中韓の恫喝、唯々諾々と受け入れ…「英霊に対する冒涜だ」 むしろ、「われわれもやられた」とも言っています。確かにドイツ人が戦地から引き揚げるとき、相当の仕打ちをされています。それを逆手にとにとって、「わ
SEALDs(シールズ)の正体
SEALDs(シールズ)の正体
中国が主張する南京虐殺30万人説 当時の人口20万しかおらず
生首が並んでいる写真は、実は中国軍が切り落とした馬賊の首だったり、寒さの厳しい12月なのに日本兵が半袖だったり。亜細亜大学の東中野修道教授の調査では、証拠とされた写真143枚すべてに加工の跡や事実と異なる点が認められた。
>日本の政治家はなぜもっとこの嘘を大きな声で世界にアピールしないのか。
「当時の南京の人口は、多く見積もっても20万人程度で、30万人殺すことは不可能。しかも、陥落から1か月後に南京安全区の国際委員会が人口をチェックしたところ、25万人に増えていた。日本軍による大虐殺が起きた町に、なぜ続々と中国人が集まってきたのでしょう」
虐殺の証拠とされる写真も捏造だらけだ。
生首が並んでいる写真は、実は中国軍が切り落とした馬賊の首だったり、寒さの厳しい12月なのに日本兵が半袖だったり。亜細亜大学の東中野修道教授の調査では、証拠とされた写真143枚すべてに加工の跡や事実と異なる点が認められた。
さらに、東京裁判で虐殺の証拠として採用された書物『戦争とは何か』にも疑問が投げかけられている。その編著者で、英紙特派員だったハロルド・ティンパーリーは、国民党中央宣伝部(情報部)の顧問で、党から資金提供を受けていたことが明らかになっている。
※SAPIO2015年9月号
空しきおもてなし…訪日客数22位、日本は「観光後進国」?
空しきおもてなし…訪日客数22位、日本は「観光後進国」?
2015.08.06日本政府観光局は2015年1月20日、2014年に日本を訪れた外国人旅行者数が前年比29・4%増の1341万3600人(推計値)だったと発表。過去最高だった13年(1036万3924人)を約300万人上回った。政府は東京五輪が開かれる2020年までに、訪日客数を14年比1・5倍となる2千万人に増やす目標を掲げている。
訪日外国人、1300万人を超えた!!
しかし!国別ランキングでは…
「観光立国」への道はまだまだ…「伝説のアナリスト」が警鐘
実際に…上位は“近隣”のアジア勢
理想と現実のギャップ…要因は「おもてなし」の欠如!?
それでも…日本は「観光大国」になれるポテンシャルがある
安全保障関連法案に反対しているのは世界で中国と韓国と日本の左派勢力だけだ!
安全保障関連法案に反対しているのは世界で中国と韓国と日本の左派勢力だけだ!
(社説)安保法制 違憲との疑義に答えよ
(社説)「違憲」法制 崩れゆく論議の土台(社説)「違憲」法制 政治権力は全能ですか(社説)「違憲」の安保法制―廃案で出直すしかない(社説)「違憲」法制 与党議員こそ街に出よ
中韓除く環太平洋諸国は支持 周辺国反対論の「虚像」
凄まじいソ連軍兵士たちの強姦(レイプ)
戦後のソ連の日本人虐殺を強く非難する
2012年3月 Minade Mamoru Nowar
関連サイト:満州開拓団の悲惨な結末
1.凄まじかった
鬼畜・ソ連軍兵士の強姦・残虐行為
ウィリアム・ニンモ氏の著書 『検証・シベリア抑留』 加藤隆訳 (時事通信社 1991年3月発行)
第47頁は
「要するに、満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は、
口ではいい表せないほどひどいものだった。
暴行と強奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。
・・・とくに野獣のように乱暴なやり方で女を奪い、
抵抗するものは片っぱしから殺した。
ソ連軍の兵士たちが日本の女にしたことは、
いまでもぞっとするほど残虐なものだった」 と述べている。
強姦された日本人女性のほとんど総ては、
その後、自殺、絶望死、病死、衰弱死した。
凄まじかったソ連軍兵士の日本婦人強姦
筑紫野市湯町の二日市温泉の済生会病院旧館のはずれに小さな水子供養祠がある。
1946年、満州からの日本人民間人の引き揚げが開始されてから、博多港に上陸した
日本人引き揚げ者は約1年半で139万人に上がった。
ソ連兵や北朝鮮の保安隊兵士に強姦されて、身ごもった女性も多数いた。
上陸寸前、絶望して博多湾に身投げした女性もいたといわれる。
身ごもった女性の妊娠中絶手術が厚生省博多引揚援護局二日市保養所で行われた。
手術は、麻酔を使わないで行われたといわれる。「白い肌、赤い髪、長い指。
一目でソ連兵の子供とわかる水子もいた」といわれる。
極悪非道なスターリンの侵略戦争の犠牲となり、
何度も【地獄の責め苦】に苛まれた女性たちを慰める言葉が出ない。
戦争を絶滅して、再び、このような悲劇が起こらないことを祈るのみである。
2.【歴史の闇】に葬り去られた強姦被害
出典:『週刊朝日百科113 日本の歴史 現代③ 占領と講和』第79頁
3.凄まじいソ連軍兵士たちの強姦(レイプ)
現在は人口約700万人といわれ、ハルビン市、大連市と並ぶ満州
屈指の大都市、瀋陽市にソ連軍が侵攻してきたのは8月19日である。
すぐにハルビン市、長春市と全く同様にソ連軍兵士たちのレイプ
(強姦)凶暴・暴行・殺戮・略奪が始まった。
中国国防大学教官の徐焔(シュ・イェン)大佐は著書の
『1945年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』
(朱建栄(ツウ・ジェン・ロン)訳 三五館 1993年8月発行)
第223頁~第229頁からで次のように述べている。
「ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに、
横暴な行為を露骨に現した。彼らは敗戦した日本人に強奪と暴行を
振るっただけでなく、同盟国であるはずの中国の庶民に対しても
悪事をさんざん働いた。
特に強奪と婦女暴行の二つは満州の大衆に深い恐怖感を与えた。
100万以上の満州に出動したソ連軍兵士の中では、犯罪者は少数と
いうべきだが各地で残した悪影響は極めて深刻なものだった。」
満州でのソ連軍の軍紀の乱れは目に余るものがあった。
彼らは白昼堂々と倉庫の中のものを盗み出し、町で売りさばき、
得た金を着服した。
夜になると泥酔状態で臭気をまき散らしながら、町中「マダム」を
捜し回った。恐れおののく庶民はドアと窓を締め切り、
ソ連軍が一日も早く帰ることを内心に祈っていた。
満州の各大都市はどこも同じような状況で、夜になるとソ連軍兵士が
街角に現れ、通行人を止めては携帯物品を強奪し、女性を追い回し、
時には銃をもって民家に押しかけることもよくあった。
瀋陽の町ではソ連軍警備司令部の憲兵がトラックで巡行するのを
よく見かけた。酔っ払いと軍紀違反者が多すぎるため、トラックで
大量に収容するからだ。逮捕されたら厳しい処罰を受けるが、
それでも軍紀違反者が後を絶たない。
ソ連軍の軍紀退廃についての中国側の最初の報告は、
満州に進出した八路軍の一番手の部隊が延安の党中央に送った電報だ。
1945年9月初めに山海関を出て瀋陽に到着した部隊は、
ソ連軍兵士による強奪事件を目撃し、また多くの中国人市民から
訴えを受けた。その報告で、ソ連軍は「軍服はボロボロで、軍紀は
はなはだ悪い」と説明し、現地のソ連軍政治部にも
「軍紀を厳粛にせよ」と申し入れた。
ソ連軍政治部は「すでに多くの措置をとって軍紀違反者を罰しており、
多い日には一日に20人以上も処刑した」と回答した。
しかしソ連軍側はまた、その原因を、兵士のファシストに対する
敵愾心に帰し、ドイツでも同じ行動をしたと弁明した。
この回答に八路軍はもちろん満足することができない。かといって
それ以上どうしようもなかった。
ソ連軍は自ら非公式に次のように背景を説明した。ドイツとの
激しい戦争で大量の死傷者を出し、兵力補給の不足を来たし、
戦争後期、多くの刑事犯も軍隊に補給した。そのため軍紀の
引き締めが十分にできず、悪質者を一部銃殺して何とか規律を維持
しているという。この説明の内容は事実かも知れたいが、ソ連軍
首脳部が軍中の非行者とその行為を真剣に取り締まらず、事実上、
野放しにしたことの責任は逃れられない。
ファシストに対する敵愾心をもって兵士の非行を説明し、
中国を敗戦国のドイツに例えた譬えたことは、
八路軍の将兵の中で憤りを引き起こした。
仮に敗戦国だったにせよ、無辜な一般市民に狭量な民族報復を
働いていいということにはなるまい。
異国で「三日間勝手にせよ」として兵士の闘志を刺激するなど、
なおさら政治の堕落だ。
ソ連軍のこのようた釈明はまさに、大ロシア主義の態度を
反映したものだと言える。その根本的な原因はスターリンの
「共産主義総本山」の意識にあり、そのため他国の人民を尊重する
教育を怠ったのだろう。
ソ連軍の一個戦車軍団が1944年末にユーゴスラビアの片隅を
通過した。その短い道程で、千件以上の婦女暴行と強奪事件を
起こした。これがユーゴスラビア国民の強い反発を招き、
のちにユーゴとソ連の関係決裂になる原因の一つになった。
ソ連軍がドイッの東部を占領した後も、強奪と暴行を繰り返し、
ドイツ人の民族感情を傷つけた。本来は親ソ的な東ドイッ政権なのに、
統治の基盤が不安定だったのは、それが一因でもあった。
満州での行為は、ソ連軍の一貫した行為の東方での継続だ。
1969年4月の中国共産党第九回全国代表大会で
毛沢東がソ連の満州出兵に触れた際、
「当時のソ連の軍紀は退廃そのものだ」と恨めしげに語った。」
4.ソ連軍兵士の凄まじい婦女暴行
若槻泰雄著 『戦後引揚げの記録 新版』時事通信社 1995年10月発行
第123頁
満州に侵入したソ連軍は、8月19日には、早くも外部との一切の通信交通を
遮断した。そして世界の目から隔絶された中で、ソ連の軍隊はほとんど例外なく、
被占領国民たる日本人の上に強奪・暴行・婦女暴行をほしいままにしたのである。
程度には若干の差はあったし、侵入直後が最も激しかった地区や、逆に日を追って
悪化したというような都市もあり、数日にして一応平静に帰した所もあれば、
占領の全期間、数ヵ月にわたった例もある。
兵器をもったソ連兵は、群れをなして日本人の各家庭や会社の事務所に押し入った。
そして手当たり次第、金めのもの時計、貴重品、衣類などを強奪する。
そして撫順など極めて少数の例外はあるが、婦人とみれば、老若を問わず
婦女暴行を働いた。
抵抗するもの、あるいは、これを阻止しようとするものは容赦なく射殺する。
窓を閉じ、扉に鍵をしめ、更には入口を釘で打ちつけていても無駄である。
軍隊が本気で民家に侵入しようとするならば、そんな程度のものを
打ちこわすのはいとも簡単であろう。家屋は無残にたたきこわされるだけだ。
しかもこの行動は「夜陰に乗じて」というわけではない。ソ連兵の強奪は
「盗む」とか、「奪う」というような段階ではなく、トラックを横付けにし、
「それはまるで運送屋のように、だれはばかることなく、せっせと運んだ」
と表現している体験記や、「何年もたった後でも、夜中エンジンの音を耳に
するとぞっとすることがあったくらいだ」という記述もある。
筆者の意見:
筆者は満鮮国境・鴨緑江河口の安東市(現・丹東市)生まれで、敗戦の翌年、
1946年10月まで同市に住んでいた。安東市は満州の中で最も治安がよかった。
それでも、ソ連軍占領中は、ソ連軍兵士の略奪・暴行が絶えなかった。
若槻教授の上記記述には何らの誇張、虚偽はない。事実を正確に述べている。
2011年1月16日夜、NHK総合テレビから、スペシャル番組『日本人はなぜ戦争へと
向かったのか 第2回 巨大組織「陸軍」暴走のメカニズム』が放送された。
日ソ戦争(ソ連の対日参戦)敗戦後65年、平和な時代の日本国民が、知りたくない、
思い出したくない、正視できないのが、1945年、満州と北朝鮮で現実に起きて
多数の日本人女性が蒙った、良心を完全に失っていた鬼畜・ソ連軍兵士たちによる
強姦(性的暴行)事件である。犠牲となった日本人女性は、無能・無策・無責任な
旧日本帝国陸軍の最高指導者たちと高級参謀たちが引き起こした満州事変と、
それに続く満蒙開拓団送り込み政策の犠牲者でもある。戦争の惨禍を引き起こさない
ために、忘れることは許されないと思う歴史事実である。
5.北朝鮮における
強姦、暴行、殺戮、強奪
編集委員:細川護貞・大井篤・豊田隈雄・阿川弘之・千早正隆・鳥巣建之助
『高松宮日記 第八巻』中央公論社1997年12月発行 第175頁~第176頁
「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、通行中の婦女を犯す。
汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。
2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、下の娘は性病に罹る。
元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、(引き受け者の)
人数不足せるを(補うものを)くじ引きにて決めたり、日本婦人の全部は強姦せらる。
(慰安婦を)強要せられ自殺せるものも少なからず。
6.東ドイツにおけるソ連軍兵士の強姦犯罪
旧東プロイセン・カリーニングラード
アントニー・ビーヴァー著・川上洸訳
『ベルリン陥落1945』 (白水社 2004年8月発行)
本書の多くの頁において、1945年、凶暴なソ連軍兵士たちが、
ドイツ本土のみならず、侵入したどの地域においても、
すさまじいレイプ(=強姦)・殺戮・強奪を行った状況が、
赤裸々に述べられている。
ソ連軍兵士たちは、年齢に関係なく全ての女性をレイプ(=強姦)した。
彼らの性暴力行為は現代に生きる筆者の想像を超える凶暴さであり、
明白な【人道に反する罪】である。
第482頁
「ダーレム(ベルリン市内)の産院と修道院を兼ねる女子修道院
【ハウス・ダーレム】では、修道女、若い娘、老女、妊婦、
出産したばかりの母親が、みんな容赦なく暴行(=レイプ=強姦)された。」
第602頁
「ベルリンの二つの主要病院によるレイプ(=強姦)犠牲者の推定数は
9万5000人ないし13万人。東プロイセン、ボンメルン、シューレージエンでの
レイプ(=強姦)被害者140万人の死亡率は、ずっと高かったと考えられる。
全体では少なくともも200万人のドイツ女性がレイプ(=強姦)されたと推定される。
繰り返しレイプ(=強姦)された人も、過半数とまではいかなくても、かなりの数に
のぼるようだ。」
第614頁
「東プロイセンは、すべての被占領地のなかでいちばん悲惨な目にあった。
なによりもみじめなのは、(ドイツ本土へ)逃げ遅れた民間人の運命だった。
大多数の老若女性がソ連での強制労働に駆り立てられた。森林、泥炭地、
運河で、1日、15時間から16時間もこき使われた。2年間で半数をやや上回る
死者が出た。生き残った女性の半数近くがレイプ(=強姦)された。
大多数が結核や性病におかされた。」
第606頁
「その夏(45年夏)を通じて、各国の新聞・雑誌はこの問題(ソ連軍兵士たちの
レイプ(=強姦))を掲載しつづけた。」
参考サイト:大戦直後のソ連軍兵士の性的暴行
参考Youtube:
2 Million German women were raped during WWII
by the Russian soldiers.
7.開拓団避難民の悲劇
2005年8月3日、NHK総合テレビから放送された『ソ連参戦の衝撃-満蒙開拓民は
なぜ取り残されたか』は、「当時、中国東北部(満州)に住んでいた国策開拓移民は、
【根こそぎ動員】で夫を日本軍に現地招集され、多くの家庭が母子老人家庭となっていた。
戦闘最前線に取り残された哀れな日本人母子老人家庭避難民は、戦闘に巻き込まれて
約3万人が死亡した。その後、病気と飢えで約21万人が死亡した」と報じている。
この番組では放送されなかったが、合田一道著『検証・満州1945年夏 -満蒙開拓団の
終焉』(扶桑社 2000年8月発行)は、満州各地の開拓団の日本人母子老人家庭避難民が、
ソ連軍と武装した中国人暴徒集団の両者に襲われて、【殺害】されたり、
【集団自決(=集団自殺)】に追い込まれたりした悲惨な状況を詳しく述べている。
財団法人満蒙同胞援護会(会長:平島敏夫 参議院議員・満鉄元副総裁)編
『満蒙終戦史 全928頁』(河出書房新社 昭和37年(1962年)7月発行)の第812頁~第813頁は
次に通り述べている。
受難は終戦時の満州在住の日本人約195万人(関東州内25万人を含む)すべての運命であった。
もちろん程度の差はある。しかしながら、ソ連軍の満州進撃の日から、遣送帰国の日まで、
不断の危機と苦難にさらされなかった日本人は、ほとんど皆無であったろう。
なかんずく、開拓農民の受難は数多くのの実例にも見られるように悲惨深刻を極めた。
この成行きは、しかし、当然ともいうべきであろう。敗戦とともに、旧満州国の権威は一挙に
崩壊した。ソ連軍の侵入、前満州国軍・蒙古軍の反乱、通信・交通の杜絶、原住民の蜂起
などが相次いで、いわゆる王道楽土は恐怖と混乱の世界に急転したのであった。
特に、ソ満国境の開拓団のなかには、ラジオさえ持たず、したがって日ソの開戦も終戦も知らず、
事実を知ったときには、関東軍(満州駐留の日本軍)と日本人役人はいち早く退避した後で、
ひとり曠野に取り残された形となったものが少なくなかった。
しかも、それまでに、開拓団の青年・壮年男子はことごとく徴兵されし、開拓団部落の大部分は
無力な老人・婦女子・子供のみであったことが混乱と悲劇を一層増大したのであった。
ごく少数の男子残留者が開拓団全員を護衛して集団南下を企図したのであったが、
この退避行の道程こそ、ほとんどが、見るも無惨な、地獄絵図となったのである。
ソ連軍または中国人暴徒の襲撃に遭って殺害され、自殺して、全滅した開拓団、及び
1,110名以上の自殺者を出した開拓団は、100団以上を算える。難民生活中の死亡を併せて、
満州の全開拓人口の約30%が死亡したものと見られる。
項目 | 開拓団 | 義勇隊 | 報国農場 | 合計 |
団数 | 944 | 102? | 74 | 1,131 |
終戦時在籍者 | 243,488 | 22,828 | 4,112 | 270,428 |
調査済団数 | 847 | 91 | 67 | 1,005 |
同上在籍者 | 213,663 | 22,518 | 4,976 | 241,157 |
死亡者数 | 61,190 | 3,077 | 1,056 | 65,323 |
未引揚者数 | 23,746 | 2,218 | 623 | 26,587 |
帰還者数 | 128,710 | 17,223 | 3,297 | 149,230 |
同書第518頁~第519頁は「全満州にわたって、終戦前後の
混乱に殉難して亡くなった人は、調査統計に出ている数でも、
207,980人となっている。恐らく実際には20万人をずっと
上まわっていたといえよう。これらの人の最後はいろいろであった。
一番多かったのが伝染病によるもので、発疹チブスやコレラで
亡くなった。ついで栄養失調によるものが多く、このため、乳幼児が
バタバタと死んでいった。各地別の死亡者数は次の通りである。」
全満州各地別死亡者調査数
地名 | 埋骨箇所 | 死亡者数 |
大連:関東州 | 2 | 15,000 |
鞍山 | 1 | 1,500 |
遼陽 | 1 | 800 |
蘇家屯 | 1 | 450 |
奉天 | 3 | 37,000 |
撫順 | 3 | 5,000 |
本渓湖 | 1 | 250 |
安東 | 1 | 3,800 |
延吉 | 2 | 54,536 |
牡丹江 | 1 | 4,000 |
佳木斯 | 1 | 150 |
哈爾浜 | 6 | 7,715 |
斉斉哈爾 | 2 | 2,400 |
熊岳城 | 2 | 60 |
大石橋 | 1 | 200 |
錦州 | 3 | 3,100 |
錦西 | 3 | 39 |
通化 | 2 | 4,500 |
鉄嶺 | 1 | 650 |
四平 | 1 | 60 |
公主嶺 | 1,000 | |
新京 | 3 | 27,319 |
吉林 | 3,555 | |
嫩江 | 1 | 700 |
興安街 | 4 | 1,999 |
札蘭屯 | 1 | 200 |
五常 | 8 |
全ブログの続きです。
二・二六事件』(ビジネス社 2005年12月発行)第191頁に「(1933年当時、
満州には)匪賊(ひぞく)と呼ばれるテロリストたちは推定100万人から
300万人いたといわれます。ほかにも「半農半賊=状況次第で匪賊になる」、
「宗教匪」、「政治匪=敗残兵」、「共匪=共産ゲリラ」・・・など神出鬼没、
昭和8年(1933年)だけでも、匪賊による都市襲撃は27件、列車襲撃は
72件を数えた、というデータがあります」と述べられている。これらの武装
中国人暴徒集団が一斉に、関東軍の保護を失った日本人母子老人家庭
避難民を襲って、レイプ、暴行、殺戮、強奪を行ったのである。
渡部名誉教授が匪賊と表現されている100万人~300万人の中国人
暴徒の大部分は、旧日本帝国軍部の【満蒙開拓団】政策によって土地を
奪われた農民たちである。1931年の満州事変以後、東宮鉄男(関東軍
陸軍大尉、張作霖殺害の実行犯)、石原莞爾(関東軍参謀、満州事変の
首謀者)、加藤完治(農業指導者)、石黒忠篤らは【満蒙開拓団】政策を
積極的に推進した。かれらは、誰ひとりとして、【土地と水、特に農地の
争奪こそが人類の紛争の根源】という発想を持たなかった。果てしなく続き、
解決の曙光さえ見えないイスラエルとパレスチナの悲惨な紛争も、原因は
【土地と水の争奪】である。ソ連軍と武装中国人暴徒集団のレイプ(強姦)、
暴行、殺戮、強奪によって約24万人の開拓団母子老人家庭避難民が死亡
した。旧日本帝国軍部の【満蒙開拓団政策】と、1945年7月の【開拓団の
日本人母子老人家庭は見棄てる】方針の痛ましい犠牲者である。
『検証・満州1945年夏 -満蒙開拓団の終焉』第53頁~第71頁は、
団員、420人あまりが【集団自決】した哈達河(ハタホ)開拓団中央
グループの悲惨な最期について、納富善蔵さんの談話を載せている。
(麻山事件)
哈達河(ハタホ)開拓団は鶏西(チーシー)市から東へ約8キロ、当時の
ソ連との国境のすぐ近くにあった開拓団である。 哈達河(ハタホ)開拓団
中央グループは逃避行の途中に、ソ連軍の戦車隊と武装した中国人暴徒
集団に前後をはさまれて身動きできなくなり、ついに全員集団自決の道を
たどったのである。中央グループが集団自決する前に、先頭グループ
約300人も、ソ連軍と武装した中国人暴徒集団に襲われて、殺害されるもの
や、負傷者が続出して集団自決していた。
「まず団長がピストルで頭部を撃ち抜き死んだ。続いてあちこちで自殺が
始まった。銃を手にした男たちが、白い布で鉢巻きをしたり、目隠しした
わが妻、わが子を撃ち殺した。短刀でわが子の胸を突き刺し自分も死んで
いく母もいた。喉を突き血みどろになって転がる者、草をわしづかみにして
もだえる者、この世のものとは思えない恐ろしい情景だった」。
NASA衛星画像
参考資料1:
蓑口一哲著『開拓団の満州 語り継ぐ民衆史Ⅲ』(新生出版 2005年6月発行)
『第1章 哈達河開拓団と麻山事件』第7頁~第86頁
参考資料2:
中村雪子著『麻山事件 満洲の野に婦女子四百余名自決す』草思社 1983年3月発行
同書第98頁~第102頁には、ハルビン市と牡丹江市の間にある現在の
賓県市にあった大泉子開拓団と財神開拓団の悲惨なデータを載せている。
45年8月15日現在、両開拓団合わせて、550人いた。武装した中国人暴徒
集団に襲われて殺害されたものと、自決者(=自殺者)は294人であった。
武装した中国人暴徒集団に襲われて、男手のない女子・子供・老人だけの
開拓団は、もう生きられないと観念して自決(=自殺)の道を選んだのである。
その後阿城に収容されたが病死者が続出、143人に達した。
死亡者は合計437人、全体の79.5%に達する。
同書第244頁で、著者の合田一道氏は
「満州開拓団の人たちを死地に追いやったのは、まぎれもなく
わが国の政治であったと断言せざるを得ないのである」と述べている。
中国軍国防大学教官で、戦史研究家の徐焔(シュ・イェン)大佐は、
著書 『1945年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』
(朱建栄(ツゥ・ジェンロン)訳 三五館1993年8月発行)の第180頁で
「土地を日本「開拓団」に強奪された農民と、鉱山や工事現場で
強制労働に従事させられ地獄のような生活をした労働者は
憎しみが特に深く、関東軍の敗退後、彼らが最初にしたことは
こん棒、鍬などを手に、日本人や旧「満州国」の警察などに
復讐することだった」と述べている。
1945年8月、凶暴なソ連軍兵士たちと、日本人に対する復讐意識に
もえる武装した中国人暴徒たちの、レイプ(強姦)、暴行、殺戮、強奪の
犠牲となった満州開拓団の人たちに対するインタビューを中心に、
数多くの自決者(=自殺者)を出した満州開拓団の悲惨な末路について
詳しく述べた著書、『開拓団の満州 語り継ぐ民衆史Ⅲ』(新生出版 2005年6月
発行)』の 第284頁で、著者の蓑口一哲氏は
「満州事変まで、日本から満州への農業移民は1,000人足らずであった。
満蒙開拓団という新しい政策を推進したのは、東宮鉄男(関東軍陸軍大尉、
張作霖殺害の実行犯)、石原莞爾(関東軍参謀、満州事変の首謀者)、
加藤完治(農業指導者)、石黒忠篤らである。
当時の高橋是清蔵相は満蒙開拓団に不賛成であった。高橋蔵相の
【移民など可哀想だから良くない】という一言でいったんはしぼみかけた
この構想であるが、1932年の5.15事件(海軍将校が犬養毅首相ら政府首脳を
殺害したテロ事件)で、高橋是清は更迭されてしまう。満州国成立後、
この構想は具体化された」と述べている。
日本を破滅に追いやった満州事変の首謀者である石原莞爾ら関東軍参謀
たちは、1945年8月の【満州開拓団の悲劇】の責任者としても、その罪を
厳しく糾弾されなければならない。
半藤一利氏は、著書『ソ連が満洲に侵攻した夏』(文藝春秋1999年7月発行)
の第313頁で、「囚人部隊を先頭に立てたという説もあるが、(満州へ)
一番乗りで突進してきたソ連軍兵士はドイツ戦線で鍛えられた猛者が多く、
戦場で鍛えられはしたが、教育や訓練で鍛えられる余裕のなかったものが
多かった。(日本人は)時計はもとより、机、椅子、鉛筆、消しゴム・・・
何から何まで奪われた」
「かれらが開拓団の逃避行を平気で攻撃してきたのは、
戦場の常とはいえ、許されることではない」と述べている。
保護すべき日本人母子老人家庭難民や民間人である開拓団員を
保護せずに、逆に、レイプ(強姦)・暴行・殺戮・強奪を行ったことは
【人道に反する罪】である。
前掲書第313頁に述べられている通り、犠牲はそれらにとどまらない。
いまにあとをひく数千人の残留孤児の問題である。規律が滅茶苦茶な
ソ連軍兵士のレイプ(強姦)・暴行・殺戮・強奪によって、日本人母子老人
家庭避難民は、【子供を置き去りにせざるを得なかった】ほど、
死と隣り合わせの極限状態に置かれたのである。
前掲書第271頁~第273頁で半藤一利氏は次のように述べている。
「日本本土では確実に、そして早急に平和と安息が訪れてきている。しかし
満州では、まさしくその正反対のことが行われようとしていた。ソ連軍の
進駐の日を境に、大小都市や町で【悪夢】がはじまったのである。市内の
治安はその日を境に混乱し、乱れに乱れていった。殺人、婦女強姦、強奪、
暴行はひんぴんとして行われだした。8月18日以降、ハルビン市はソ連兵
による強奪、暴行、強姦の街と化した。」
NASA衛星画像
You Tube:【軍歌】関東軍軍歌
(筆者は満州の国民学校で毎日歌っていた。歌詞の一部は変わっているが。)
You Tube:満州国国歌
8.奉天(現在の瀋陽)における開拓団・婦女子の悲惨な状況
米国の戦史研究家、ウィリアム・ニンモ氏は著書『検証・シベリア抑留』
(加藤隆訳 時事通信社 91年3月発行)の第46頁で次のように述べている。
「1945年8月以降、満州の日本人たちは大多数が苛酷な状況下にあった。
まず厳しい寒さ、それにインフレ、交通の悪さ、病気などで生き残ることを
困難にし、1945年~46年冬の死亡率を高めた。
日本政府は、その冬だけで11万人の日本人が死亡したと推定していた。
翌年の冬はもっと増えるだろうと予想していた。
元満州の住民はこう語った。
「それは想像を絶するほどのひどさだった。最悪なのは、たくさんの人が
飢えと酷寒のため死んだことだ。おびただしい数の避難民がソ連との国境に
近い満州北部から流れ込んできて、奉天(=瀋陽)の学校や他の施設に
収容された。
冬の間中、毎日大勢の人が死んでいくのを見た。市内にはそれを埋める
場所もなかった。近くの、人が住んでいないあたりに、縦横6メートル、
深さ4メートルの大きな穴が掘られた。死体は低温のためすでに硬く凍って
いた。それを穴の中に投げ入れ、上から薄く土をかぶせた。」」
日本経済新聞(朝刊)2006年11月27日第39面は、旧満鉄職員の話として「終戦時、
情勢が安定していた撫順に、満州全土から数万の避難民が貨物列車でたどり着いた。
服をはぎ取られた女性は米などをいれる麻袋をまとい、幼児は餓死寸前。
感染症が流行し、一日に数十人単位で亡くなった。
学校の校庭に穴を掘って入れた。寒いうちは凍っているが、夏になると
解けるから廃油で焼く」との悲惨な話を報じている。
瀋陽北部Shanyang
瀋陽南部Shanyang
9.葛根廟事件
武器を持たない無防備の約2,000人の日本人母子老人家庭避難民が奉天(瀋陽)への
避難途中、突然、警告なしに、ソ連軍戦車隊に襲撃され機銃掃射で惨殺された。
重傷を負った避難民は自殺した。生存者はわずか150人であった。
生き残った子供は遺棄孤児(=残留孤児)となった。
葛根廟・烏蘭浩特(ウランホト)・白城一帯
8月14日、満州北西部の興安(=烏蘭浩特(ウランホト)市)から避難途中の
日本人母子老人家庭避難民、約2,000人が、同市郊外の葛根廟一帯で、
ソ連軍の戦車隊に襲われ、銃撃で多数虐殺され、さらに負傷者の多くが自殺し、
生存者はわずか150名といわれるのが葛根廟事件である。
西日本新聞の『シリーズ・戦後60年』の『葛根廟(かっこんびょう)事件』は、
生き残って残留孤児となった川内光雄氏の、「一晩中、母の遺体の横で
泣き明かしました。親を失って子供たちはみな一晩中泣いていました。
負傷した多くの人たちが手りゅう弾や短刀で自決(自殺)していきました」
との悲惨な証言を載せている。
NASA衛星画像
参考資料:読売新聞大阪社会部編
『新聞記者が語りつぐ戦争⑤「葛根廟」』新風書房 1992年8月発行
1988年8月、日中出版から出版された,
森留美子著『母よ、友よ広野で眠れ-葛根廟事件の真相』の
第108頁~第114頁で、当時、斥候として現場に居合わせ、
惨状を目にした管忠行氏は次のように語っている。
「視界の中に、興安街から白城子に通ずる鉄道と併行している道路の上に、
黒い点の長い列が見えてきた。日本人避難民の集団が、細く長い列をつくって
現れてきた。ちょうど盆地のような地形の中に、異様な、草原に浮かぶ駆逐艦の
ような廟があり、いま、日本人避難民の長蛇の列は、草原を東西にして、せまい
盆地の中央部にさしかかったのである。
ちょうどその時、我々三人のいちばん近いところにいた戦車が銃を一発うった。
それを合図に、反対側にいた戦車が動き出した。そこは日本人避難民の長蛇の
列の最後尾のあたりである。長い縦列を後ろから襲う隊形である。14台の戦車が
斜面を下りながら銃撃を始めたのである。
【あっ?!・・・・・・・】といったきり、三人共声が出ない。
このような無装備集団に、戦車群が襲いかかるなど、考えてもいなかった。
戦車は無線で連絡し合っているのであろう。順繰りに、日本人避難民の列を
めがけて、稜線を下り、反転してまた登り、下りながら銃撃している。
我々三人のいる所から200メートル近くまで上がってきて方向転換をし、また
銃撃しながら下りていく。
戦車群の位置は太陽を背にして、日本人避難民の列を横から襲っているので
ある。避難民からは戦車が見えにくいようである。その殺戮の場を、我々三人は
東南方向から太陽を斜めに背にしている。だから眼下に展開されている虐殺の
全貌がはっきり見える。
止まった戦車の天蓋からソ連兵が数人出てきた。機関銃の三角の銃火光が
続けざまに見えた。死にきれずにいる日本人避難民に対して、なおも仮借のない
トドメの銃撃なのであろう。非戦闘員の日本人避難民に銃撃を加え、
その上キャタピラで死体を圧し潰し、悪魔のように戦車群は去っていった。」
10.ソ連と北朝鮮が日本人の帰国を禁止・妨害-
北朝鮮の日本徹底敵視は金日成から始まったもの
資料:太平洋戦争研究会著『図説 満州帝国』 河出書房新社1996年7月発行 第106頁
満州及び北朝鮮における日本人避難図
資料出所・防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 関東軍(2) 関特演・
終戦時の対ソ戦』第410頁 (株)朝雲新聞社 昭和49年6月発行
1945年8月の日ソ戦争(ソ連の対日参戦)終了後、満州・北朝鮮を占領した
極悪非道なスターリンのソ連軍は日本人民間人の日本への帰国を禁止した。
極悪非道なスターリンのソ連軍は、北朝鮮占領後、満州(中国東北部)と北朝鮮との
国境の町・丹東市から韓国のソウルまでの鉄道の利用を日本人民間人に認めなかった。
極悪非道なスターリンのソ連軍は、日本人民間人の保護は徹頭徹尾行わなかった。
逆に日本人民間人に対してほしいままに
強姦(レイプ)、殺戮、奴隷狩り、暴行、略奪を行った。
この極悪非道なスターリンのソ連軍の【人道に反する】行為が、
戦闘中及び戦闘終結後の満州・北朝鮮において、
1945年~1946年に、生活手段・生活環境を失った
日本人民間人が25万人以上死亡した原因である。
特に開拓団の母子老人家庭避難民は地獄さながらの状況に置かれ悲惨であった。
冬期間は飢餓、伝染病、栄養失調、極寒、絶望感で死者の出ない日はなかった。
開拓団の母子家庭の多くの乳幼児が満州あるいは避難先の北朝鮮に遺棄された。
かれらは遺棄孤児(=残留孤児)として二重三重の苛酷な運命を背負わされ、
苦難の道を歩まなければならなかった。
筆者は、満州・北朝鮮において日本人民間人が蒙ったこの惨禍を
スターリンの惨禍と名付けて、中学・高校の歴史教科書に記載して
後世に伝えることが、亡くなられた犠牲者の方々の慰霊であると思う。
ソ連軍が38度線を越える列車の運転を止めたため、日本人避難民は徒歩で38度線を
越えて、地獄の北朝鮮から、南朝鮮の米軍占領地域に逃げ込んだ。
瀋陽-丹東(旧称:安東)-ピョンヤン(旧称:平壌)-ソウル(旧称:京城)間の
敗戦直後(1945年8月)の鉄道路線図
北朝鮮から南朝鮮への日本人避難民の徒歩避難ルート
参考資料:藤原てい著 『流れる星は生きている』 中央公論社 1984年8月発行
第6頁 避難経路図
第210頁~第231頁より抜粋引用
川を渡る苦しみ
大きな山を遠く迂回している山道には大きな石が多かった。
私の裸足の足は昨日から腫れ上っている。
足の裏が破れて血が出ていることは知っていたが、
ずきんずきんする痛みをこらえて一晩寝て起きると、
今日は化膿したのかもしれない、
奥の方がうずくように痛むのだった。
石ころ道をあえぎあえぎ登りつめた峠から見下ろす眼下には、
幾条かの銀色に輝く川の流れが進路を直角にさえぎっていた。
一家四人の前には広い川が行手をさえぎっていた。
先に行く人の渡るのをじっと見ていると、
一番深い処が私の胸ぐらいであった。
中心近くは水の流れが激しくて、
渡ってゆく人の姿勢が高くなり急に低くなったりする。
(3人の子供を1人も失うことなく)私はついに河を乗りきった。
途中で飲んだ水が妙に渋くて胃の中にいつまでも溜まっていた。
川で濡れても陽で乾くのは早い。
乾いた頃にはまた次の川が前に横たわっていた。
幾つ川を越えたか覚えていない。
大きい河、小さい川、深い川、浅い川。
初めは人の跡を見て渡ったが、みんなから遅れると、
渡る前にまず流れの早さと深さを測らねばならなかった。
やっとしっかりした棒を探し出すと、これだけが命と頼んで川に挑戦した。
日が西に傾くと、水面からの反射のために、
川の真ん中で、くらくらっとして安定を失いかけたことが何度もあった。
最後の川にはずっと下流に橋がかかっていた。
私はこの水勢では流されると思ったから、
随分下流まで河岸を歩いて行った。
半分腐りかけた橋であった。
いっそのこと、橋が落ちて四人が一緒に死ねるなら
その方が私たちにとって幸福かもしれない。
ぐらぐら揺れる橋を渡ると、荒れはてた畑が野原のように淋しく、
人家らしいものは全然なかった。
ただ橋の付近にむかし人家のあったしるしのいしずえだけがころていた。
日本人の群に合流すると私は土手の上につんのめってしまった。
呼吸をするのさえ困難である。頭がしびれるように痛くて、
意識がぽうっとした。私が貧血を起して倒れていても、
誰も言葉をかけてくれるものはなかった。
胸が針に刺されたように痛いので、眼を開けると、
私の破れはてたうす緑のブラウスを通して野薔薇が乳の下を傷つけていた。
アメリカ軍に救助される
眼を覚ました。
テントからは朝日が洩れていた。
人間らしい姿になろうとして立ち上ると、
釘を踏んだように足の裏が痛かった。
D・D・Tの消毒、予防注射、
これらに立ち会うため歩く痛さは針の上を歩くようであった。
このテント村にはすばらしく完備した医療施設があった。
医療施設で、医師は私の足の裏を見て、「ううん」とうなった。
「これはひどい、よく歩いたものですね」
医師は私を手術台に寝かせて、ピンセットでまず肉の中に入っている
石の摘出を始めた。小石をピンセットにはさんでは、
金属の容器に捨てるごとにカチンカチンと音がした。
だんだん奥の方にピンセットが入っていくとね
焼火箸で刺されるように痛かった。
ベッドにしがみついて我慢していたが、
ついに痛さのために脳貧血を起こしてしまった。
私の足の裏は完全に掘り返され、
血液にどす黒く光っている発掘物が、金属容器の底にかたまっていた。
両方の足首を包帯してから
「ひどい足でしたね」と医師は汗をふいていた。
「当分歩いちゃいけませんよ」
診療所と私のテントとは100メートルも離れていた。
この道を這って毎日通うのであった。
そのみじめな自分の姿を人に見せるのが恥ずかしかった。
診療所ばかりではない。便所にも、水貰いにも、おむつの洗濯にも
這って行かねばならなかった。
関連資料:藤原てい著 『絆(きずな)』 読売新聞社 1993年10月発行
参考資料:
読売新聞(夕刊)2006年11月24日第22面より転載
この記事は読売新聞社の許諾を得て転載しています。
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11.日本陸軍の日本人棄民方針
--関東軍は高級職業軍人の家族だけはいち早く避難させた!
出典:『週刊朝日百科113 日本の歴史 現代③ 占領と講和』第79頁
参考資料:関東軍文書
斎藤六郎著『シベリアの挽歌』
終戦資料館出版部 1995年5月発行
本書の第363頁~第380頁に記載されている、
大本営陸軍部の高級参謀、朝枝繁春陸軍中佐の
『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』は
「既定方針通り、大陸方面においては、在留邦人及び
武装解除後の軍人はソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて
生活を営む如くソ連側に依頼するを可とす」、
「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」
と述べている。
「既定方針通り」、「満鮮に土着せしめて」、
「日本国籍を離るるも支障なきものとす」という明確な
旧日本帝国陸軍の【棄民方針】に驚かざるを得ない。
まともな対策は何一つ考えなかったが、
大本営も関東軍(満州にいた日本軍)も
ソ連の侵攻を予測していたのである。
大本営と関東軍は、満州の農村部に住んでいた
【開拓団の日本人母子老人家庭は見棄てる】
と決めていた。
原文より6頁(表紙、第1頁、第14頁~第17頁)抜粋
日本人開拓団母子老人家庭避難民約720人が、ソ連軍戦車隊と武装中国人暴徒集団に
前後をはさまれて襲撃され、逃げ場を失って全員、集団自決(=集団自殺)した。
中国東北部(満州)ハルビン、牡丹江、麻山、鶏西一帯
麻山付近地図:資料:中村雪子著『麻山事件 満洲の野に婦女子四百余名自決す』
13.廣田内閣の満州移民推進政策は
筆舌に尽くせぬ悲惨な結末に終わった。
1937年、廣田内閣は旧日本帝国陸軍の高級参謀たちに脅かされて、
7大国策(政策)の一つとして満州移民推進を決定した。
2.26事件で陸軍将校たちのテロで殺害された岡田内閣の
高橋是清蔵相(元首相)は満州移民に反対していた。
しかし旧日本帝国陸軍の高級参謀たちは、
満州移民を満州における治安政策の基礎にしようと、
廣田内閣の政策決定を受けて満州移民を強力に推進した。
100万戸、500万人移民計画が策定された。
敗戦時の45年7月には、開拓団の団数は800を超え、
移住した開拓団員の数は約27万人といわれる。
日本の満州移民政策により、旧日本帝国陸軍(関東軍)に
200万ヘクタール以上の農地を強奪された中国農民は
雇用労働者として低賃金で酷使された。
山林、未耕地を含めると旧日本帝国陸軍(関東軍)が開拓用地として
強奪(収容)した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。
かなりの数の中国農民が【匪賊】となって関東軍に執拗に反抗した。
関東軍(満州に駐留していた日本軍)は、
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児を
見棄て、見殺しにした
日本敗戦と同時に、これら【匪賊】は、報復のため、一斉に
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児を襲撃した。
開拓団の成年男子(18歳~45歳)は、敗戦直前の7月10日に
日本軍(関東軍)の【根こそぎ動員】で徴兵され、その後、
極悪非道なスターリンの極秘指令で、シベリアに拉致移送され、
奴隷として重労働を強制された。
徒歩と貨車の拉致移送途上でおびただしい数の死亡者が出た。
苛酷な奴隷労働でもおびただしい数の死亡者が出た。
敗戦時、日本軍(関東軍)は、高級職業軍人の家族だけはいち早く避難させた。
【根こそぎ動員】で夫や息子を徴兵されて頼りになる成年男子を失った
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児については、
何らの保護を行うことなく、見棄て、見殺しにした。
ソ連軍侵攻予告はおろか、戦闘が始まっても
開戦・敗戦の事実すら知らせなかったのである。
日本軍(関東軍)に見棄てられ、見殺しにされた多数の開拓団の
老人、婦女子、小学生、幼乳児が、ソ連軍戦車の銃撃と
中国人の銃、鍬、こん棒などによる襲撃で殺害された。
逃げ場を失った日本人たちは集団自殺した。
逃避行から生き残って奉天(瀋陽)の窓や床板をはがされた
荒れ果てた学校、寺院、病院等の収容施設にたどりついた者も、
【着の身、着のまま】、中には麻袋だけで身を包み、所持金もなく、
飢え(餓死)、栄養失調(衰弱死)、伝染病(病死)、極寒(凍死)、
絶望(自殺)等でほとんどが死亡した。
生き残った小学生・乳幼児は遺棄孤児(残留孤児)として
二重三重の苦難の人生に耐えねばならなかった。
この日本軍(関東軍)の最高指導者たちと高級参謀たちの
【人道に反する開拓団員見殺しの罪】を見逃すことはできない。
哀れな開拓団女性たちを保護することなく、ほしいままに
強姦、殺戮、暴行、略奪を行ったソ連軍兵士たちの
【人道の反する罪】を見逃すことはできない。
14.極悪非道なソ連の独裁者、スターリン
1953年3月5日、極悪非道なソ連の独裁者、スターリンが死亡した。
スターリンの最も忠実な部下で、ソ連秘密警察の元締めであったベリヤは、
スターリンの死で権力基盤を失い、1953年12月23日、【国家反逆罪】で銃殺された。
スターリンとベリヤは【大粛清】とよばるれ反対派の徹底的殺害を行った。
やり方は、日本人に対する【戦犯裁判】と全く同じで、反革命罪、国家転覆罪、
国家反逆罪との罪名で、【エセ裁判】を行い、片っ端から一方的に
死刑宣告を行い、判決、即執行で、容赦なくぶっ殺していった。
以上
関連サイト:
シベリア奴隷労働被害 くやしい。悲しい。むなしい。情けない。
韓国従軍慰安婦問題-日本の誠実な謝罪と膨大な賠償金支払いの事実を
韓国国民に知らせよ
関東軍上層部(大本営も含め)はなから満州居留民を守るつもりなど毛頭なかった。
②関東軍の数十万の将兵が、ポツダム宣言の条項を無視して、シベリアに抑留、長期に強制労働で使役された
③当時、満州にいた百数十万の一般日本人が、満州に遺棄された。
~ ②と③には、戦争指導部の恐ろしい計画が原因となっている。
・8月16日 べリアの指令 /捕虜の扱いについて「3.日本・満州軍の軍事捕虜を、ソ連邦領土な運ぶことはしない。軍事捕虜収容所は、可能な限り、日本軍の武装解除の場所に組織しなければならない」
→ ポツダム宣言にそった内容
・8月24日 スターリンの命令書「1.極東およびシベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本人――日本軍事捕虜を50万人選別すること。 2.・・・ 千人ずつからなる建設大隊を組織すること。」
→ 8日後にシベリア強制政策に逆転
~ポツダム宣言の規定は明白 「武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的且生産的な生活を営むの機会を得しめられるべし」
・全国捕虜抑留者協会会長・斉藤六郎氏が、ソ連崩壊後の1993年、関東軍がソ連側に提出した諸文書を入手。その後、日本側の資料も明らかに ~ あらかになった事実とは
・交渉の重要人物 大本営で活動していた朝枝繁春という参謀。8月10日、勅命を奉じて関東軍に突然派遣
2 戦後の帝国の復興再建を考えて、大陸にいる日本人はできるだけ多く大陸に残留するようにせよ。残留する日本人は国籍をどう変えてもかまわない
→ この内容を持ち、10日、朝枝は関東軍司令部に、大本営の考えを伝える
・朝枝 21日 軍使として、ソ連の司令官、政治局員と面会/ 記録はないが・・・
26日付で大本営に提出した「実施報告」 (斉藤氏が発見した重要文書)
~「在留邦人は・・・極力開戦前の状態に復帰し、ソ連側の命令のもと活動を再興する如く在留邦人においてはソ連側と交渉し努力中なり。」
「規定方針どおり大陸方面においては残留邦人および武装解除後の軍人はソ連の庇護下で満鮮に土着せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とする」
・敗戦当時 一般居留人135万人(関東軍資料)、うち「満蒙開拓義勇軍」として送り込んだ30万人の農業青少年年を含む
その最初が近衛文書/ 朝枝参謀の命令書が実証「戦後の帝国の復興再建を考えて、大陸にいる日本人はできるだけ多く大陸にのこすようにせよ」/関東軍の対ソ交渉 帰国の要望なし、「現地土着」への協力の要望だけ
→ 戦争指導部も関東軍も、一般日本人の保護、生命と安全の保証などはまったく考えず
→肝心の日本人の意見は何一つ聞かず、軍が決めたら国民は従うだけ、とう軍部絶対の傲慢さをむき出しに示した。
完了。/満州経済にしたことは復興の手助けでなく、工場地帯から持ち出し可能な機械類を根こそぎソ連に持ち帰えったたけで、在満日本人のことは関心外のこと。
・8月10日 関東軍は撤退を決定。特別列車で脱出させたのは自分たちの家族と満鉄関係者だけ
・開拓団が配置された東・北・西満はさらに悲惨/ ソ連参戦後、関東軍が一般日本人、開拓団員に「数日の疎開。4日分の食料と身の回りのものをもって○○に集まれ」と命令 ~ 指定された場所にあつまると、すでに部隊は退却後。無数の日本人が生活拠点から引き離され、知る人のいない荒野になげだされ、ソ連軍、「報復暴民」(政府と関東軍は、2千万ヘクタールの土地を地元農民から奪い、開拓団を入植させた。その怒りが開拓団民にむけられた)に追い詰められ、戦死、餓死、病死、凍死に。
*永江満江「鎮魂満州」~「満州で死んだ人に政府も一言の哀悼の言葉もかけてない」「北満方正件で死亡した4千人を中国人が何日もかけて荼毘に付して大きな日本人公墓をつくってくれことに感謝もしないし、管理費も拠出しない」「24万5千人の犠牲者も政府が誠意をもって調べた数ではない」(民間団体が生き残った関係者の記憶をもとに、各収容所人数から死者行方不明者を引いたり足したり、逆算したりして出した数)
日本人奴隷の存在に激怒した愛国者・豊臣秀吉
日本人奴隷の存在に激怒した愛国者・豊臣秀吉
豊臣秀吉の名前を聞いて、何を思い浮かべるだろうか?
ヒゲの隊長佐藤正久氏に聞いてみよう!~平和安全法制QA第2弾~
個別的自衛権の拡大解釈には反対する
特別措置法では自衛隊の十分な訓練が難しい
維新の党がつくった対案について
中国海軍を包囲する日本のケーブルセンサー網 潜水艦も丸見え
日本のEEZ(排他的経済水域)には海底ケーブルが隙間無く敷設されていて、把握されずに侵入するのは不可能です。
もう少し広いADIZ(防空識別圏)にも張り巡らされているので、やはり侵入すればすぐに把握できる。
さらに中国大陸、台湾周辺、朝鮮半島までケーブルの網は延びていて、上を通過すれば把握するようになっている。
中国やロシアの潜水艦をセンサーで発見して、海自の哨戒機や潜水艦の出番になります。
ロシアの原子力潜水艦の潜水深度は400m台で通常型は300m台、中国製は200m台と成っています。(推測値)
対して海自の潜水艦は先行深度700m、米国製原潜は600m以下まで可能とされていて、性能が桁違いです。
>この情報をフィリピンやベトナムや台湾にも必要があれば提供し支那の拡張覇権政策の防波堤にしたいものだ。
引用:http://stat.ameba.jp/user_images/20140712/18/kamifubuki/ff/d2/j/o0800053013001041474.jpg
中国海軍は近年、南シナ海での行動を活発化させ、沖縄諸島周辺を通過したりしている。
ところがこうした行動を全て、海底のセンサーによって日本は把握している。
太平洋東北ケーブルセンサー網とは
日本の周辺は東南海、九州、沖縄、東シナ海、尖閣周辺、対馬海峡周辺もケーブルセンサー網が張られています。
1970年代から国際通信が盛んになり、日米間を初めとして海底ケーブルが急速に敷設されていった。
海底ケーブルには地震計が一定間隔で備え付けてあるが、海上を何かが通過しても探知できる。
その性能は海面から釘を一本落としても、海底の振動を捉えることが出来ると推測されている。
こうしたケーブルの地震計はマラッカ海峡や南シナ海からインド洋まで設置されていて、ハワイにも伸びている。
水流、水温、水圧、傾斜、磁気、音響で地震や津波を感知するが、周辺を船が通っても探知する。
防衛省は日本周辺から遠く離れた場所で行動する他国の潜水艦も、行動を把握している事になります。
1円玉を海面に落として検知できるかという実験を某テレビで行い、水圧などで探知していた。
OBS(自己浮上型海底地震計)という名称で海底地震計の設置も行われている。
丸い重りのような形状をしていて、深海6000mの深さでも使用することが出来、設置は母船から落とすだけで良い。
微細な振動でも探知するので、数キロごとに設置すれば通過した潜水艦の情報は丸分かりになる。
こうしたセンサーは現在ではリアルタイムに集計されて東京(多分)に伝えられている。
地震計、津波計なのに情報が分かるのが数時間後だったら役に立たないですからね。
赤い線を踏まずに移動しないと中国海軍は探知される、罰ゲームのようだ
引用:https://www.sof.or.jp/jp/news/101-150/images/118_1_c.jpg
潜水艦キラー
日本のEEZ(排他的経済水域)には海底ケーブルが隙間無く敷設されていて、把握されずに侵入するのは不可能です。
もう少し広いADIZ(防空識別圏)にも張り巡らされているので、やはり侵入すればすぐに把握できる。
さらに中国大陸、台湾周辺、朝鮮半島までケーブルの網は延びていて、上を通過すれば把握するようになっている。
中国やロシアの潜水艦をセンサーで発見して、海自の哨戒機や潜水艦の出番になります。
ロシアの原子力潜水艦の潜水深度は400m台で通常型は300m台、中国製は200m台と成っています。(推測値)
対して海自の潜水艦は先行深度700m、米国製原潜は600m以下まで可能とされていて、性能が桁違いです。
海自の潜水艦が装備している対潜魚雷の潜水深度は900m(推測)とされていて世界一だと言われている。
つまり日本の潜水艦は海底700mで潜水したまま魚雷を発射できるが、中国の潜水艦は200m付近に居る。
しかも日本の潜水艦は長時間の無音行動が可能なので、相手は魚雷を発射されるまで気づかない。
海自は対潜哨戒機70機以上を保有しているので、多数の哨戒機によって敵潜水艦を追跡する事が可能です。
哨戒機もまた対潜魚雷、対潜爆弾を装備できるので、日本近海に接近した潜水艦はもはや袋のネズミ状態になります。
さらに海自の護衛艦の殆どは潜水艦を追尾したり攻撃する機能を持っていて、逃げおおせる事は困難です。
こうした海底ケーブル+海上自衛隊の能力が、もしベトナムやフィリピンといった国にも提供されたらどうなるでしょうか。
南シナ海では南沙諸島や西沙諸島を中国が占領し、アセアン諸国と対立しているので、周辺国は海軍力を強化している。
防衛協力の一環として海自との共同作戦が可能になったら、中国海軍は封じ込められてしまいます。
韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1
韓国では、安重根は抗日戦争の英雄と評価され、1970年にはソウルに「安重根義士記念館」が建設されるなど、まるで韓国の国民的英雄扱いだ。
しかし、伊藤博文を暗殺した犯人は安重根でないという説が、随分昔からある。
そもそもこの時に伊藤博文の随行員として事件現場にいて、自らも5発も銃弾を受けたものの一命を取り留めた貴族院議員の室田義文(むろたよしあや)が、「伊藤に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない」と断言しているようなのだが、なぜこのような重要な証言が永年無視されてきたのかと疑問を持たざるをえない。そもそも安重根が撃った銃弾は5発なのだ。伊藤、室田の他にも4名の随行員が撃たれているのだ。
室田義文の証言の話に入る前に、伊藤博文が暗殺されるまでの経緯を、Wikipediaなどを参考に振り返ってみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
明治38年(1905)の第二次日韓協約によって大韓帝国が大日本帝国の保護国となり、韓国統監府が設置されると伊藤博文はその初代統監に就任した。
伊藤は国際協調重視派で、韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥としばしば対立し、韓国については、国力がつくまでは保護国による実質的な統治で充分との考えから、当初は日韓併合反対の立場を取っていたという。しかし、その後韓国内で義兵闘争が盛んになって考え方が変化したらしく、明治42年(1909)4月に、時の首相・桂太郎と外相・小村寿太郎が韓国併合策を陳述すると伊藤統監はそれを是とし、5月には統監職を辞し帰国して枢密院議長となり、7月に閣議決定された「適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事」に伊藤が反対した形跡はないのだそうだ。
そして伊藤はその年の10月にロシア帝国蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うために哈爾濱(ハルビン)を訪れた際に、そこで何者かに射殺されてしまった。
では、この背景について、一般的な教科書ではどう書かれているのか。
『もう一度読む 山川の日本史』には、こう記述されている。
「(わが国は)列強の植民地政策をまねて、東アジアにおいて勢力拡大をはかった。日露戦争中から戦後にかけて、3次における日韓協約を結んだ日本は、韓国を保護国として統監をおき、韓国の外交・内政・軍事の実権をつぎつぎと手中におさめていった。
韓国では、韓国軍の解散に反対して義兵運動を展開するなどはげしく日本に抵抗したが、日本は軍隊を出動させて鎮圧した。1909(明治42)年には、前韓国統監伊藤博文がハルビンで韓国の民族運動家に暗殺される事件がおこった。日本政府は1910(明治43)年、ついに韓国併合をおこなって(韓国併合条約)、韓国を日本の領土とし、朝鮮総督府をおいて植民地支配をはじめた。」(p.253)
このような記述を普通に読めば、西洋列強が植民地を搾取したのと同様に、わが国も韓国を搾取したように解釈してしまうところだが、当時の韓国は国家の体をなしていなかったことをまず理解しておく必要がある。
加耶大学客員教授の崔基鎬氏はこう書いている。
「…当時の韓国の財政は破滅的状態で財源は涸渇し、政財界には不正と腐敗だけが蔓延していた。
伊藤が統監として赴任した三年間、彼は祖国日本から無利子、無期限の資金3000万円を引き出し、韓国の道路、学校、土木工事、鉄道、病院建設にこれを充当した。
彼は韓国および韓国人のために、中央政府の大臣と、地方長官には韓国人を任用し、日本人はその下の補助役に就かせるにとどめた。そればかりではなく、日本人には荒蕪地の開発などの難しい仕事をやらせた。だがこうした事績は、韓国では(あるいは日本でも)、不当にも抹殺されて、顧みられることもない。…
李朝当時の韓国は、両班(ヤンパン)という堕落した不労所得者の貴族集団が、良民、農民たちから財産と生産物を奪い、百姓たちは瀕死の状態に喘いでいた。
李朝の500余年間、正式の学校もなく、名ばかりの国立(官立)学校が4校あるにすぎなかったが、伊藤は、教育の重要性を考えて『普通学校令』を公布し、統監府時代(1906-1910)には、すでに日本の資金で100校以上が築造され、合邦以後もそれは続き、1943年には5000校に達した。
また李朝の腐敗した統治にあってインフレーションに悩む民衆のために、朝鮮を『円通貨圏』に統合した。朝鮮史上、紙幣が流通したのは、実はこれが初めてのことで、これによって物価が安定し、朝鮮に『現代的貨幣制度』が確立されたことも、伊藤の功績である。」(『歴史再検証 日韓併合』祥伝社黄金文庫p.18-19)
「敵国であった明の協力で打ち立てた国であるから、その後の李朝が明の隷属国家に転落したのは必然である。国民は奴隷民族化され、私有財産も没収された。李朝は専制王権制度に体制を変え、朝鮮民族が古代から高麗にいたるまで連綿と持ち続けた国際的自尊心を放棄し明の属国として堕落が始まった。
このような環境の中で、階級制度は固定化し、創意工夫の精神は圧殺された。こうして李朝は、搾取と虐政の中にあり、国王は名ばかりでなんら政策も施さず、その政府には国家の予算すら存在しないという無軌道ぶりだった。いわば民衆は無政府状態に置かれていたのだった。
…
清と朝鮮との主従関係を断ち切ろうとした日本の狙いは、実際には実現にはほど遠く、清の保護下にある李朝の専横は変わることなく、民衆は相も変わらず、塗炭の苦しみを味わいづけてきた。近代化と自主独立の道を拒否しつづける李朝の存在は、東アジアの状勢に不穏な種を宿していたのである。
…
1904年、日清戦争に続いて日露戦争を控えた日本は、こうした朝鮮の惨状を見かねて、目賀田種太郎を財政顧問として派遣し、日本からの財政支援をもとに、李朝をまともな国として建て直すという態勢がようやく緒につくことになった。
目賀田財政顧問と統監府は朝鮮の歳入不足分を補填するために、日本国民の税金から、大韓帝国政府に無利子、無期限の資金『立替え』を実施したほか、直接支出で援助した。
たとえば1907年度で、朝鮮の国家収入は748万円しかなく、必要な歳出は3000万円以上であったから、その差額は全額日本が負担した。
1908年度には、これがさらに増えて、合計3100万円という巨額の資金を日本は支出した。
統監府時代の4年間に、日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足分は、1428万円にのぼった。
そればかりではなく、司法と警察分野などに日本政府が直接支出した金額は、立替金の数倍、9000万円に達している。現在の朝鮮・韓国の歴史では、日本の特恵的支援には一言も言及がなく、侵略だけを強調しているが、これがいかに偏狭な史観であるかを自覚しなければ将来は開けない。
1910年8月29日には、明治天皇から恩賜金として3000万円が与えられ、旧韓国が日本政府から借用していた2651万円は、そっくり棒引きされた。」(同上書p.20-22)
わが国の教科書も崔基鎬氏のいう「偏狭な史観」に少し毒されていることになるのだが、韓国の学者が次のように述べていることを日本人はもっと知るべきではないだろうか。
「日韓併合によって、搾取され呻吟したのは、韓国・朝鮮国民ではなく、日本国民であった事実を認めるべきである。」(同上書p.24)
この記述が正しいことはわが国が統治する前と統治後の写真を比較すればわかる。
いずれもソウルの南大門の写真だがどう変わったか一目瞭然だ。
次の写真もソウルのものだが、貧民窟のような首都に道路が整備され瓦屋根の家が立ち並ぶようになったことがわかる。
イギリスの旅行家・イザベラ・バードが1894年から1897年にかけて4度にわたり朝鮮を旅行し、首都ソウルについてこのように記している。
「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民はおもに迷路のような横町の『地べた』で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。悪臭ぷんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。…」(『朝鮮紀行』講談社学術文庫p.59)
このような記述がまだまだ続くのだが、この本は韓流ドラマかぶれの方に是非読んでいただきたいものである。
次のURLに多くの写真が紹介されているが、この写真を見れば、李氏朝鮮の時代は、イザベラバードの記述が正しいことは誰でもわかる。
http://www.geocities.jp/hiromiyuki1002/cyousenrekishi.html
朝鮮半島はわが国のインフラ投資などにより急激に豊かになり、人口が大幅に増加していることが統計数字からわかる。
韓国の教員用国定歴史教科書によると、1777年に韓国の総人口は1804万人であったが、100年後の1877年には1689万人で減少していた。それが日韓併合時の1910年には1313万人で、それが32年後の1942年には2553万人になっているという。
このような背景を知ると、韓国の近代化に尽力した前統監の伊藤博文が韓国人によって暗殺されたという話は、当時一般の韓国人にとって喜べる話であるはずがなかったと思われる。伊藤博文が暗殺された翌日(10/27)に韓国皇帝(高宗)は伊藤のことを「韓国の慈父」だと述べたそうだが、多くの韓国人も同じような思いではなかったか。
皇帝の言葉は次のようなものであった。
「伊藤を失った事で、東洋の偉人がいなくなった。
伊藤は我が国に忠実と正義の精神で尽くしてくれた。
自分の骨を長白山に埋める覚悟で、韓国の文明発達に尽くすと言っていた。
日本に政治家はたくさんいるだろう。
しかし伊藤のように国際政治を理解し、東洋の平和を祈った者はいない。
本当に伊藤は韓国の慈父だった。
その慈父に危害を加える者があるとすれば、物事を理解できない流浪人だろう。」
また、10月28日には韓国皇帝はさらにこう述べたという。
「伊藤を失った事は、我が国だけの不幸ではない。
日本だけの不幸ではない。
東洋の不幸である。
その暴徒が韓国人である事は、『恥ずかしさの極限』である。」
韓国は今の北朝鮮と同じで、どこかの国の支援がなければいつ国家破産してもおかしくなかった。普通に考えればわかることだが、経済で自立ができるはずもない状態の国が独立する力などあろうはずがない。
にもかかわらず、今の韓国では安重根を「独立の闘士」などと呼んで英雄扱いしているようなのだが、多くの識者が指摘しているように、伊藤博文の暗殺事件によって、結果的に日韓併合は早まったのである。日韓併合を望んでいた勢力に勢いを与えた安重根の行動を賞賛することは論理的にもおかしなことであり、皇帝の言葉でも明らかなように、当時の国民が安重根を賞賛していたわけではない。安重根が英雄扱いされるようになったのは戦後になってからのようなのだ。
伊藤の暗殺事件のわずか39日後に、韓国最大の政党であった一進会が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏している。
Wikipediaにこの声明の一部が紹介されているが、あの国がわが国に出す声明にしては随分低姿勢だ。
「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88
伊藤博文の暗殺を機に韓国では独立を堅持することよりも日本との併合によって地位の向上を図るとする考えが優勢となった。
わが国は、莫大な資金が必要となる韓国併合に反対する声が強かったのだが、伊藤博文暗殺後に併合推進派が優勢となり、主要国も日韓併合に賛成したことから、早期併合することが閣議決定し、1910年8月22日に日韓併合条約が調印されて、正式にわが国は韓国を併合したのである。
そこで、再び伊藤博文の暗殺事件に話を戻す。この暗殺事件は目撃証言や、銃声の数、弾丸の種類、死体検視調書からは単独犯ではあり得ず、伊藤を死に至らしめた銃弾は安重根の撃ったものではないという室田義文の重要な証言などは、どういうわけか葬られてしまった。それは何故なのだろうか。
その話を始めるとまた文章が長くなるので、次回に記すことにしたい。
「明治天皇すり替え説」を追う
>天皇という存在は時の権力者に利用される存在だから誰でも構わなかったという事。
「明治天皇すり替え説」を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-125.html
内容を簡単に振り返ると、明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、上古以来、宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃することになった。その時に3人の皇族の女性が明治政府からの還俗の強要を敢然と拒否したことを記事の中で紹介したのだが、皇族の男性が反対したことがなぜか見えて来ないのである。
私はこの記事でこのように書いたのだが、その気持ちは今も同じである。
「皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇にとっては先代の孝明天皇は実の父親である。若いとはいえ、明治4年と言えば天皇は19歳だ。他にも皇族は沢山いたのに、そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。」
明治天皇や主要な皇族が抵抗すれば、いかなる策士といえどもこのようなことは強行できなかったと思うのだが、皇族男性すべてが抵抗せずに廃仏を受容したとすれば、脅迫などがあって皇族の誰もが抵抗できない環境に置かれていたか、主要な皇族全員が神仏分離し仏教を捨てるべきだとの考え方でほぼ一致していたかのいずれかしか考えられないのではないか。直感的には前者の可能性が高いだろう。
2年以上前にこの記事を書いた際に、明治天皇暗殺説があることを少しだけ触れておいたのだが、それくらいの事件がなければ、皇族の男性全てが、1400年以上の歴史のある仏教をさしたる抵抗もなく捨て去ることはなかったのではないかとも思えるのである。
今回は明治天皇が暗殺されて別の人物にすり替えられたという説を、もう少し詳しく追ってみることにしたい。
以前紹介した記事に、少年期の明治天皇の写真と伝えられるものを掲載したのだが、今回も掲載しておこう。中央に立つ背の低い人物が明治天皇であると伝えられているのだが、この写真は我々の知る明治天皇とは別人にしか見えない。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html
実はこの写真は小学校の時に一度雑誌の記事で見たことがあるので、かなり以前から明治天皇の写真であるとして伝えられていたはずなのだが、ネットでいくら調べても、誰がいつ撮影したものであるかも、周囲の人物が誰なのかもよくわからなかった。
いわゆる、「明治天皇すり替え説」は古くからあったようだ。土佐藩出身の田中光顕元宮内大臣が昭和4年(1929)の2月に、三浦芳聖氏に語ったという話に注目したい。三浦氏は自らが南朝正統の皇胤であることを主張した人物で、三浦氏の『徹底的に日本歴史の誤謬を糾す』という著書にその内容が書かれているらしい。
この本は自費出版されたもので手に入れることは難しそうだが、次のURLに田中光顕(下画像)の証言内容が引用されている。
http://wiki.livedoor.jp/niwaka368/d/%B8%B5%B5%DC%C6%E2%C2%E7%BF%C3%C5%C4%C3%E6%B8%F7%B8%B2%BB%E1%A1%A2%CC%C0%BC%A3%C5%B7%B9%C4%CA%C5%B2%BC%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8%B9%F0%C7%F2
重要な部分を紹介しよう。
「斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、『私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました』
と前置きされて、
『実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領し、 代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。
吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。
薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。』」
この証言内容をどの程度信じるかは、読む人によって異なると思うのだが、かなり具体的なことを語りながらも結構筋が通っていて、私にはあまり嘘っぽく感じられないのである。
このような重要なことを維新の元勲が軽々しく語るのはおかしいとも思えたりもするが、その点は読者の判断にお任せしよう。
田中の述べたことを要約すると、長州は南朝末裔の大室寅之祐を匿っていて、薩長は「南朝革命」を大義名分にして「薩長同盟」を結んだということである。
「南朝」という言葉がいきなり出てきて戸惑った人も多いと思うが、建武三年(1336)に足利尊氏が光明天皇を立て、後醍醐天皇が吉野に逃れて、京都の「北朝」と吉野の「南朝」に皇室が分裂してしまう。それから、それぞれが正当性を主張する時代(南北朝時代)が元中9年(1392)まで続くことになるのだが、その後も南朝の子孫がずっと生き延びていてそのうちの一人が、長州が匿っていた大室寅之祐だと述べているのだ。
北畠親房は南北朝時代に『神皇正統記』で、三種の神器の所在と皇統における「正統」概念をもって南朝正統論を唱えた最初の人物であるが、『太平記』が公家や武士の間に愛読されて南朝方に同情的な見方が次第に広まって以降、著名な学者が南朝正統論を唱えるようになる。
江戸時代に徳川光圀が編纂した『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱っていたそうだし、『日本外史』を著した頼山陽も、また幕末・維新の志士に大きな影響を与えた山崎闇斎も南朝正統論であった。
江戸末期に全国の藩校では南朝を正統とし、北朝系を天皇家とした足利尊氏を逆臣とした考えが教えられていたのである。維新後になされた施策を追っていくと、明治維新を成し遂げた志士たちが、南朝正統論の影響を強く受けていたことがよくわかる。
Wikipediaによると、
「1869年(明治2年)の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになった。また、1877年(明治10年)、当時の元老院が『本朝皇胤紹運録』に代わるものとして作成された『纂輯御系図』では北朝に代わって南朝の天皇が歴代に加えられ、続いて1883年(明治16年)に右大臣岩倉具視・参議山縣有朋主導で編纂された『大政紀要』では、北朝の天皇は「天皇」号を用いず「帝」号を用いている。なお、1891年(明治24年)に皇統譜の書式を定めた際に、宮内大臣から北朝の天皇は後亀山天皇の後に記述することについて勅裁を仰ぎ、認められたとされている(喜田貞吉『還暦記念六十年之回顧』)。」
田中光顕の証言が正しいとすれば、明治維新を成し遂げた志士たちは、北朝の天皇を廃し南朝の天皇を即位させたことになるのだが、そのことは南朝を正統と考えていた志士たちにとっては、その動機が充分にあったのだと考えられる。だから長州が南朝の末裔を匿って、「南朝革命」を大義名分にして「薩長同盟」を結んだという田中光顕の話も、決して荒唐無稽のものとは思えないのだ。
また田中光顕は睦仁親王(京都明治天皇)と明治天皇(大室寅之祐)との違いを次のように語っている。
「睦仁親王は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に『あばた』は無かった。
明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに『あばた』が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた『肖像画』を写真に撮らせて『御真影』とした。又、『あばた』を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。」
明治天皇の即位に関する問題について詳しく研究された人が何人かいる。故人となられたが、鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇…明治維新の謎』という本に、暗殺され大室寅之祐にすり替えられた証拠となる話がいくつも紹介されているそうだ。
たとえば、学習院院長を務めた元宮中顧問官の山口鋭之助氏も「明治天皇は、孝明天皇の子ではない。山口県で生まれ、維新のとき京都御所に入った」と語ったという。
また長州出身の元首相・岸信介は「今の天皇家は明治天皇のときに新しくなった。実はそれまでの天皇家とは断絶している」と述べ、元公家の広橋興光氏も「睦仁と明治天皇は別人」との言葉を残しているそうだ。
また、明治天皇の正后を「昭憲皇太后」と呼ぶのはおかしな話で、普通なら正后なら「皇后」と呼ぶべきである。この疑問は「昭憲皇太后」が睦仁親王の正后であり、親王の死後は皇太后として処遇するしかなかったと考えれば納得ができる話だ。
この問題についてもっと詳しく知りたい人のために、れんだいこ氏のサイトを紹介しておこう。他のサイトに書かれている説などがよく整理され、リンクも貼られている。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/bakumatuootyokotaico/oomuroco.html
以前このブログでも書いた通り、明治天皇の本来の父親である孝明天皇は攘夷論者であり佐幕派であった。孝明天皇は慶応2年(1866)の 12月25日に崩御され、死因については表向きは病死だったが、倒幕派によって毒殺されたと言う説がある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html
れんだいこ氏が、先ほど紹介したURLで睦仁親王と大室寅之祐との人物の違いを纏めているが、睦仁親王は幼少より『虚弱体質』で運動能力に乏しく、16才になっても、宮中で女官と一緒を『遊戯』を好んだというレベルであり、とても政治力が期待できる人物としては育っていなかったという。
そこで倒幕派は、「北朝」系の孝明天皇に続いて慶応3年(1867)7月に睦仁親王を暗殺し、10月に「南朝」派の大室寅之祐に明治天皇になりかわり倒幕の密勅を出させて、徳川幕府による大政奉還の後、12月には王政復古の号令を出させ、翌慶応3年10月に正式に大室寅之祐を明治天皇として即位させたという流れになる。
これまで「北朝」系の天皇を支えてきた徳川将軍家や会津松平家が、明治天皇(「南朝」派)の逆賊となったという理解もできるし、「戊辰戦争」は「第2次南北朝戦争」であったという解釈も可能になってくる。
この様な説を「荒唐無稽」と切り捨てる人も多いのだが、これを切り捨ててしまうと、この記事の冒頭で私が書いた明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」で、男性皇族全員が仏教を廃することに一人も抵抗しなかったことが非常に不自然に思えるのである。
もし三浦芳聖氏の著書の田中光顕の発言が正しいとすれば、「北朝」派の睦仁親王が暗殺されて、「南朝」の末裔とされる人物が皇室に「明治天皇」として乗り込んできたという異常な事態が起こったことになる。
しかし、これくらいの異常なことが起こらないかぎり、この時に皇室の男性の誰もがさしたる抵抗もせずに、1400年以上の歴史のある皇室における仏教の信仰を捨てることはありえなかったのではないだろうか。
ところで、大室寅之祐が本当に南朝の末裔であったかについては、それを否定する説もあるようだ。もしかすると薩摩や長州藩にとっては、幕府を倒すのに都合がよく英邁な人物なら誰が天皇になっても良かったということなのかも知れない。
②全日空ハイジャック1999年7月23日札幌行きNH61便の真実 私がANAを避ける理由
2) 犯人が凶器で客室乗務員を脅し,あっさりとコックピットへの侵入を許した.
まず1)については,既にANAが小さな懸念を見逃す体質になってしまっていたことを示しています.JALが親方日の丸体質だとよく批判されますが,ANAの体質も似たようなものです.利益と言う経済だけでは社の体質は評価できないのです.
乗員乗客500人超を乗せた航空機が東京都内の住宅街に落ちる寸前だったのです.
それが死亡した機長が英雄扱いされることによって論点がすり替わっています.
私がANAを避ける理由
私は長編ものが好きである。 長編というより、もはや巨編であろうか。埴谷雄高の「死霊」野間宏の「青年の環」そして、現在は大西巨人の「神聖喜劇」を読んでいる。 小説を読むならその主人公の背に負ぶさって、その生き様を追体験する。追体験するというより、同時代を生き、生と死を生活を共有したいと思う。 そのためには巨編にのめり込む事が一番である。 人間はいくら個人個人、ちっぽけな存在であろうとも、測り知れない体験を持つものだ。 私も、たった半日の出来事で、生と死を味わうことになった。 ハイジャックされた全日空NH61便羽田発札幌行きは、航路を大きく逸れ、レインボーブリッジをすれすれに飛び、東京デズニーランドを左手に観て、ゆっくりと南下した。 その頃、二階席にいた搭乗客と客室乗務員以外、機がハイジャックされたことを誰も知らなかった。また知らされてもいない。 西沢と怒鳴りあいの末、コックピットを叩き出された古賀副機長は抵抗する術もなく、二階席奥へと退く。長島機長に「犯人を刺激しないように」と諭され出て来たらしい。 空白の時間が流れそして続いていく。 私たちは、その頃西沢が操縦桿を握っているなど露知らず、乗客も当然知らされていない。 チーフアテンダントはコックピットに耳を付け中の様子を伺いながら、他の乗務員達と、乗客たちに「立ち上がらないように」と静止の動作を繰り返している。 聞けば「マニュアルどおりの対応をしているから大丈夫」との事。 私たちは耳を疑う。「マニュアルなど信用できるものか」というのが大方の意見。「何ができるか、考えよう」と隣近所、お互いに話し合っている。 江ノ島を右手に見て、大島へ飛行機は飛ぶ。江ノ島の先には富士山がくっきりきれいに見えているのが皮肉である。 大島手前を右に大きく旋回をする。 チーフアテンダントから情報が入る。 「犯人は横須賀の米軍基地に着陸するよう要求している」との事。二階席の後方の乗客は一階席に移るようにとの要請があった。20~30人余りが一回へと降りていく。 どうも、二階席後方の乗客にも余り事態は飲み込めてないらしい。 左手に大きく横須賀基地が見えてくる。大型の巡洋艦や駆逐艦が見える中で、空母艦らしいものも見える。 また、情報が入る。横須賀には着陸できないので、福生の横田基地へと目的地を代えたという。 その頃から、客室乗務員達の動きが急に慌しくなり、古賀副機長の他に、初めて見る操縦士の服装の方が客室前方に移動してきた。 山内機長とおっしゃる方で、待機乗務でこの便の二階後方に乗っていたという。小柄で白髪交じりのいかにもベランメェ口調で話す、いかにもベテランと見える方である。 もう一人、トランジスターグラマーともいうべき、山内純二さんと同じ便に乗務するアテンダントの女性の方が一緒である。 山内さんとその女性は「大変なことになっちゃったな」と周囲も気にせず話し始める。どうも、「操縦桿は犯人が握っているらしい。長島機長の話し声がしない」ということらしい。コックピットの中の様子をモニターしていたらしい。 山内さんとその女性はチーフアテンダントや古賀副機長を叱咤する。「おまえたち、なにやってるんだ」チーフが答える「マニュアルが…」 「そんなもん、関係有るか」と山内機長。トランジスタグラマーさんも「あんたたち、しっかりしなさいよ」と発破をかける。 我々も当然のごとく、話の輪に加わり、「もしもの時にはコックピットに突入するので協力して欲しい」との山内さんからの要請があった。それをチーフアテンダントがさえぎろうとする。 山内機長とそのアテンダントが「邪魔だ」と退ける。 山内さんの話によると、「操縦桿は犯人が握っている。長島機長はどうも怪我をしていて操縦桿を握れないらしい。横田基地に着陸との事であるが、墜落する恐れがあるので、自分と古賀が突入するので協力して欲しい。そしてくれぐれも自分を信頼して欲しい」との事であった。我々は、協力する旨、返答し快諾した。 気持ちは誰もが一緒である。同じ難破船に乗り込んだもの同士。短時間で心は通じている。 その数、14・5人余り。家族連れやお年寄り以外は全て協力するとの意思表示である。 トラグラさんいわくは、「山内機長は自衛隊上がりの超ベテランで天皇の欧州訪問の際の機長だったので安心して欲しい」とのこと。 その頃、我が61便は横浜上空を越え、八王子上空を超低空飛行で横田基地を目指し、揺ら揺らと飛んでいたのである。 当時、私は44歳。娘は小学生。双子は保育園に通っていた。 余りにも、私が乗っていた61便が八王子上空を低空飛行するので、小学校の先生は墜落するのではないかと騒ぎ、双子たちは保育士たちと、私が乗っているとも知らず、手を振って喚声を上げていたとの事である。 皮肉なものである。私は死と隣りあわせで、自宅の真上すれすれを飛んでいたのである。 高尾山を左手に見て、昭島を越え、福生に入る頃、急に機が超低空飛行になった気がした。窓の外から、国道沿いに建つマンションの窓、窓がくっきり見える。 「これはやばいぞ。突入しよう」との山内さんの声。「コックピットの鍵もってこい!」との罵声がとぶ。チーフアテンダントはおろおろしたまま。機が福生上空を横田基地に進入しようとしている。 余りにも低空である。基地内の米軍マンションにぶつかりそうである。 トラグラさんの「あんた何してるのよ。早くしなさいよ!」の声が飛ぶ。乗客も立ち上がり、前方と後方に分かれ、突入の準備にはいる。鍵は見つからない。 機はどんどん、機体を下げている。そして、横揺れが激しくなってきている。私たちは、「こりゃあ、落ちるな。覚悟するか」と話し合う。何故か心が醒めている。 私は生命保険の額を考えた。「大丈夫だな。保障も出るし。」「あきらめるな」と誰かが落ち着いた声で言う。 「そう、そう、諦めない!諦めない!」声を掛け合う。 突然のピープー音が鳴り響き始める。エマジェンシーコールだ。機体がぐらつく。地上がまじかに迫る。木々と同じ高さで飛んでいる。 突然のアテンダントの放送。「この機はハイジャックされています。シートベルトをしっかり付け。立ち上がらないようにしてください!」が繰り返される。 もう遅いよ。 飛行機のエンジン音が急に高くなる。機体が急に前のめりに突っ込む。爆音がする。 「もうだめだ。こりゃ堕ちるな。」と、後方で待機していた隣の人と声を掛け合った瞬間。そして、「わーっ!」とばかり心で叫び、覚悟を決めた瞬間。 山内さんと山内さんの部下の高木副機長その後から、古賀副機長そして前方の乗客数人がコックピットの扉を蹴破り、山内さんが操縦桿に飛びついた。 山内さんが操縦桿に飛びついた瞬間ははっきり見たものの、西沢を蹴倒した場面は見えなかった。 その光景は今でも目の奥にしっかり刻まれている。 機体は轟音と共に急上昇を遂げた。 「なんて事をするんだ。この野郎!」の山内さんの罵声。何人かが西沢を組み伏せており、上から乗りかかり、動けないようにしている。 「助かった!」急に、心に冷たい風がザワザワと入り込んできた。 長島機長はとうに事切れていた。右首筋から左肩口に包丁が突き刺さり、折れた切っ先が肩口から飛び出していたという。コックピットの中の様子は、よくは見えなかったが血で真っ赤であった。 無事、羽田に着陸をし、西沢が毛布でぐるぐる巻きにされ、運ばれていく。我々のベルトとネクタイで猿轡に雁字搦めにされ、しっかりと目を瞑っている。包まれた毛布は血だらけ。西沢の顔も血だらけだ。 羽田の施設の一部に移されて簡単な事情聴取の後、私はすぐに、札幌に飛び立った。出張だからな。 翌々日に東京に帰り、刑事さんが二人会社に訪ねてきた。2時間ほどの事情聴取を受ける。 お二人とも感じの良いソフトな方であった。事情聴取の最後に刑事さんからのお願いがあった。 ひとつは「調書作成の際には、警視庁までご足労をお願いしたい」。 二つ目は西沢の様子について「彼の異常性について、お気持ちは良くわかるが公判維持の観点からなるべく○○○いただきたい。」 三つ目は「横田に墜落しそうになったときの飛行機の高度が新聞発表と皆さんの認識が違う。皆さんのほうが正しいが現在のところ調査中なのでお含み置き願いたい」である。 61便の落下高度は地上210メートルから130メートルとなっているが、実は違った。60メートルから90メートルが正しい。 確実に墜落の寸前であったのだ。 長島機長は51歳で亡くなられた。私はすでにその歳を過ぎている。ご葬儀にも参列したが改めてご冥福をお祈りしたい。 西沢君は無期懲役の罪に服していると思う。病状が回復し、いつの日か社会復帰ができることを願うのみである。 人は紙一重の生活を過ごしている。その紙一重とは生と死を分かつ紙一枚である。 *前回と今回の飛行機の機影は実際に私が搭乗していたNH61便の羽田帰還の際の写真です。 |
0年7月23日 ANA61
もしも世界が!
西沢裕司の全日空機ハイジャック事件の真相と動機!現在は?
全日空機ハイジャック事件の犯人・西沢裕司(にしざわゆうじ)には驚くべき犯行の動機や秘密が隠されていたといいます。 では一体、何がきっかけで西沢裕司容疑者はハイジャックを行おうと思ったのでしょうか? 今回は西沢裕司容疑者の全日空機ハイジャック事件の真相と犯行動機、さらには現在の犯人の状況について調べていきたいと思います。全日空機ハイジャック事件とは?
この事件が起こってしまった原因には夢が破れた一人の男性が引き起こしたものだったんです。 では全日空機ハイジャックの詳細についてご紹介をしていきたいと思います。1999年7月23日午前11時23分、羽田発新千歳行きの全日空061便ジャンボ機は定刻より30分ほど遅れて羽田空港を離陸した。061便は夏休みということもあって、乗員14人の他、満席に近い503人の乗客が乗っていた。操縦士は長島直之機長(51歳)で、副操縦士は古賀和幸さん(当時34歳)。出発まもない午前11時25分頃、「ハイジャックされた」という連絡。その時、061便は千葉県・房総半島上空を飛んでいた。午前11時45分頃、航空局にハイジャック対策本部が設置される。正午前、「本機はハイジャックされています」という機内アナウンス。機体はどんどん降下していった。乗客の顔色は一気に変わる。
犯人の西沢裕司容疑者はどのようにして、ハイジャックに至ったのでしょうか? 通常であれば手荷物検査で止められてしまいますが、なんと驚くべき真相が隠されていたんです。 犯人の西沢裕司容疑者は操縦士志望だった!
なんといとも簡単に警備を突破し機体に危険物を持ち込むことができたのか? その理由は、犯人の西沢裕司容疑者がもともと航空会社に就職を希望しており、パイロット志望だったからです。 そのため空港の内部資料から、警備が甘い箇所を発見しました。スポンサードリンク
犯人が指摘し発見した侵入ルートとは?
西沢裕司は危険物を持ち、独自で発見した警備を間逃れるルートで機内に何度も侵入することが出来たんです。 そのことを纏めた資料を作成し航空会社に送ったところ、全くといっていいほど、相手にしてもらえなかったんです。 西沢裕司は折角警備の甘さと欠点を指摘したのに相手にしてもらえなかったということが怒りに火をつけました。 そして西沢が発見したルートで機体に侵入をしたんです。 当時のセキュリティーは全くもって問題ないと言われていますが、空港の警備については西沢裕司の方が上だったということになります。 西沢裕司容疑者の現在とまとめ
西沢裕司容疑者の現在については不明ですが、詳細などが判明次第お伝えしていきたいと思います。
もしも世界が!
西沢裕司の全日空機ハイジャック事件の真相と動機!現在は?
全日空機ハイジャック事件とは?
1999年7月23日午前11時23分、羽田発新千歳行きの全日空061便ジャンボ機は定刻より30分ほど遅れて羽田空港を離陸した。061便は夏休みということもあって、乗員14人の他、満席に近い503人の乗客が乗っていた。操縦士は長島直之機長(51歳)で、副操縦士は古賀和幸さん(当時34歳)。出発まもない午前11時25分頃、「ハイジャックされた」という連絡。その時、061便は千葉県・房総半島上空を飛んでいた。午前11時45分頃、航空局にハイジャック対策本部が設置される。正午前、「本機はハイジャックされています」という機内アナウンス。機体はどんどん降下していった。乗客の顔色は一気に変わる。
犯人の西沢裕司容疑者は操縦士志望だった!
犯人が指摘し発見した侵入ルートとは?
西沢裕司容疑者の現在とまとめ
中国株暴落が引き起こす「21世紀の世界恐慌」
中国株暴落が引き起こす「21世紀の世界恐慌」
世界的リセッションで原油価格30ドル割れも?
中国各地に出現したゴーストタウン
中国発の資源安が米国に波及
世界経済はリセッションに?
資金繰りに苦しむエネルギー関連企業
韓国の全面戦争も辞さないという覚悟が金正恩にも伝わるだろう。
今日17時まで緊張高潮…拡声器打撃があれば武力衝突は不可避
北朝鮮、準戦時体制宣言で自縄自縛
韓国は妥協せず放送継続
韓国・北朝鮮の休戦ライン配備火力 //ハンギョレ新聞社 |
南北相互に危険性を熟知しており正面対決を避ける可能性
北朝鮮が対北拡声器放送の中断と施設撤収の期限として指定した時間が迫り、南北間の衝突可能性が高まっている。
北朝鮮が20日に電話通知文を送りつけ「この日5時から48時間以内」と期限を切っただけに、北朝鮮が黙って見過ごすのが困難な自縄自縛の状況に陥ったためだ。 実際、北朝鮮はこの日、労働党中央軍事委員会非常拡大会議を開き「準戦時体制」を宣言し、全軍の完全武装命令を伝えた。準戦時体制は、北朝鮮が非常事態に備えている6段階の作戦命令の中で2番目に強く、戦争直前の状態に切り替える意味だという。 北朝鮮は1983年と1993年の韓米合同軍事訓練「チームスピリット」演習の際、準戦時体制を宣言したことがある。 特に93年には3月8日の準戦時体制宣言の4日後の核兵器非拡散条約(NPT)脱退宣言で第1次核危機を招いた。 それだけに北朝鮮の立場としては断固たる態度を示したものだ。
北朝鮮はまた、金正恩(キム・ジョンウン)第1書記が直接招集したこの会議で、政治・軍事的対応計画が議論され、人民軍の作戦進入準備実態点検、軍前線司令部の攻撃作戦計画の検討・承認も行われたと報じた。 事実上、22日午後5時以後の状況に対する軍事行動計画を樹立したと見られる内容だ。
一方、韓国側も非武装地帯地雷爆発事件に対する報復次元で北朝鮮向け拡声器放送を再開しただけに、北朝鮮の威嚇に押されて北朝鮮向け拡声器放送を中断することはできない立場だ。 ペク・スンジュ国防部次官は21日、国会予算決算特別委員会に出席し、拡声器放送を継続するのかという質問に「北朝鮮が韓国の要求した政治・軍事的要求を聞き入れず態度の変化がないならば(継続)する」と答えた。 軍当局は実際、この日も北朝鮮向け拡声器放送を当初計画どおりに行った。
北朝鮮は現在設置されている北朝鮮向け拡声器施設11カ所の所在を把握していると韓国軍当局は評価している。 軍当局者は「北朝鮮がその気になれば打撃できるだろう」と話した。 実際、北朝鮮は今回韓国側に撃った14.5ミリ高射砲と76.2ミリ直射砲以外にも、170ミリ自走砲や122ミリ放射砲、240ミリ放射砲などより威嚇的な火力を保有している。 北朝鮮が実際に打撃に出るならば、断固たる対応を公言した韓国も報復措置に出るほかなく、人命被害が出る局地戦につながる可能性もある。 また、状況が適切な水準でコントロールされない場合、全面戦争への拡大憂慮もある。 ハン・ミング国防長官が22日に全軍作戦指揮官会議で「断固たる対応を行い、効果的に状況を管理しなければならない」と注文したのも、こういう複雑な状況を反映したものと解釈される。
しかし、南北共に武力衝突の危険性を十分に承知しているだけに、南北が無理な軍事行動まで進みはしないだろうとも展望される。 北朝鮮の場合、南北間の在来式兵器の劣勢をよく認識しており、やみくもに照準射撃をする正面対決は避ける可能性が高いと分析される。韓国軍当局者は「北朝鮮は挑発をしながらも、韓国と正面対決するよりは木箱地雷埋設のように韓国側が直ちに対応できないよう巧妙な手法によるヒットアンドラン戦略を駆使してきた」として「今後もそういう形で出てくる可能性を鋭意注視している」と述べた。 米国と中国が共に南北間の緊張高揚を望んでいないという点も南北間の偶発的衝突が戦争拡大につながることに対してブレーキの役割をするという観測も出ている。米国は多様な方式での韓米間連合協力体制を通じて自国の意思を伝達しているという。
[古森義久]【もし米が集団的自衛権の行使を拒否したら?】~安保法制反対論の大きな欠陥~
いまこの法案の審議が参議院で続く。法案の核心は日本の集団的自衛権である。安倍政権がその集団的自衛権の行使を一部、容認しようとするのに対し、野党の民主党や共産党はその行使容認は危険だとして絶対反対の構えをみせる。
その「集団」の最大の相手はもちろんアメリカである。日本がアメリカとの集団的自衛権を行使できるようにするべきか、どうかが問題の焦点なのだ。だが日本側の議論ではふしぎなほど、そのアメリカが無視されてしまう。
だが現実には日本の防衛は「個別」でも「集団」でも、あくまでアメリカとの集団自衛が大前提なのである。要するに日本が有事には米軍の支援に頼ることが根幹なのだ。だがいまの議論はその米軍の支援には触れることがない。一国平和主義的の典型的な症状だろう。
こんな現状下で日米安保関係に精通するアメリカ国防総省の元日本部長、現在はバンダ―ビルト大学名誉教授のジェームズ・アワー氏が日本側への公開質問を打ち上げた。
「もしもアメリカが日本に対し、法的には行使できるはずの集団的自衛権を日本のためには行使しないと政治的に決断したと、突然、通告したらどうなるか」
この語句はいまの日本がしていることへの反語である。「日本はアメリカに対し、法的には行使できるはずの集団的自衛権をアメリカのためには行使しない」というのが日本の現状なのだ。アワー氏はまさにその状態を逆転させて、日本側に問いかけたのだ。
日本国内の米軍が直接に攻撃を受ければ、アメリカは個別とも呼べる普通の自衛権を行使して、日本攻撃の相手と戦うだろう。だが第三国の日本攻撃が尖閣諸島など米軍にはまったく触れない場合、米軍が日本を守る行動はアメリカにとって自国は攻撃されていない集団的自衛権の行使となる。
だからもしアメリカが日本への集団的自衛権に対して、ちょうど日本がこれまでしてきたように「保有はするが行使はできない」という政策をとれば、米軍は日本防衛にはかかわらないことになる。
アメリカが日本に対する集団的自衛権を行使しなければ、日本周辺で日本の艦艇や国民が攻撃を受けても、米軍は座視するだけともなる。こういう展望となった場合、日本はどうするのか、とアワー教授は問いかけるのだ。
同教授はこの問いを産経新聞8月11日付に寄稿した論文で明らかにした。だが彼は長年、日米間の防衛問題にかかわり、日本側の反防衛論者たちの主張には「火事が嫌いだから、消防署をなくしてしまえ、というのに等しい」と反論してきた。確かにいまの日本側の民主党、共産党、朝日新聞などの主張は「備えなければ、憂いなし」と総括できる現実無視の傾向が感じられる。
日本の戦後の安全保障は一貫してアメリカとの集団防衛によって成立してきたことは否定できない。だからその「集団」という概念を否定するような、いまの安保法制反対論には大きな欠陥がちらほらするのである。アワー教授の問いはその欠陥を衝いたようにも思えるのだ。
日本は中国に勝てないという現実を直視せよ幼稚な議論を繰り返す野党が、結局この国をダメにする!
私はこれまで何度も「安保法制を見直す根本的な理由は中国の脅威」と指摘してきた(4月17日公開コラム、http://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/42934など)。安倍政権も同じ認識だったはずだが、あえて曖昧にしてきたのは、中国を脅威と名指ししていたずらに刺激したくなかったからだ。
一方、中国の行動はますます大胆になっている。南シナ海の岩礁埋め立て・軍事基地建設は言うに及ばず、東シナ海においてもガス田開発プラットフォームの海上基地化を着々と進めている。このまま放置すれば、南と東のシナ海は実質的に中国の支配下に置かれかねない。
話して分かる相手なら、外交上の配慮も必要だろう。だが、相手は攻撃用のレーダー照準を問答無用で日本の自衛艦に合わせるような国だ。遅ればせながらも安倍首相が脅威の中身をはっきり語ったのは、安保関連法案への理解を促すのに役立つ。
国会は相変わらず「法案は違憲か合憲か」を最大の争点に議論している。はっきり言って、ここまで来たら水掛け論ではないか。違憲か合憲か、最終判断を下すのは最高裁である。最終的な判断権限がない国会議員がいくら口角泡を飛ばして議論したって結論は出ない。
それより日本を脅かす国が現実にあって、与野党がそう認めているのだから、脅威への対応策こそ真剣に議論すべきではないか。
米国は2年前まで中国が提唱した「新型大国関係」という言葉に理解を示し、対中関係の軟着陸を模索していた。だが、2013年11月の防空識別圏設定と南シナ海の埋め立て作戦を目の当たりにして、いまや完全に方針転換した。
オバマ大統領が4月の日米首脳会談で「中国は間違っている」と明言したのは、そういう文脈での発言だ。そんな中国に日本はどう対応したらいいのか。
まず「日中間の問題はあくまで外交で解決すべきだ」という主張がある。日本共産党がそうだ。彼らは安倍首相と習近平国家主席の話し合いで問題を解決できると思っている。はっきり言うが、共産党は外交の本質を理解していない。理解したところで、彼らに真の外交はできない。
外交とは問題を抱えた相手国との話し合いでは「ない」。相手国ではなく、第3国をどう自分の味方につけるかが外交の本質である。具体的に言えば、日中間の問題を有利に解決しようとすれば、日本が米国や欧州、東アジアの国々を味方につけられるかどうかが勝負なのだ。
それは夫婦げんかをしたとき、なぜ、たいてい奥さんが勝つかを考えてみれば分かるだろう。奥さんが勝つのは、旦那さんを口でまかすのが上手だからか。それもあるかもしれないが、本質はお嬢さんや息子、ときにはペットの犬までもが奥さんの味方をするからだ。
もしも、逆に旦那さんのほうに子どもやペットが味方すれば、奥さんの側が圧倒的に不利になる。だが、子どもやペットと長く過ごすのはたいてい奥さんなので、奥さん有利になるのである。こういう関係は国と国との外交も同じだ。人間社会の出来事は家庭も国も本質的には、たいして変わらない。
日本と中国の問題でいえば、安倍外交はまさに米国や欧州、東アジアの国々を味方につける外交を展開してきた。ここへきて突然、安倍首相を訪中招待したように、中国がにわかに日本にすり寄ってきたのは、日米首脳会談で日米の結束が固まったのに加えて、第3国にも対中批判が高まって、中国は逃げ場がなくなってしまったからだ。
こういう第3国を巻き込む外交が日本共産党にできるか。できるわけがない。オバマ大統領や各国首脳が共産党幹部に会って一致結束を誓うはずがないからだ。
安倍政権は第3国を味方につける外交を展開し、実際に勝利を収めてきた。1発の銃弾も撃つことなく、尖閣諸島は以前よりはるかに安全になった。日米の固い結束を前に、中国が挑発するにはリスクが高くなったからだ。
逆に、共産党が思い描くような1対1の対中外交をしていたら、日本は「足して2で割る」式の妥協に追い込まれてしまう。そうなったら、尖閣諸島に領有権争いがあるのを認めざるを得なくなる。それこそ中国の思う壺だ。
以上のような安倍政権の外交努力を確認したうえで、では外交だけで十分かといえば、そうは言えない。相手に戦争を思いとどまらせる抑止力は軍事力の裏打ちがあってこそ、であるからだ。ずばり言えば、日本は単独で中国の軍事力に対抗できるか。答えは「できない」。
なぜなら国力が違うからだ。中国の人口は日本の10倍である。経済力はどうかといえば、中国の国内総生産(GDP)は日本の1.5倍だ。そのうえで軍事力を比べると、中国は毎年GDPの2%を軍事費に費やしているのに対して、日本の防衛費は1%である。
つまり毎年、中国は少なくとも日本の3倍、直近では4倍の軍事費を使っている。ということは、日本が単独で中国に追いつこうと思ったら、毎年の防衛費を4倍以上に増やさなくてはならない。
本当にそうしようとすれば、最大の歳出費目である社会保障費の大幅削減か大増税、あるいは国債大増発で賄う以外にないが、そんなことは絶対にできない。社会保障削減や増税、国債増発によって防衛費を4倍増にするという政策を掲げる政権は、国民がけっして容認しないからだ(もちろん朝日新聞も東京新聞も容認しない。以上は4月17日公開コラムも参照。http://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/42934)。
結局、日本は単独で中国に対抗できない。だからこそ日本は集団的自衛権の限定的行使を容認して、米国との絆を確固たるものにする。それによって抑止力を高め、日本の平和と安全を守るのである。
日本は集団的自衛権を認めて安保法制を見直したら、米国の言いなりになって米国の戦争に追随するしかなくなってしまう、という反対論がある。これまた馬鹿げた議論だ。つい最近、過激派組織「イスラム国」(IS)への空爆を実施したトルコを例に考えてみよう。
トルコは北大西洋条約機構(NATO)のメンバー国である。NATOは集団的自衛権を基礎にした集団防衛機構であり、メンバー国は条約第5条で極めて強い相互防衛義務が課されている。以下のようだ。
ーーーーー
締約国は、ヨーロッパ又は北アメリカにおける1又は2以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすことに同意する。したがって、締約国は、そのような武力攻撃が行われたときは、各締約国が、国際連合憲章第51条の規定によって認められている個別的又は集団的自衛権を行使して、北大西洋地域の安全を回復し及び維持するためにその必要と認める行動(兵力の使用を含む)を個別的に及び他の締約国と共同して直ちに執ることにより、その攻撃を受けた締約国を援助することに同意する(http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19490404.T1J.html)。
ーーーーー
条文は、あたかもメンバー国が攻撃されたら、他のメンバー国は直ちに武力で援助しなければならないかのように読める。実際はどうか。今回の発端はISの仕業とみられる自爆テロ攻撃、それからトルコ軍兵士が7月23日にISに攻撃され死亡した事件だった。トルコのISに対する空爆は、この報復である。
では、条約が掲げたように、他のNATOメンバー国がトルコを支援したかといえば、していない。NATOはトルコの要請に基づいて緊急理事会を開いて「テロを容認しない。加盟国はトルコと連帯する」という声明を出しただけだ。
いったい何を言いたいか。NATOのように強い相互防衛義務を課した機構でさえも、実際に仲間を武力行使で支援するかどうかとなると、各国が独自に判断し、義務化されているはずの武力を行使しない例もあるのだ。
トルコの例は、いままさに対テロ戦争を戦う世界で起きている現実である。対テロ戦争の主役である米国もNATOのメンバー国だ。だからといって、NATOが米国に引きずられて対IS戦争に組織として参戦しているかといえば、参戦していない。あくまで有志国が米国と一緒に戦っているだけだ。
条約で固く相互防衛義務が課されているはずのNATOメンバー国であっても、実はトルコと米国、欧州がそれぞれ独自の判断に基づいて対応しているのである。それが実際の主権国家と集団的自衛権の関係である。
それに比べて、いまの国会の議論はいったい何なのか。集団的自衛権の限定的行使を容認したら、直ちに米国の戦争に追随せざるを得なくなるといった議論は、言い換えれば「日本に主権はない」と主張するのと同じである。
そういう情けない態度こそが現実離れしているし、子供のような議論ではないか。米国追随論の本質とは、結局のところ「私たちは日本を信用しない」「国民が選んだ政府も信用しない」「だから日本の民主主義も信用しない」「強く自立した日本は望まない」「日本は結局、自立できない」論なのである。そういう議論こそが日本をダメにする。
青山氏は「日本のようなポジティブリストでは、たとえば、自衛隊員が敵とが向かい合った場合、『この場合は相手を撃っていいんだっけ?』と法律を確認しないといけないわけで、その間に全員殺されますよ」
ポジティブリストとは法律に載っていることしかできないという考え方で、ポジティブリストを採用する日本は、安全保障上、自衛隊法や防衛省設置法などの条文に載っていることしかできないことになっている。一方、諸外国では、国際法に沿って「これだけはしてはいけないが、それ以外は全部できる」との、ネガティブリストが主流であるという。
青山氏は従来通りのポジティブリストといえる今回の法案の閣議決定について、「これまで自衛隊の手足を縛っていたが、縛られたまま手足が伸びるだけ」と例え、「根本的には異様な法体系であることには変わらず、余計固定化する」と断言した。
加えて、青山氏は「日本のようなポジティブリストでは、たとえば、自衛隊員が敵とが向かい合った場合、『この場合は相手を撃っていいんだっけ?』と法律を確認しないといけないわけで、その間に全員殺されますよ」
青山繁晴氏が新安保関連法案に警鐘「自衛隊が全員殺されますよ」
番組では、政府が集団的自衛権の限定行使を盛り込んだ、新たな安全保障関連法案を閣議決定したニュースを取り上げた。
ここで番組は、法案成立に疑問を持ったリスナーからのメールを紹介した。このリスナーは「自衛隊法のポジティブリストの項目を増やしただけでは、自衛隊の行動規定が複雑化するように思える。日本の安全保障は、今後国際基準にのっとった形に正常化されるのか」としている。
この質問に対し、青山氏は「国際法に沿って正常化ができるのか? との問いかけについて、できないと言わざるを得ない」とこのリスナーの指摘を肯定した。続けて、青山氏はポジティブリストと、その対概念となるネガティブリストについて説明した。
ポジティブリストとは法律に載っていることしかできないという考え方で、ポジティブリストを採用する日本は、安全保障上、自衛隊法や防衛省設置法などの条文に載っていることしかできないことになっている。一方、諸外国では、国際法に沿って「これだけはしてはいけないが、それ以外は全部できる」との、ネガティブリストが主流であるという。
青山氏は従来通りのポジティブリストといえる今回の法案の閣議決定について、「これまで自衛隊の手足を縛っていたが、縛られたまま手足が伸びるだけ」と例え、「根本的には異様な法体系であることには変わらず、余計固定化する」と断言した。
加えて、青山氏は「日本のようなポジティブリストでは、たとえば、自衛隊員が敵とが向かい合った場合、『この場合は相手を撃っていいんだっけ?』と法律を確認しないといけないわけで、その間に全員殺されますよ」と政府の認識の甘さに警鐘を鳴らし、自衛隊の危機を訴えた。
緊急提言 憲法から9条を削除せよ - 井上達夫(東京大学大学院法学政治学研究科教授)安全保障は憲法になじまない
財政や社会保障などの政策は、憲法自体が先決するのではなく、憲法に従った民主的プロセスによって決定されます。それなのに、なぜ安全保障だけが民主的プロセスに任されず、憲法9条によって先決されているのでしょうか。
緊急提言 憲法から9条を削除せよ - 井上達夫(東京大学大学院法学政治学研究科教授)
憲法を形骸化させ、安全保障論議を妨げる。戦後70年の今こそ問う
今年5月14日、安倍政権は集団的自衛権行使のための自衛隊出動を合憲とみなす閣議決定をおこないました。これは、従来、集団的自衛権行使を違憲としてきた歴代政権(内閣法制局)の立場を変える「解釈改憲」だとして多くの批判を呼びました。6月4日に、衆議院憲法審査会に呼ばれた憲法学者三人が、集団的自衛権を盛り込んだ安保法案を「憲法違反」とコメントし、マスコミなどで大きく取り上げられたことも記憶に新しいでしょう。ここでは、変動する国際環境のなかで日本の安全保障をどうするか、それは日本国憲法で謳われた平和主義、戦争放棄の理念とどう整合するか、といった長年論じられてきた問題が再び繰り返されています。
しかし私がみるところ、むしろ憲法9条の存在こそが護憲派・改憲派双方の自己矛盾と欺瞞を生み、本格的な安全保障論議を妨げてきたと思われます。さらには、立憲民主主義に照らして、そもそも憲法で安全保障政策を定めることは正しいのかという、本質的な問題にもほとんど目が向けられてきませんでした。
私は二十年来の持論として「9条削除論」を唱えてきましたが(『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』〔毎日新聞出版〕、「9条削除で真の『護憲』を」〔「論座」2005年6月号〕など)、誤解曲解もふくめ、議論の全体像が伝わっているとはなかなか言いがたい。
私の議論は、国際社会における武力行使はどこまで正当化可能か、そして民主主義において憲法とはどんな役割を果たすのか、といった法哲学に基づくもので、まっとうなリベラリズムに立脚するものだと自負しています。今回はできるだけわかりやすく、「なぜ9条は削除すべきなのか」を論じてみたいと思います。
「押しつけ農地改革」を何故批判しない?
まず改憲派、護憲派双方の欺瞞から見ていきましょう。「9条を削除せよ」というと、「実質的な改憲論、自衛隊強化論ではないか」という〝誤解〟をしばしば招きますので、改憲派の批判から始めたいと思います。改憲派が憲法改正を求める大きな論拠のひとつは、いわゆる「押しつけ憲法」論です。戦後、占領期の主権喪失の下で、マッカーサー率いるGHQから一方的に憲法草案を押し付けられた。だから、日本国憲法には正統性がない。日本の政治的主体性を回復するためには改憲が不可欠だ―という議論です。「戦後レジームからの脱却」にもつながる議論ですが、本当に改憲派は「押しつけ」を拒否してきたのか、といえば、そうではない。占領軍の「押しつけ」でも自分たちに都合のいいものは大歓迎してきた。その代表的な例が農地改革です。
憲法制定でも、日本側の出した「松本原案」が微温的だったように、日本政府の打ち出した第一次農地改革は地主の大土地所有に抜本的に手をつけるところまではいきませんでした。本格的な農地改革を実現させたのは、マッカーサーが「押しつけ」た第二次のほうです。
これは戦後の日本にとってきわめて重大な改革でした。たとえばフィリピンなどでは、抜本的な土地改革が行えなかったために、大土地所有層の貧農搾取に反発する左翼革命勢力と軍事政権の対立が続き、これが経済的発展を阻んできました。それくらい土地改革は難題なのです。占領軍の強圧的なパワーだったから可能だったという側面がある。また、それによって農村部を中心に保守の安定した票田が形成されたわけです。
だから「押しつけ憲法」は批判する保守派も「押しつけ農地改革」とは言わない。つまり、改憲派は口では「押しつけ拒否」「主体性の回復」を唱えながら、実際には、単に自分たちの意に沿わない政策を変更したいだけではないか。あまりにもご都合主義的な政治的欺瞞がここにはあります。
さらに言えば、たしかに日本国憲法は占領期に制定されたものですが、独立後、いつでも改正できたわけです。しかし、実際には改憲の発議さえなされていない。それは単純に発議しても通らない、国民の支持が得られないと政治的に判断したからに過ぎません。「押しつけ」の不当性は問えても、改正できなかったことの責任まで他人に「押しつけ」るのはおかしいでしょう。
そもそも改憲派が9条を改正する狙いは何か。これは安倍政権の集団的自衛権行使も同様ですが、つまるところ、アメリカへの軍事協力をもっとやりやすくしたいわけです。つまり、対米従属は強まるばかりで、まさしく「主体性の回復」とは正反対の選択にほかなりません。
実は、この点を最も鋭く指摘したのが清水幾太郎でした。彼は60年安保反対闘争で活躍しながら、後には日本核武装論を発表するなどして、転向したと批判されました。しかし、その論理を突き詰めると、主体性なき日米安保を脱却して、日本は自分で自分を守れ、と一貫している。清水の核武装論は、保守派からも「愚劣だ」と批判されましたが、実は「核の傘による対米従属」という保守派の一番痛いところを衝いたからだと思います。
また保守派の間では、今の安保体制は米軍が一方的に日本を守る片務的な関係であり、その不公平を是正しないと日米同盟が揺らいでしまうという議論もありますが、これはまったくの謬論です。アメリカにとって日本は、多くの軍事基地と主要な兵站拠点を提供してくれる代替不能の戦略拠点です。これ以上の利益供与やリスク負担などは必要ない。アメリカが世界の警察官であることをやめ、アジアからも後退していくという議論もありますが、米軍が日本に戦略拠点を確保したいのは、アジアを守るためでも、日本を守るためでもありません。米国自身の国益を守るためなのです。
私自身は、米国への従属を深める集団的自衛権の行使には基本的に反対です。さらにいえば集団的自衛権を行使しようとすると、たとえば冷戦時代のワルシャワ条約機構対NATOのように、敵・味方のラインをあらかじめ引いてしまうことになる。これは非常に危うい。様々な問題はあるものの、ある国が侵略を受けたら、国際社会が一致して守る集団安全保障体制を充実させる方に努力すべきだと考えます。
最大の欺瞞は原理主義的護憲派
改憲派が政治的欺瞞だとすると、護憲派が抱えるのは憲法論的欺瞞です。憲法を擁護しているように見えて、実際は形骸化させてしまっている。改憲派よりも護憲派の欺瞞の方が根深い。護憲派にも二つあって、ひとつは原理主義的護憲派。こちらは「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という9条第二項を字義通り捉え、自衛隊と日米安保は存在自体が違憲だという立場です。
それに対して、修正主義的護憲派は、専守防衛であれば自衛隊も安保も合憲であるという立場で、基本的には歴代の内閣法制局の見解と同じです。
実は、護憲派学者の間では、これまでこの修正主義を表立って言う人は少なかったのですが、近年、衆議院憲法審査会に出席した長谷部恭男さんのように、はっきりこの立場を取るような人たちが出てきました。彼らは自分たちの解釈は正当で、集団的自衛権行使は解釈改憲だと批判する。
しかし、私はこの立場には無理があると思います。よく知られているように、一九四六年の帝国議会憲法改正委員会の席で、野坂参三が、自衛のための戦力まで放棄するのはおかしいではないか、と質問したのに対し、時の吉田茂首相は、自衛のための戦力も放棄したという趣旨だ、とはっきり答弁している。それが冷戦の深刻化、朝鮮戦争などを受けて、米政府の要請で再軍備を果たすのですが、自衛隊のような巨大な武装装置が戦力ではない、というのは、どこをどう曲げても成り立ちません。日米安保に至っては、世界最強の米軍が日本を防衛することを取り決めているわけですから。
つまり「専守防衛の範囲なら」という内閣法制局の見解自体、すでに解釈改憲そのものなのです。つまり、修正主義的護憲派は、自分たちがすでに解釈改憲を行っていながら、違った意見を持つ安倍政権にはそれを許さないと主張している。ダブル・スタンダード以外のなにものでもない。彼らに安倍政権の解釈改憲を批判する資格はありません。修正主義的護憲派の狙いは憲法と現実の乖離の是正ですが、そうであるなら、本当に取り組むべきは「専守防衛に限り戦力を保有する」と明示した「9条改正」でしょう。
私は安倍政権のやり方をみていると、改憲派も、この修正主義的護憲派に「学んでいる」なと感じます。これまでは曲がりなりにも、現実と憲法の矛盾を自覚し、憲法改正という正攻法でそれを正そうとしてきたけれど、「憲法改正などしなくても、解釈改憲でいいじゃないか。そのほうが楽だ」と安易な道を選んでしまった。憲法の都合の悪い部分は単に無視してしまえばいい、と。はっきり言うと、改憲派が修正主義的護憲派のレベルに落ちてしまったわけです。私はリベラルを自認するものですが、この「保守」の劣化を深く憂慮しています。
では、原理主義的護憲派ならばいいのか、といえば、こちらはもっとおかしい。たとえば、次のような議論のどこが変かわかりますか?
〈自衛隊は違憲だと主張し続けることは、専守防衛の枠に抑え込むのに政治的に有効だ〉
これは実際に原理主義的護憲論者が展開している議論なのですが(愛敬浩二『改憲問題』ちくま新書など)、つまり実際に「非武装」が実現可能だなんて、彼ら自身信じていないわけです。専守防衛の自衛隊は違憲だけど必要だから、違憲の烙印を押し続けながら存在させよう、と。要するに、違憲状態の固定化を望んでいる。これの一体どこが護憲なのか。しかも違憲状態固定化容認の姿勢を、いまや世間に公然とばらしている。
彼らはこれを「政治的に賢明な、大人の知恵」だという。私からすれば、おぼっちゃま的な政治的幼児性以外のなにものでもありません。彼らの視点に完全に欠け落ちているのは、たとえば自衛隊員の立場ですよ。「お前らは違憲の存在で、法的には認知してやらないけれど、一朝事あらば命を張って我々を守れ」と言っているに等しい。そういう意味では、私が一番許せないのは原理主義的護憲派ですね。
安全保障は憲法になじまない
私の考えでは、憲法とは、法の支配と民主主義を保障する原理です。特定の政策の押し付けではなく、政策論争を公正に裁断するための民主的政治競争のルール設定と、被差別少数者の人権保障がその本質です。
財政や社会保障などの政策は、憲法自体が先決するのではなく、憲法に従った民主的プロセスによって決定されます。それなのに、なぜ安全保障だけが民主的プロセスに任されず、憲法9条によって先決されているのでしょうか。
もう少し詳しく論じたいと思います。国家のない自然状態というものを想定すると、そこでもめごとが生じると、暴力で決着をつけるしかない。国家とは、この紛争を法廷や議会など言論により決着させるための政治的意思決定システムです。では、どんな争いをこのシステムで決定するのか。人生観や宗教などであれば、単一の見解を政治的決定で押し付ける必要はありません。違いはあっても、それぞれの違いを認めて、自己決定にまかせればいい。
ところが、そうはいかない問題があります。たとえば分配システム。小さな政府で税負担を軽くするのがいいか、福祉国家で大規模な再分配をするのがいいかは、それぞれ勝手にやれ、というわけにはいきません。集団的決定が必要になりますが、その決定に対して、みんなが満足することは期待できない。だからこそ、その決定に反対する者も、変更されるまではそれを「正当性はないけれど正統性のある決定」として尊重できなければならない。
では、この集団的決定の「正統性」の条件は何か。
私は、政策の「正当性」をめぐって対立する立場に対する共通の制約原理となる正義概念があると考えます。難しい哲学的表現になりますが、自己と他者との普遍化不可能な差別の禁止がその核心です。
これは、自分の他者に対する行動や要求は、もし自分が他者だとしても拒絶できないような理由によって正当化可能なものでなければならないという「反転可能性」の要請を含意します。 「集団的決定」とは、政治的競争の勝者の決定を敗者に押し付けることです。しかし、勝者は何をしてもいいわけではない。もし自分が敗者だったとしても、その決定を尊重できるのか、という反転可能性テストに耐えうることが要請される。これが「正統性」の基礎です。
特定の政治勢力が勝者の地位を永続的に独占できるなら、「もし自分が敗者だったら」という問いは無意味化します。したがって勝者と敗者の地位は現実的にも反転可能であることが必要です。これを保障するのが民主主義的選挙制度であり、それによる政権交代です。中国の共産党のように一党独裁で、この反転可能性が確保されていない場合は、正統性を欠くとみなさざるを得ません。
さらに重要な問題は、被差別少数者の存在です。人種的・文化的少数者や同性愛者などは、多数者の偏見に曝され民主的競争の勝者になる見込みは小さい。そうした人々から正統性承認を得るには、民主主義だけでは不十分で、違憲審査制のような司法的人権保障が必要です。
つまり民主的な政治競争のルールと少数者の人権保障により、「敗者でも尊重できる」という反転可能性を現実的に確保することが、政治的決定が正統性を持つための大前提となる。それを保障するのが憲法なのです。憲法は公正な「政争のルール」であって、各党派が自己の政治的選好を実現するために利用する「政争の具」にされてはならない。
だから、私は憲法改正の手続きを定めた九六条のハードルを下げる改正には反対です。時々の選挙の勝者が自分に都合のいいように簡単に憲法を変えられるなら、憲法は公正な政争のルールではなくなり、立憲民主政治の正統性そのものが崩壊します。
こう考えていくと、安全保障のあり方は、憲法で先決せず、民主的プロセスのなかで討議すべき問題です。それは被差別少数者の人権問題を越えた多数者を含む国民全体の利害に関わる政策課題ですから。
国際状況は予測不可能な仕方で激変します。専守防衛を維持したほうがいいのか、集団的安全保障までは認めるのか、集団的自衛権にまで踏み出すのか、どれが今後の日本にとって最適なのかは、誰にも確言はできない。そうしたなかで、ある特定の安全保障観を、憲法によって固定化してしまうことの方がよほど問題ではないでしょうか。
すると、こうした反論が予想されます。安全保障のような高度に専門的な議論を、素人である国民の判断に委ねていいものか、と。護憲派知識人が、安全保障体制を民主的立法だけでなく憲法改正の国民投票に委ねることすら反対するときの論理ですね。これはパターナリズム(家父長的干渉主義)です。要するに国民は愚かで正しい判断は下せないという愚民観がその根底にあります。
これには二つの反論を用意しています。
まず本質論として、安全保障のような国民全体に関わる問題であればあるほど、民主的な討議と決定が求められること。これは帝国陸海軍という「専門家」が安全保障問題を独占していた戦前日本の失敗を想起すべきです。
また、専門家が一般の国民よりも賢明な判断を下しうる、という前提自体が大いに疑わしい。たしかに具体的な戦略・兵站や軍事情報通信システムなど、技術的な問題はプロに任せるべきでしょう。しかし、集団的自衛権行使云々という安全保障体制の基本原理に関して、確実な正解を知る専門家など存在しない。もちろん国民の判断も誤ることはあるでしょう。しかし、民主主義は時間はかかっても失敗をフィードバックし、学びを重ねていけるシステムです。これを私は「我ら愚者の民主主義」と呼んでいますが、専門家・エリートも含め、みな愚かな失敗をするからこそ、失敗とその教訓を次の選択に活かす民主的プロセスに委ねるべきなのです。
ところが、9条の存在は、この問題の国民的討議を回避させています。つまり、「9条の壁」の前に思考停止をしてしまう。現実には自衛隊という精強な軍隊を持ち、世界最大のアメリカとも軍事同盟を結びながら、自分たちは9条を守る平和主義者だという欺瞞に浸る。一方、現状に不満な改憲派も9条叩きで終わってしまい、改憲するだけで自主的でより安全な国防が実現するかのような幻想を抱いている。
現実には死文化しているにもかかわらず、実質的な安全保障論議を妨げるという呪縛力だけ持っている、それが憲法9条なのです。
抑止のための徴兵制が必要
まず憲法9条が位置するのは、絶対平和主義です。しばしば絶対平和主義は平和ボケなどと揶揄されますが、これは誤解です。それはむしろガンジーやマーティン・ルーサー・キングの非暴力抵抗運動にもつながる、最も過酷な選択なのです。不正な侵略には徹底して抵抗しますが、そのときに軍事力は使わない。侵略者と同じ道徳的な堕落を招くからです。いくら殺されようとも、デモやゼネストなどの非暴力で対抗する。これは大変に立派な行いで、自己を律する倫理としては成立するでしょう。しかし、他者に(ともに侵略を受けている仲間も含め)それを強制することはできません。侵略を受けた人たちが、自衛のために武力を使う道を選ぶのを止める権利は誰にもないのです。民主的なプロセスで、この絶対平和主義が選ばれる可能性はほとんどない。しかし、個人としての選択であれば、私は尊重に値すると思います。
似て非なるものに「諦観的平和主義」があります。これは「不正な平和でも、戦争よりまし」というもので、戦後日本でも根強い人気がありました。しかし、これは論理的に破綻しています。この立場では、いかに現状が不正に思えても、それに武力で対抗することは禁止されます。すると、結局は先に既成事実を作れば勝ちとなってしまい、かえって武力行使を招きやすくなるのです。ナチスドイツのチェコ侵略などがこれに近い例でしょう。
第三に、無差別戦争観。これは国益追求の手段として戦争を認めるもので、いわば国家間の決闘のようなものとして戦争を捉える考え方です。
第四が積極的正戦論。これは自分の信じる宗教・道徳・イデオロギーの実現のための武力行使を認めるもので、宗教的聖戦論や現代の体制干渉戦争に見られます。
私はこの四つのどれをも採りません。私の立場は消極的正戦論、すなわち正当な戦争原因を自衛に限る考え方です。この点でだけ言えば、修正主義的護憲派の専守防衛と重なる。ただ大きく違うのは、安全保障体制のあり方は憲法でなく民主的立法で決定し、憲法は「もし戦力を保有するなら徴兵制を採用し、良心的拒否権を保障すべし」という条件付け制約を課すべきだとする点です。
カントは有名な『恒久平和のために』で、平和のための条件のひとつに共和制であることを挙げました。つまり君主制では王が勝手に戦争を始め、そのコストを払うのは国民です。しかし、共和制ならば、戦争が起きたら兵士となって戦場に出る国民自身に決定権がある。自らコストを負うのだから、戦争に慎重になるはずだ、と。
実際にベトナム戦争でのアメリカでは、徴兵制が大きな影響を与えました。戦争の激化とともに、一九六九年に法改正で徴兵制が強化され、マジョリティである白人中間層とその家族を含めて、より多くの市民が戦場に送られるにつれて、反戦運動も拡大激化したのです(新著で、当初は志願制だったとしたのは誤りで訂正します)。
したがって徴兵制は絶対に無差別公平でなければなりません。富裕層だろうと、政治家の家族だろうと徴兵逃れは許されない。開戦決定を左右するエリートとマジョリティ自身に「血を流す」コストを負わせるべきです。
同時に良心的兵役拒否を認める必要があります。先述したように絶対平和主義者の自己決定は尊重する。ただし、良心的拒否権の利己的濫用を抑止するために厳しい代替的役務を課す。非武装で看護の任務に就いたり、消防隊や被災地域の救護活動など、実質的に兵役に等しいリスクを引き受けることがそこでは求められます。
戦後七十年が経ち、日本の安全保障のあり方については、このままでいいのかという問題意識が国民の間にも相当に広がっています。私が言いたいのは、これ以上、憲法9条をめぐる欺瞞的な議論にエネルギーを浪費するのはもうやめにしませんか、ということ。この国の安全保障を決定するのも、そのコストを負うのも、主権者である我々日本国民なのですから。
■プロフィール
いのうえ たつお 1954年大阪市生まれ。東京大学法学部卒。著書に『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版)、『世界正義論』(筑摩書房)など。