらせ、2014年にはクリミア半島のロシア編入を決める住民投票、東ウクライナの親ロシア派の反乱を支援するなど、新たな緊張を生んでいる。

日本への戦争準備に邁進する支那共産党軍。

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「人民解放軍は1979年の中越戦争以降、戦争を経験していない。『戦争しない軍隊は腐る』とは習近平主席の言葉だが、まさにその通りで、われわれ中堅若手は戦争を求めているのだ。

「軍内部で2012年以降、毎年夏に、『いかにして日本軍(自衛隊)に勝つか』というテーマで、多方面から中日両軍の比較検討を行うセミナーを開いている。
 
 「国民生活を守る」義務を野党が放棄 金美齢氏、ピンボケ安保法案審議を斬る。「自立した国民、国家になるためにも、自ら制定した憲法が欠かせない。憲法を改正すべきです」
>日本が国会で集団安全保障で無駄に時間を費やしている間に支那共産党軍日本への戦争準備に邁進。
  こんな国に無抵抗主義が通用すると思っているバカが日本の共産党(広くは自民党にも多数いる、あと日本の学者連中)をはじめとする売国サヨクだ。
  戦争の悲惨さを強調し軍備放棄をしたら平和に暮らせると本気に信じる。
 愚者は自分の経験(戦争経験者の多くが自分の経験で物事を語る。経験は強烈な刷り込みを脳に行うしかしそれだけで政治を判断すると狂う)で物事を判断し賢者は広く歴史を学び情勢を考える。
 
 
戦争求める中国軍 ミャンマーへの宣戦布告を建議したことも
2015.06.22 16:00
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 今や粛清の嵐は、中国人民解放軍にまで吹き荒れるようになった。怨嗟と不満が渦巻く軍をこのまま放置していれば、予期せぬ叛乱が勃発する可能性すら指摘され始めている。ジャーナリストの右田早希氏がレポートする。 * * * 習近平主席は現在、「
 今や粛清の嵐は、中国人民解放軍にまで吹き荒れるようになった。怨嗟と不満が渦巻く軍をこのまま放置していれば、予期せぬ叛乱が勃発する可能性すら指摘され始めている。ジャーナリストの右田早希氏がレポートする。

 * * *
 習近平主席は現在、「軍の汚職追放キャンペーン」を展開中である。要は汚職追放にかこつけて、230万人民解放軍の掌握を図るべく、権力闘争を仕掛けているのだ。

 その過程で、江沢民元主席が抜擢し、江沢民・胡錦濤時代を通じて人民解放軍に君臨した徐才厚・郭伯雄の両元中央軍事委員会副主席を粛清した。徐才厚上将は昨年3月に拘束され、今年3月に死去。郭伯雄上将は、息子の郭正鋼浙江省軍区副政治委員ともども、今年3月に拘束された。

「徐才厚と郭伯雄の両巨頭を粛清したことで、習近平は軍全体を敵に回してしまった」海外メディアはそのような憶測記事を飛ばしているが、こちら北京で人民解放軍関係者に話を聞くと、事実とはまったく異なる。

 ある海軍中堅幹部は、次のように述べた。

「徐才厚と郭伯雄が支配した江沢民・胡錦濤時代の解放軍は、まるでシロアリに蝕まれた倒壊寸前の家のようなものだった。出世のための賄賂が全軍に横行し、軍人の仕事はビジネス&宴会と化していたからだ。

 それを習近平主席は、『軍人の本分は戦争して勝つことだ』と檄を飛ばし、毛沢東時代の人民解放軍に戻してくれたのだ。そのため今は賄賂漬けになっていた幹部たちを除けば、軍の士気は高まり、戦争への準備は整っている」

 この海軍中堅幹部は、一つのエピソードを明かした。

「軍内部で2012年以降、毎年夏に、『いかにして日本軍(自衛隊)に勝つか』というテーマで、多方面から中日両軍の比較検討を行うセミナーを開いている。昨年の結論は、『わが軍がいくら空母を建造しても、内部の腐敗を一掃しなければ日本軍には勝てない』というものだった。だが今年は違う結論になるだろう」

 この中堅幹部に南シナ海の埋め立て問題について聞くと、次のように答えた。
戦争求める中国軍 ミャンマーへの宣戦布告を建議したことも
2015.06.22 16:00
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「習近平主席や呉勝利司令員が唱える『新たな大国関係』を構築するには、『不動の空母』とも呼ぶべき埋め立て地が絶対に必要だ。これはわれわれ現場サイドからの要請なのだ。

 429日に呉勝利司令員がグリナート米海軍作戦部長と行ったテレビ会談で、『(滑走路を建設予定の)用地は米軍に貸してもよい』と述べたが、あの発言も同様だ。要は、中国軍が東アジアの海を管理できていなければ、戦争ができない」

 陸軍の中堅幹部にも心情を聞いたが、答えは大同小異だ。

「人民解放軍は1979年の中越戦争以降、戦争を経験していない。『戦争しない軍隊は腐る』とは習近平主席の言葉だが、まさにその通りで、われわれ中堅若手は戦争を求めているのだ。

 313日にミャンマーの爆弾が誤って国境を越え、雲南省に落ちて中国人5人が死亡する事件が起きたが、われわれは上層部に、ミャンマーへの宣戦布告を建議したほどだ。北朝鮮の金正恩政権も、物騒な核ミサイル実験を止めないのであれば、解放軍が介入して政権を転覆させるべきだと具申している」

 ここで強調しておきたいのは陸軍と海軍の中堅幹部が共に、次のように結んだことだ。

「もしも習近平主席が対外戦争を躊躇するならば、われわれは『戦争できる指導者』に代わってもらうまでだ」

SAPIO20157月号
「習近平主席や呉勝利司令員が唱える『新たな大国関係』を構築するには、『不動の空母』とも呼ぶべき埋め立て地が絶対に必要だ。これはわれわれ現場サイドからの要請なのだ。

 429日に呉勝利司令員がグリナート米海軍作戦部長と行ったテレビ会談で、『(滑走路を建設予定の)用地は米軍に貸してもよい』と述べたが、あの発言も同様だ。要は、中国軍が東アジアの海を管理できていなければ、戦争ができない」

 陸軍の中堅幹部にも心情を聞いたが、答えは大同小異だ。

「人民解放軍は1979年の中越戦争以降、戦争を経験していない。『戦争しない軍隊は腐る』とは習近平主席の言葉だが、まさにその通りで、われわれ中堅若手は戦争を求めているのだ。

 313日にミャンマーの爆弾が誤って国境を越え、雲南省に落ちて中国人5人が死亡する事件が起きたが、われわれは上層部に、ミャンマーへの宣戦布告を建議したほどだ。北朝鮮の金正恩政権も、物騒な核ミサイル実験を止めないのであれば、解放軍が介入して政権を転覆させるべきだと具申している」

 ここで強調しておきたいのは陸軍と海軍の中堅幹部が共に、次のように結んだことだ。

「もしも習近平主席が対外戦争を躊躇するならば、われわれは『戦争できる指導者』に代わってもらうまでだ」

SAPIO20157月号
 

「国民生活を守る」義務を野党が放棄 金美齢氏、ピンボケ安保法案審議を斬る

夕刊フジ / 2015年6月22日 17時12分
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金美齢氏(夕刊フジ)

 通常国会は安全保障関連法案をめぐる与野党の駆け引きが熱を帯びている。17日の党首討論では、安倍晋三首相が「どの国も一国のみで自国の安全を守ることはできない」と安全保障環境の変化を指摘すると、民主党の岡田克也代表は「(法案は)憲法違反だ」「集団的自衛権はいらない!」と明言した。日本を愛し、台湾を愛する評論家の金美齢氏が、日本が直面する危機や、国会審議などについて語った。
 「与党であれ、野党であれ、国会議員は国民の生命と安全、生活を守るために万策を講じる義務があります。野党の『反対のための反対』という姿勢は、これを放棄したのと同じです」
 金氏はこう言い切った。1934年、日本統治下の台湾で生まれ、59年に来日し、早稲田大学に入学。71年、早大大学院を修了した。英語教育に携わる一方、新聞やテレビで評論家として活躍。2009年に日本国籍を取得している。
 現在の国会審議を見ていて心配するのは、日本をとりまく安全保障の急激な変化だ。
 「中国の軍事的拡張は無視できません。太平洋への進出を狙って、尖閣諸島を含む沖縄全体を手に入れようと、領海・領空への侵入を続けている。南シナ海を支配するために、岩礁を次々に埋め立てて軍事基地化している。それに対応する安保法案が必要であることは、来日したフィリピンのアキノ大統領が今月3日、国会で『日本は平和維持のため、国際社会に対して自らの責任を果たすうえで、より積極的な立場を取っている』などと、法案成立に期待する演説をしたことでも明らかです。日本人が力を合わせて覇権国家に対峙すべき時に…。野党は情けない!」
 安保法案について、3人の憲法学者が「違憲」と指摘したことにも、金氏は「憲法改正の必要性が一層明らかになった」といい、続ける。
 「憲法自体が(占領下で)米国から押し付けられ、日本人の手足を縛ってきた。国際社会は善意に満ちていない。自国や地域の平和と安定を保つためにも、自立した国民、国家になるためにも、自ら制定した憲法が欠かせない。憲法を改正すべきです」
 2012年の自民党総裁選で、金氏は「安倍晋三総理大臣を求める民間有志の会」の代表幹事を務めた。一連の国会審議を踏まえて、安倍首相にエールを込め、語った。
 「審議を遅らせるように見えた野党議員にいら立ち、ヤジを飛ばしたくなる気持ちも理解できます。でも、一国の総理なのだから、ドーンと構えるべきです。日本を救えるのは安倍首相しかいないのだから。12年の総裁選で、安倍首相は劇的な逆転勝利を果たしましたが、きっと日本の八百万の神々が『安倍晋三しかいない』と動かれた結果です。私はそう信じています」 (ジャーナリスト・安積明子)
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